第22話 隠したくなかった
『まだ会社?』
夫の声が、
胸に静かに落ちる。
私は一瞬だけ目を閉じた。
佐伯が向かいで黙っている。
その状況が、
妙に後ろめたかった。
「……ううん」
私は小さく答える。
「今、帰るところ」
夫が少し安心したように息を吐く。
『そっか。よかった』
私は言葉に詰まる。
本当は、
会社の人と話している。
しかも、
昔の私を知っている相手と。
なのに私は、
それを言えなかった。
「ごめん、ちょっと遅くなる」
『分かった。待ってる』
優しい声だった。
だから余計に苦しい。
電話が切れる。
静かな沈黙。
私はスマホを握ったまま、
視線を落とした。
すると佐伯が低く言う。
「隠すんですね」
胸が小さく揺れる。
私は反射的に顔を上げた。
「別に隠してるわけじゃ——」
「じゃあ、なんで言わないんですか」
言葉が止まる。
私は何も返せなかった。
佐伯はコーヒーに視線を落としたまま続ける。
「あなた、昔もそうでしたよね」
「全部一人で抱えて」
「周りには平気な顔して」
私は唇を噛む。
昔の話なんて、
もうされたくなかった。
「……もう終わったことだから」
小さく言う。
すると佐伯はゆっくり首を横に振った。
「終わってません」
その声は静かだった。
でも、
はっきりしていた。
「あなた、自分が壊れた理由、ちゃんと分かってない」
空気が止まる。
私は息を飲む。
壊れた理由。
そんなの決まってる。
働きすぎたから。
期待されすぎたから。
でも——
本当にそれだけだったんだろうか。
「あなた」
佐伯がこちらを見る。
「誰にも頼らなかったでしょう」
胸の奥が強く揺れる。
私は視線を逸らす。
図星だった。
昔の私は、
全部自分でやらなきゃいけないと思っていた。
弱いところを見せたら終わりだと思っていた。
だから、
最後まで笑っていた。
壊れる直前まで。
「……帰る」
私は立ち上がる。
これ以上、
昔を掘り返されたくなかった。
でも佐伯は引き止めなかった。
ただ、
静かに言った。
「旦那さん、大事にしてください」
私は動きを止める。
「今のあなたを守れるの、多分あの人だけです」
胸が苦しくなる。
私は何も返せないまま、
店を出た。
夜風が冷たい。
駅までの道を歩きながら、
私はスマホを見る。
夫からまたメッセージが来ていた。
『気をつけて帰ってこいよ』
その一文を見た瞬間、
急に泣きそうになる。
私は立ち止まった。
昔の私は、
仕事しか見えていなかった。
でも今は違う。
失いたくないものがある。
なのに、
仕事に戻るほど、
少しずつ自分が変わっていく。
その感覚が、
何より怖かった。
家の灯りが見える。
私は深く息を吸って、
玄関のドアを開けた。
「……ただいま」
そう言った瞬間。
夫が私の顔を見て、
静かに言った。
「今日、泣いた?」




