第18話 帰りたくないわけじゃない
電車の窓に映る自分の顔を、
私はぼんやり見つめていた。
『もう、なり始めてますよ』
佐伯の言葉が、
頭から離れない。
私は小さく息を吐く。
違う。
昔とは違う。
今の私は、
ちゃんと帰る場所がある。
守りたい生活もある。
もう、
あの頃みたいには——
スマホが震えた。
夫からだった。
『気をつけて帰ってこいよ』
短いメッセージ。
私は画面を見たまま、
少しだけ胸が苦しくなる。
優しい。
だから余計に、
今の自分を見せづらい。
家に着く。
玄関の灯りがついていた。
「ただいま」
そう言うと、
夫がリビングから顔を出した。
「おかえり」
いつもの声。
いつもの空気。
それなのに、
今日は少しだけ落ち着かない。
私は視線を逸らしながら靴を脱ぐ。
夫がふと聞いた。
「なんかあった?」
胸が止まる。
私はすぐに笑った。
「何もないよ」
でも夫は黙ったまま、
しばらく私を見ていた。
昔から、
この人はこういう時だけ妙に鋭い。
「……仕事のこと?」
私は一瞬だけ迷う。
佐伯のことを言うべきか。
でも、
うまく説明できる気がしなかった。
過去の会社。
壊れる寸前だった自分。
そんな話、
今の穏やかな生活に持ち込みたくなかった。
「ちょっと疲れただけ」
そう答える。
夫は少しだけ笑った。
「最近、よくそう言うな」
私は言葉を失う。
食卓に座る。
温かい味噌汁の湯気。
テレビの音。
静かな部屋。
私はこの空気が好きだった。
競争も、
数字も、
責任もない生活。
やっと手に入れたはずなのに。
「今日さ」
夫が箸を置きながら言った。
「前の会社の人に会った?」
私は顔を上げる。
心臓が強く鳴った。
「……なんで」
夫は少し困ったように笑う。
「いや、顔」
「昔の仕事してた時みたいだったから」
空気が静かに止まる。
私は何も言えなかった。
夫は責めているわけじゃない。
でも、
少し不安そうだった。
その表情を見た瞬間、
胸が締めつけられる。
私は、
この人と穏やかに生きたかった。
普通の毎日を守りたかった。
なのに今、
少しずつ昔の自分が戻ってきている。
「……ごめん」
また、
そんな言葉が出る。
夫は苦笑した。
「だから謝るなって」
そう言って笑う。
でもその笑顔が、
少しだけ寂しそうに見えた。
その夜。
夫が寝たあと、
私は一人でキッチンに立っていた。
静かな部屋。
冷蔵庫の音だけが響く。
私はスマホを開く。
会社のメール。
部長からだった。
『先方、明日直接来るそうです』
私は画面を見つめる。
嫌な予感がした。
そして次の一文を見た瞬間、
指先が止まる。
『先方の担当、佐伯です』




