第3話 戻る理由
「その名前は——」
彼が口にした瞬間、思考が止まった。
どうして、その人が。
喉がひりつく。
「……冗談、ですよね」
かろうじて出た声は、自分でも驚くほどかすれていた。
『冗談でこんな電話はしません』
短い返答。
それだけで、現実だと分かった。
私はゆっくりと椅子に腰を下ろす。
——あの人が、崩れかけている?
信じたくなかった。
でも。
「……状況、教えてください」
さっきよりも低い声が出た。
自分でも分かる。
頭が、切り替わっている。
『資金繰りは限界です』
『信用もほぼ失っています』
『このままなら——一週間以内に終わります』
簡潔すぎる説明。
でも、十分だった。
私は目を閉じる。
一週間。
普通なら、もう手遅れ。
——でも。
「まだ間に合う」
自然に口から出た。
電話の向こうで、息をのむ気配。
『……本当ですか?』
「条件があります」
間を置かずに言う。
『なんでしょう』
「私のやり方に、口出ししないこと」
沈黙。
数秒。
『……分かりました』
即答ではなかった。
でも、迷いはなかった。
それで十分だった。
「あと一つ」
『はい』
「現場の情報、全部ください」
頭の中で、もう流れが組み上がっている。
何を切るか。
何を残すか。
誰を動かすか。
——全部、見えていた。
電話の向こうで、小さく息を吐く音。
『……やはり、あなたに頼んで正解でした』
その言葉に、わずかに胸がざわつく。
——もう、戻らないはずだったのに。
「明日、会いましょう」
言った瞬間、引き返せなくなったと分かった。
電話を切る。
静かな部屋。
でも、さっきまでとは全然違う。
そのとき。
「また何かやる気か?」
背後から、夫の声。
振り向くと、露骨に嫌そうな顔をしている。
「余計なことして、また面倒になるなよ」
一瞬だけ、言葉が詰まる。
——前なら、黙っていた。
でも。
「……もう、関係ないでしょ」
自分でも驚くくらい、はっきり言っていた。
夫の表情が変わる。
「は?」
「これは、私の問題だから」
静かに言う。
空気が一瞬で張り詰めた。
でも、不思議と怖くなかった。
むしろ——
少し、楽だった。
私は視線を外し、スマホを握り直す。
——戻る。
一度だけ。
そう思ったはずなのに。
もう分かっている。
これは、そんな簡単な話じゃない。
そして——
明日会うその人は、
きっと、私が知っているままではいない。




