第25話 知らなかったわけじゃない
夫の言葉が、
頭から離れなかった。
『また、お前がいなくなる気がする』
私は何も返せないまま、
その夜ほとんど眠れなかった。
朝。
キッチンに立ちながら、
私はぼんやりコーヒーを見つめていた。
夫はいつも通り新聞を読んでいる。
静かな朝。
でも、
昨日までと少し空気が違った。
「今日、早い?」
夫が聞く。
私は一瞬だけ止まる。
会社では今日、
佐伯との打ち合わせがある。
多分、
簡単には終わらない。
でも私は、
すぐに答えられなかった。
その沈黙だけで、
夫は察したみたいだった。
「……そっか」
小さく笑う。
責めない。
でもその笑顔が、
少し苦しかった。
「ごめん」
また、
そんな言葉が出る。
すると夫は新聞を閉じて、
静かにこちらを見た。
「なあ」
私は顔を上げる。
夫は少し迷うように言葉を選んでいた。
「俺、本当に反対してるわけじゃないからな」
胸が小さく揺れる。
「お前が楽しそうなの、ちゃんと分かるし」
私は息を止める。
楽しそう。
最近、
何度も言われる言葉。
自分では認めたくないのに。
「でも」
夫は少しだけ目を伏せた。
「また全部、自分だけで抱えそうで怖い」
その声は、
思ったよりずっと弱かった。
私は言葉を失う。
昔、
夫は何度も私を止めようとしていた。
「休め」
「今日は帰れ」
「もう十分頑張ってる」
でも当時の私は、
全部聞こえないふりをしていた。
結果、
最後に壊れた。
一番つらい思いをしたのは、
きっと私だけじゃない。
「……ごめん」
私はまたそう言ってしまう。
すると夫は苦笑した。
「だから謝るなって」
でも次の瞬間。
「俺、お前がまた急に笑えなくなるの、見たくない」
空気が止まった。
私はゆっくり目を閉じる。
昔、
私はある日突然、
何も感じられなくなった。
仕事をしていても、
家にいても、
ただ苦しかった。
夫はその時の私を知っている。
だから今、
少しずつ昔に戻っていく空気に気づいている。
「……大丈夫」
私は小さく言った。
でもその言葉に、
自分でも自信が持てなかった。
会社へ向かう電車。
私は窓の外を見つめる。
スマホが震えた。
佐伯からだった。
『今日、多分長くなります』
私は画面を見る。
昔なら、
こういうメッセージを見るだけで頭が切り替わっていた。
家より仕事。
生活より案件。
全部そうなっていった。
でも今は違う。
違うはずなのに。
私はスマホを閉じる。
その瞬間、
夫が朝に言った言葉が蘇る。
『知らなかったわけじゃない』
私は小さく息を止めた。
——夫は最初から気づいていたんだ。
私が、
少しずつ戻り始めていることに。




