第15話 知らない顔
玄関のドアを開けると、
部屋の中は静かだった。
時計を見る。
二十時過ぎ。
パートを始めてから、
こんな時間に帰るのは初めてだった。
「……ただいま」
少し小さな声になる。
リビングの灯りがついていた。
夫がソファから顔を上げる。
「おかえり」
怒っている感じではなかった。
でも、
どこか少しだけ空気が違う。
私は鞄を置きながら言った。
「ごめん、遅くなった」
夫は首を横に振る。
「仕事なら仕方ないだろ」
優しい声。
その優しさに、
逆に胸が苦しくなる。
テーブルを見る。
ラップのかかった夕飯。
私は視線を止めた。
「待ってたの?」
すると夫が少し笑う。
「まあ、一応」
私は言葉を失う。
前までなら、
こんなことなかった。
私はずっと家にいて、
夫の帰りを待つ側だったから。
立場が少し変わっただけなのに、
家の空気まで変わった気がした。
「温めるよ」
私は慌ててキッチンへ向かう。
でもその時。
「最近、仕事楽しい?」
背後から夫の声。
私は動きを止めた。
最近、
何度も聞かれる質問。
でも今日は、
少し意味が違う気がした。
私は振り返る。
夫は私を見ていた。
何かを確かめるみたいに。
「……普通だよ」
そう答える。
でも夫は苦笑した。
「普通、って顔じゃない」
胸が小さく揺れる。
私は視線をそらす。
夫が続けた。
「最近さ」
「仕事の話してる時、前より楽しそう」
その言葉が、
静かに刺さる。
私は何も言えなかった。
自分では気づいていなかった。
でも——
今日、
資料を読んでいた時。
問題点を整理していた時。
久しぶりに、
頭がはっきり動く感覚があった。
昔みたいに。
「……そんなことないよ」
小さく否定する。
でも夫はしばらく黙ったあと、
静かに言った。
「なんか、知らない顔する時ある」
空気が止まる。
私は夫を見る。
怒ってはいない。
責めてもいない。
ただ、
少し不安そうだった。
その顔を見た瞬間、
胸の奥が苦しくなる。
私は、
この人と穏やかに暮らしたくて、
今の人生を選んだ。
もう競争しなくていいように。
もう壊れなくていいように。
なのに今、
少しずつ昔の自分が戻ってきている。
「ごめん」
気づけばまた、
そう言っていた。
夫は困ったように笑う。
「だから、なんで謝るんだよ」
私は答えられない。
その時、
スマホが震えた。
画面を見る。
会社の後輩からだった。
『すみません、資料の件で確認したいです』
私は一瞬だけ止まる。
夫の視線を感じた。
前なら、
家に仕事を持ち込まなかった。
絶対に。
でも今は、
気づけばスマホを開いている。
その瞬間。
夫が小さく目を伏せた。
本当に小さな変化だった。
でも私は、
その表情を見逃せなかった。




