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夫に「ただの主婦」と言われた私、実は誰かの人生を変えていた  作者: すみれ


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第19話 昔の名前

翌朝。


会社の空気はいつもと違っていた。


「先方、かなり厳しいらしいです」


「担当、直接来るんですよね……?」


朝から小さな緊張が広がっている。


私は席に座ったまま、


静かにパソコンを開いた。


昨夜のメールが頭から離れない。


『先方の担当、佐伯です』


偶然とは思えなかった。


いや、


あの人なら多分、


最初から気づいていた。


私がここにいることを。


「おはようございます」


後輩が小さな声で挨拶する。


いつもより顔が硬い。


私は少しだけ笑った。


「そんなに緊張しなくても大丈夫」


そう言うと、


後輩は困ったように笑う。


「でも、部長かなり焦ってます」


私は視線を落とす。


その時。


「……来た」


誰かが小さく呟いた。


空気が止まる。


エレベーターの音。


ゆっくり近づく足音。


私は無意識に指先へ力を入れていた。


そして、


会議室のドアが開く。


スーツ姿の男。


やっぱり佐伯だった。


周囲の社員たちが立ち上がる。


部長が緊張した声を出す。


「本日はお時間いただき——」


「単刀直入に話します」


佐伯が遮る。


空気がさらに張りつめる。


私は黙ったまま資料を見ていた。


佐伯は周囲を一度見渡し、


静かに言った。


「今回の件、このままだと契約は切ります」


部屋が静まり返る。


部長の顔色が変わった。


後輩たちも息を呑んでいる。


でも私は、


佐伯の視線が別の場所に向いていることに気づいていた。


——こっちを見てる。


「理由は単純です」


佐伯が続ける。


「こちらの話を理解してる人間が、一人もいない」


部長が言葉を詰まらせる。


私は小さく目を閉じた。


昔と同じだ。


この人はいつも、


容赦なく核心を突く。


「もちろん改善案はあります」


佐伯が資料を机に置く。


「ただし」


その瞬間。


彼が初めて、


真っ直ぐ私を見た。


「あなたが入るなら、ですが」


空気が止まった。


会議室中の視線が、


一斉に私へ向く。


部長が目を見開く。


後輩も固まっている。


私はゆっくり顔を上げた。


佐伯は静かな声で続ける。


「あなたなら、この案件の本当の問題点が分かってるはずだ」


胸の奥が強く鳴る。


やめてほしかった。


ここで、


昔の私を引きずり出さないでほしかった。


私はただのパートだ。


普通の主婦だ。


そうやって生きていきたかったのに。


「……買いかぶりです」


私は低く言う。


でも佐伯は視線を逸らさない。


「じゃあ聞きます」


会議室の空気が凍る。


そして彼は、


静かに言った。


「この案件、どこから崩れてますか」


沈黙。


誰も話せない。


私は資料を見る。


数字。


メール履歴。


会議記録。


全部が一瞬で繋がる。


頭の中で、


答えが完成してしまう。


——嫌だった。


この感覚が戻るのが。


でも、


もう気づいてしまった。


私はゆっくり息を吸う。


そして、


静かな声で言った。


「最初に壊れたのは、“信頼”です」


その瞬間。


佐伯が初めて、


小さく笑った。

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