第2話 忘れられない名前
読んでいただきありがとうございます。
第2話です。
「……あなたに、もう一度お願いしたい」
その一言のあと、しばらく沈黙が続いた。
私は、言葉を失っていた。
——なぜ今さら。
そう思ったのに、声には出せなかった。
『突然で驚かせてしまったことは分かっています』
電話の向こうの男は、落ち着いた調子で続ける。
『ですが、あなた以外に頼める人がいないんです』
胸の奥が、わずかに痛んだ。
そんなふうに言われたの、いつぶりだろう。
「……もう、あの仕事はやっていません」
ようやく絞り出した言葉は、自分でも驚くほど弱かった。
『知っています』
即答だった。
『それでも、あなたにしかできない』
その言い方は、昔と何も変わっていなかった。
人を追い詰めるようでいて、逃げ場を与えない——そんな言葉。
私は、思わず目を閉じる。
思い出したくない光景が、頭をよぎった。
あの頃の自分。
あの場所。
そして——最後に、すべてを手放した日のこと。
「……どうして、私なんですか」
やっとそれだけを聞くと、相手は少しだけ間を置いた。
『崩れかけているんです』
短い言葉だった。
『このままだと、取り返しがつかなくなる』
その声には、わずかな焦りが混じっていた。
私は無意識に、テーブルの端を握りしめていた。
まただ。
また、同じ状況。
誰かの人生が、崩れようとしている。
——でも、それはもう私の役目じゃない。
そう言い聞かせた、そのとき。
「まだ電話してるのか?」
背後から、夫の声がした。
振り向くと、不機嫌そうな顔でこちらを見ている。
「誰だよ、そんな長電話」
私は一瞬、答えに詰まった。
「……仕事の、知り合い」
とっさにそう言うと、夫は眉をひそめた。
「は? お前に仕事の知り合いなんているのか?」
その言葉は、思っていたよりも深く刺さった。
何も言い返せない自分が、悔しかった。
夫はため息をつくと、そのままリビングに戻っていった。
静けさが戻る。
電話の向こうも、何も言わなかった。
全部、聞こえていたはずだ。
それでも——
『……やはり、あなたしかいない』
その一言だけが、静かに返ってきた。
私は、唇を噛んだ。
——やめたはずなのに。
——もう関わらないと決めたのに。
それでも。
胸の奥で、何かが動き出していた。
「……内容だけ、聞かせてください」
気づいたときには、そう言っていた。
電話の向こうで、わずかに息をのむ気配。
そして——
『ありがとうございます』
その声には、確かな安堵があった。
私は、その言葉に小さく後悔した。
——一度踏み込めば、もう戻れない。
それを、私はよく知っている。
『では、まずお伝えします』
少し間を置いて、彼は続けた。
『今回の件ですが——』
私は、無意識に息を止めた。
次の言葉で、すべてが変わる気がした。
『対象は——あなたの、よく知る人物です』
「……え?」
思わず声が漏れる。
よく知る人物?
頭の中で、いくつもの顔が浮かんでは消えた。
その中のひとつに、嫌な予感が重なる。
そして彼は、はっきりと名前を口にした。
その瞬間——
私は、何も言えなくなった。
その名前は——
今、私が一番関わりたくない人のものだった。
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