第36話 戻る気ないか
『お前、うち戻る気ないか?』
頭が真っ白になる。
私はしばらく言葉が出なかった。
会議室の時計の音だけが、
やけに大きく聞こえる。
「……冗談ですよね」
やっとそれだけ返す。
すると電話の向こうで、
上司が小さく笑った。
『冗談でお前に電話しない』
昔と変わらない声だった。
穏やかなのに、
逃げ道を塞いでくる話し方。
私は無意識に奥歯を噛む。
『今、お前がやってる案件』
上司が続ける。
『かなり面倒なことになってるぞ』
私は何も答えない。
『メインテナントだけじゃない。まだ出る』
胸がざわつく。
佐伯がこちらを見ていた。
私はスマホを少し耳から離す。
でも切れなかった。
「……何が目的ですか」
低く聞く。
すると上司はあっさり言った。
『助けてやろうと思ってる』
その言葉に、
思わず笑いそうになる。
昔もそうだった。
この人はいつも、
“助ける”って顔で人を使う。
『お前、昔より顔が丸くなったらしいな』
私は固まる。
『主婦やってるって聞いた時、驚いたよ』
背筋が冷える。
どこまで知ってるのか分からない。
『でも結局戻ってきた』
上司の声が少し低くなる。
『お前はああいう場所じゃないと生きられない』
私は反射的に言い返した。
「違います」
会議室が静かになる。
佐伯まで動きを止めていた。
私はスマホを強く握る。
「私は、もう——」
そこまで言って、
言葉が詰まる。
もう戻らない。
そう言いたかった。
でも、
昨日からずっと仕事のことばかり考えている自分がいた。
問題を見つけると、
放っておけない自分がいた。
電話の向こうで、
上司が小さく笑う。
『だったら証明してみろ』
嫌な沈黙。
『その案件、お前一人で立て直してみせろよ』
その瞬間。
会議室のドアが勢いよく開いた。
若手社員が飛び込んでくる。
「大変です!」
息を切らしている。
「フェリクス側、社長まで来ました!」
私は顔を上げる。
社員は青ざめたまま続けた。
「しかも……かなり怒ってます」
電話の向こうで、
上司が笑った。
『ほら、始まった』
私はゆっくりスマホを下ろす。
胸の奥が嫌に静かだった。
怖い。
なのに、
頭だけは妙に冷えていく。
昔みたいに。




