第72話 箱の中
棚の奥から、
古い箱を取り出した。
少し埃をかぶっている。
テーブルの上に置き、
蓋を開ける。
中には、
昔使っていた名刺入れや、
会社でもらった資料が入っていた。
その下には、
何枚かの名刺。
私は一枚ずつ手に取っていく。
名前を見ても、
すぐには思い出せないものも多かった。
「あった」
小さく声が出る。
昨日の男性が話していた、
合同研修の名刺だった。
裏返す。
会社名と、
当時の日付が書いてある。
指で日付をなぞる。
「こんな前だったんだ……」
あの頃は、
毎日仕事のことで頭がいっぱいだった。
朝から電話が鳴って、
資料を抱えて走り回って、
帰る頃には何を話したのかも覚えていない日もあった。
名刺を箱に戻そうとして、
一枚だけ手が止まった。
見覚えのある会社名だった。
昨日の男性の会社とは違う。
でも、
なぜか気になった。
私はもう一度、
名刺を表に返す。
その会社名を見ながら、
昔の記憶を探す。
誰だっただろう。
どこで会った?
思い出せない。
結局、
名刺をテーブルの上に置いた。
その横には、
昔の手帳があった。
ページを開く。
仕事の予定が細かく書き込まれている。
打ち合わせ。
電話。
研修。
出張。
今見ると、
よくこんなに詰め込んでいたと思う。
ページをめくっていると、
ある日の予定で手が止まった。
そこだけ、
予定の横に小さく丸が付いていた。
何の予定だったのか。
書いてある文字を見ても、
思い出せない。
私はしばらくそのページを見つめた。
その時、
玄関のドアが開いた。
「ただいま」
夫の声だった。
私は慌てて手帳を閉じる。
「おかえり」
「何してた?」
夫がリビングへ入ってくる。
テーブルの上を見て、
古い箱に気付いた。
「それ?」
「昔の仕事のもの」
「見つかった?」
私は名刺を一枚持ち上げた。
「うん」
夫は近づいてくる。
「昨日の人の?」
「違う」
私は首を振る。
「でも、同じ頃のもの」
夫は名刺を見る。
「懐かしい?」
「……分からない」
そう答えると、
夫はそれ以上聞かなかった。
「夕飯、何か買ってくる?」
「冷蔵庫にあるよ」
「じゃあいいか」
夫はキッチンへ向かう。
私はもう一度、
手帳を見た。
さっきのページだけ、
なぜか閉じることができなかった。




