第73話 思い出せない日
翌朝。
朝食を食べながら、
私は昨日の手帳のことを考えていた。
あのページだけ、
どうしても気になる。
夫は向かいで新聞を読んでいる。
「ねえ」
「ん?」
「昨日の手帳なんだけど」
夫が新聞から目を上げる。
「何か思い出した?」
「それが、何も」
私は苦笑した。
「でも、予定のところに丸が付いてたの」
「丸?」
「うん」
夫は少し考える。
「仕事の予定じゃないの?」
「たぶんそうだと思う」
「じゃあ、気にしなくてもいいんじゃない?」
「そうなんだけど」
私は箸を置いた。
「何で丸を付けたのか、気になって」
夫はしばらく私を見ていた。
「無理に思い出さなくてもいいだろ」
「分かってる」
そう答えたものの、
やっぱり気になった。
朝食を終えると、
夫は出かける準備を始めた。
玄関で靴を履きながら、
ふと思い出したように言う。
「今日、早く帰れるかもしれない」
「珍しいね」
「昨日遅かったからな」
「そうだった」
夫は笑って、
玄関を出ていった。
ドアが閉まる。
私は洗い物を済ませてから、
昨日の手帳をもう一度開いた。
問題のページ。
予定は三つ。
午前中に取引先との打ち合わせ。
午後に社内会議。
そして夕方に、
見慣れない場所の名前が書いてある。
私はその文字を何度も見る。
「……ここ、どこだっけ」
住所まで書いてある。
スマホで検索すれば、
すぐに分かる。
でも、
なぜか検索する気になれなかった。
手帳を閉じようとした時、
ページの端に小さな文字があるのに気付いた。
急いで書いたのか、
少しだけ字が崩れている。
私は顔を近づける。
そこには、
短い一言だけが書かれていた。
『忘れないこと』
私は手帳を持ったまま、
動けなくなった。
何のことだろう。
仕事のことなのか。
誰かとの約束なのか。
それとも――
私はそこで考えるのをやめた。
もう一度、
その文字を見る。
「忘れないこと……」
声に出してみても、
何も浮かんでこない。
私は手帳を閉じた。
そして、
昨日と同じ箱の中へ戻した。
しばらくして、
スマホが鳴った。
夫からだった。
『今日は少し遅くなる』
私は短く返信する。
『分かった』
送信したあと、
テーブルの上を見る。
さっきまで置いていた手帳は、
もう箱の中にしまってある。
それなのに、
頭の中からは消えなかった。




