第32話 会いたくなかった人
会議室へ向かう途中、
私は何度も資料を見返していた。
撤退予定テナント。
——株式会社フェリクス。
名前を見た瞬間から、
嫌な汗が止まらない。
昔、
私が切った会社だった。
正確には、
切るしかなかった。
当時の再建案件で、
赤字が大きすぎた。
残せば全部が共倒れになる。
だから私は、
最後にフェリクスとの契約を外した。
結果、
ショッピングモールは立て直せた。
でも——
フェリクスはその後、
地方店舗を何件も閉めた。
私は駅のホームで目を閉じる。
あの時の社長の顔を思い出していた。
『本当に、それしかなかったんですか』
静かな声だった。
怒鳴られた方が、
まだ楽だった。
会社へ着く。
エレベーターの中で、
佐伯が小さく言った。
「顔色悪いですよ」
私は苦笑する。
「最悪の相手だっただけ」
佐伯は少し眉を動かした。
でもそれ以上は聞かなかった。
会議室の前には、
すでに数人の社員が集まっていた。
妙に静かだった。
誰も雑談していない。
資料を持つ手だけが落ち着かなく動いている。
私はドアへ手をかける。
その瞬間。
「久しぶりですね」
後ろから声がした。
体が止まる。
ゆっくり振り返る。
黒いスーツ。
鋭い目。
そして、
昔と変わらない低い声。
フェリクスの常務だった。
私を見る目に、
笑顔はない。
「あなたがいるって聞いて、驚きました」
私は何も言えない。
喉が少し乾く。
常務は淡々と続ける。
「また切るつもりですか」
胸の奥が重く沈む。
周囲の空気が静かに張りつめる。
でも今回は、
誰も何も言わなかった。
ただ、
全員がこちらを見ている。
私はゆっくり息を吸う。
逃げたくなった。
帰りたくなった。
でも、
ここで目を逸らしたら、
多分もう終わる。
私は常務をまっすぐ見た。
そして静かに言う。
「今回は、切りません」
常務の目が細くなる。
「信用できると思いますか」
すぐには答えられなかった。
信用されないのは当然だった。
昔、
切り捨てたのは私だから。
数秒の沈黙。
そのあと、
私は小さく頭を下げた。
「……あの時は、すみませんでした」
会議室の空気が止まる。
後ろで、
誰かが小さく息を呑んだ。
多分、
誰も想像していなかった。
あの女が、
頭を下げるなんて。




