第14話 久しぶりの残業
「行ってきます」
朝。
私はいつも通り玄関で靴を履く。
夫がキッチンから顔を出した。
「今日も仕事?」
「うん。昼までだけの予定」
そう答える。
本当だった。
この仕事は、
元々“少しだけ社会復帰してみよう”くらいのつもりだった。
子育ても落ち着いて、
家にいる時間が増えて。
だから軽い気持ちで始めた、
普通の事務パート。
——そのはずだった。
「無理すんなよ」
夫がコーヒーを飲みながら言う。
私は小さく笑って頷いた。
前までなら、
それで終わっていた。
でも最近、
夫は時々、
私の顔をじっと見るようになった。
何かを確認するみたいに。
会社に着く。
私は周囲に紛れるように静かに席へ向かった。
本当は、
目立ちたくない。
ただ普通に働きたい。
それだけだった。
「おはようございます!」
後輩が頭を下げる。
前より少し距離が近い。
噂されているのも分かっていた。
——昨日の会議。
——部長の態度。
——私の過去。
全部、
少しずつ広がり始めている。
その時。
「悪い、ちょっといいか」
部長だった。
周囲の空気が少し変わる。
私は小さく息を飲んだ。
会議室。
部長は資料を机に置いた。
「本来なら社員がやる案件なんだが……」
そう言いながら苦笑する。
「人が足りない」
私は資料を見る。
取引先とのトラブル対応だった。
昔の私なら、
数分で整理できる内容。
でも私はすぐ資料を閉じた。
「私、パートなので」
その言葉に、
部長が少し黙る。
私は続けた。
「そこまで責任ある仕事は……」
怖かった。
一度戻れば、
また昔みたいになる気がした。
止まれなくなる気がした。
部長はしばらく黙っていたが、
やがて静かに言った。
「……無理には頼まない」
私は少しだけ安心する。
でも次の瞬間。
「ただ、正直助けてほしい」
その声は、
昨日までと違っていた。
上司の声じゃない。
本当に困っている人の声だった。
私は言葉を失う。
昔も、
こうやって頼られると断れなかった。
会議室を出たあとも、
頭の中にその声が残っていた。
気づけば、
私はもう一度資料を開いていた。
帰宅時間を過ぎても、
手が止まらない。
「あ……」
時計を見て、
私は息を止めた。
十九時半。
パートの帰宅時間なんて、
とっくに過ぎている。
周囲の席もかなり空いていた。
私は慌ててスマホを見る。
夫からメッセージ。
『今日は遅い?』
胸が少し痛む。
前の私は、
こんな時間まで働かなかった。
働かないようにしていた。
普通の生活を壊したくなかったから。
でも今、
久しぶりに感じてしまっている。
誰かの役に立てる感覚を。
必要とされる感覚を。
それが、
少しだけ苦しかった。
そして少しだけ——
嬉しかった。




