第29話 あの日、壊れた
リビングには、
テレビの音だけが流れていた。
夫は何も急かさない。
ただ静かに、
私の言葉を待っている。
私はしばらく視線を落としていた。
何から話せばいいのか分からなかった。
昔のことは、
なるべく思い出さないようにしてきたから。
「……最初は普通だったの」
やっと声を出す。
夫が静かに顔を上げた。
「仕事も、嫌いじゃなかった」
私は小さく笑う。
問題を整理して、
止まっていたものが動き出す瞬間が好きだった。
揉めていた取引先が、
最後に「ありがとう」って言って帰る時、
少しだけ報われた気がした。
「最初は、小さい案件ばっかりだったよ」
赤字店舗の立て直し。
人が辞め続ける現場の改善。
クレーム対応。
毎日終電だったけど、
その頃はまだ平気だった。
でも、
ある案件から全部変わった。
地方のショッピングモールだった。
オープン半年前なのに、
工事は止まり、
テナントも次々撤退していた。
私は当時の資料を思い出す。
机いっぱいに並んだ契約書。
深夜でも鳴り続ける電話。
会議室の灰皿に積もっていた吸い殻。
「もう無理だって、みんな言ってた」
私は静かに呟く。
「ここから立て直すのは無理だって」
夫は黙って聞いていた。
「でも私は、止めたくなかった」
あの場所を。
そこで働く予定だった人たちを。
開業を信じて待っていた店を。
全部なくなるのが嫌だった。
だから、
家でもずっと資料を見てた。
食事中も電話して、
夜中に会社へ戻って、
気づいたら朝になってた。
私は少し目を閉じる。
あの頃、
家に帰っても頭の中は仕事だった。
夫が話しかけてくれても、
ちゃんと聞けていなかったと思う。
「その頃からかな」
私は苦く笑った。
「周りが変な呼び方し始めたの」
再建の女王。
その名前を口にした瞬間、
胸の奥が少し冷えた。
嬉しかったわけじゃない。
でも、
期待されると断れなかった。
会議で名前を呼ばれる回数が増えた。
部長は判断に迷うたび、
私を見るようになった。
気づけば、
私の机にだけ資料が積まれていた。
「大丈夫だと思ってたの」
私はソファの端を握る。
寝れてなくても。
食べれてなくても。
少しくらい苦しくても。
やれると思っていた。
でも、
ある朝。
玄関で靴を履いたまま、
動けなくなった。
会社へ行かなきゃいけないのに、
涙だけが止まらなかった。
呼吸が苦しくて、
立てなかった。
「……何もできなかった」
部屋が静かになる。
テレビの音だけが遠かった。
夫はゆっくり目を伏せる。
多分、
あの日を思い出している。
私が突然会社へ行けなくなった日のことを。
私は小さく息を吐いた。
「だから怖いの」
夫が顔を上げる。
私はやっと、
ずっと言えなかった本音を口にした。
「また、あの時みたいになるのが怖い」




