第45話 母は母だった
玄関のチャイムがもう一度鳴る。
私はしばらく動けなかった。
「なんで……」
思わず呟く。
母は実家からそう近くない。
連絡もなしに来るような人でもない。
夫が立ち上がった。
「出るよ」
「待って」
そう言った時には、
もうドアが開いていた。
そこに立っていたのは、
やっぱり母だった。
私を見るなり、
開口一番。
「顔色悪いじゃない」
私は拍子抜けした。
ニュースのことを言われると思っていた。
仕事のことを責められると思っていた。
でも母が最初に見たのは、
ニュースじゃなくて私だった。
リビングに入ると、
母はテーブルの上を見回した。
食べ終わった夕飯。
飲みかけの味噌汁。
そして私。
「ちゃんと食べてる?」
夫が苦笑する。
「僕も同じこと聞きました」
母は小さく頷いた。
「でしょうね」
私はため息をつく。
「子どもじゃないんだから」
すると母は即座に返した。
「子どもじゃないから心配なのよ」
私は言葉を失った。
母はバッグの中を探り、
一冊の手帳を取り出した。
見た瞬間、
心臓が止まりそうになった。
「あ……」
それは、
私が前の会社にいた頃の手帳だった。
「実家の棚から出てきた」
母が言う。
私は思わず手を伸ばした。
でも母は渡さない。
パラパラとページをめくる。
会議。
出張。
締切。
打ち合わせ。
予定がびっしり並んでいた。
夫が隣から覗き込み、
小さく息を飲む。
母はあるページで手を止めた。
「倒れる三日前」
私は動けなくなる。
母はそのページを私に向けた。
そこには、
自分でも忘れていた文字が残っていた。
⸻
『最近、夫と何を話したか思い出せない』
⸻
部屋が静まり返る。
私はその文字から目を離せなかった。
隣の夫も何も言わない。
昔の私が書いた言葉なのに、
まるで今の私に向けられているみたいだった。
母が静かに手帳を閉じる。
「ねえ」
私は顔を上げる。
母はまっすぐ私を見ていた。
「今のあんた、本当に大丈夫?」
私はすぐに答えられなかった。
なぜなら、
その質問を一番自分に聞きたかったのは、
私自身だったから。




