第30話 まだ、間に合うなら
「また、あの時みたいになるのが怖い」
言葉にした瞬間、
胸の奥に溜まっていたものが少しだけ崩れた。
私は視線を落とす。
リビングには、
テレビの音だけが流れていた。
夫はすぐには何も言わない。
その沈黙が、
少し怖かった。
やっぱり話さなければよかったかもしれない。
そう思い始めた時だった。
「……一人だったんだな」
夫が静かに言った。
私は顔を上げる。
夫は怒っていなかった。
責めてもいない。
ただ、
少し苦しそうだった。
「その時のお前」
小さな声。
「誰にも頼れなかったんだろ」
胸が強く揺れる。
私は言葉を失った。
昔の私は、
弱いところを見せるのが嫌だった。
期待されるほど、
“ちゃんとしなきゃ”と思っていた。
だから、
限界が来るまで誰にも言えなかった。
「……迷惑かけたくなかった」
やっとそれだけ言う。
すると夫は苦く笑った。
「それ、今も同じ顔してる」
私は息を止める。
夫はソファにもたれ、
しばらく天井を見ていた。
「俺さ」
静かな声。
「ずっと分かんなかったんだよ」
私は夫を見る。
「なんでお前が、そこまで仕事を怖がるのか」
胸の奥が少し痛む。
私はずっと、
“普通”に戻りたかった。
朝起きて、
ご飯を作って、
夫を送り出して、
静かに暮らす。
もう二度と、
壊れたくなかったから。
「でも今日、会社のお前見て」
夫が小さく笑う。
「ちょっと分かった気がする」
私は黙って聞いていた。
「多分お前」
そこで夫は言葉を選ぶ。
「仕事、嫌いじゃないんだな」
その瞬間、
胸が強く締めつけられた。
私はすぐに否定できなかった。
会社で問題を整理している時。
止まりかけていたものが動く瞬間。
誰かが安心した顔をする時。
苦しいのに、
どこかで自分が生き返っていく感覚がある。
それを、
私は知っている。
「……分かんない」
小さく答える。
すると夫は少しだけ笑った。
「じゃあ、急いで答え出さなくていい」
私は顔を上げる。
夫は静かに続けた。
「ただ」
その声が少し真剣になる。
「今度は、一人で壊れるな」
胸の奥が熱くなる。
私は何も言えなかった。
夫は立ち上がり、
キッチンへ向かう。
「コーヒー飲む?」
いつもの声だった。
その普通の声に、
私は少しだけ救われる。
でも同時に、
怖くもなる。
もしまた仕事に戻っていったら。
この“普通”を、
私は守れるんだろうか。
その時、
テーブルの上のスマホが震えた。
会社からだった。
表示された名前を見て、
私は動きを止める。
——佐伯。
メッセージは短かった。
『明日、先方が直接来ます』
その一文を見た瞬間。
胸の奥で、
また昔の自分が目を覚ます音がした。




