第13話 戻れない場所
午後の空気が、妙に重かった。
私はパソコンを見つめたまま、
ほとんど画面が頭に入ってこない。
——再建の女王。
あの言葉が、
何度も頭の中で繰り返される。
呼ばれたくなかった名前。
忘れたかった過去。
なのに、
一度聞いただけで、
心の奥が揺れてしまった。
「……大丈夫ですか?」
顔を上げると、
後輩の女性社員が心配そうに立っていた。
私はすぐに表情を戻す。
「大丈夫」
そう答える。
でも、
彼女は少し迷ったあと、小さく言った。
「最近、みんな噂してます」
胸が静かに重くなる。
「どんな?」
なるべく普通に聞いた。
「昨日の会議のこととか……」
彼女は苦笑する。
「部長、かなり驚いてました」
私は何も言わない。
すると彼女が続けた。
「でも、ちょっと安心しました」
「……安心?」
彼女は小さく頷く。
「この会社、最近ずっと空気悪かったから」
その言葉に、
私は少しだけ目を止めた。
彼女は慌てて笑う。
「すみません、変なこと言って」
でも私は分かってしまった。
みんな、
限界だったんだ。
誰も余裕がない。
責任だけ増えて、
空気だけが重くなっていく。
昔の会社と同じだった。
——だから私は嫌だった。
一度戻れば、
また全部見えてしまう。
気づいてしまう。
止められなくなる。
その時、
スマホが震えた。
夫からだった。
『今日、帰れる?』
短いメッセージ。
私はしばらく画面を見つめる。
前なら、
『うん、帰るよ』
すぐ返していた。
でも今日は、
頭の中に別の資料が浮かんでいた。
返信が遅れたまま、
また画面を閉じる。
数分後。
今度は電話が鳴った。
私は少し迷ってから出る。
「もしもし」
『あ、ごめん。忙しかった?』
夫の声はいつも通りだった。
でも、
その“いつも通り”が、
今は少し苦しかった。
「……ううん」
そう答えながら、
私は無意識にパソコン画面を見ていた。
夫が少し黙る。
『仕事中?』
胸の奥が小さく揺れる。
前までなら、
そんな聞き方はしなかった。
私は視線を落とす。
「ちょっとだけ」
『そっか』
短い返事。
でも、
その一瞬の間に、
言葉にできない違和感があった。
夫も、
気づき始めている。
私が少しずつ変わっていることに。
「今日、遅くなる?」
静かな声。
私はすぐに答えられなかった。
その沈黙が、
自分でも嫌だった。
「……分からない」
そう言うと、
電話の向こうが少し静かになる。
『無理すんなよ』
優しい声だった。
だから余計に苦しかった。
私は小さく「うん」とだけ返す。
電話が切れる。
画面が暗くなる。
その瞬間、
胸の奥が少し痛んだ。
私は今、
何を優先しようとしてるんだろう。
仕事?
家庭?
昔の自分?
考えた瞬間、
息が少し詰まる。
その時だった。
「失礼します」
低い声。
顔を上げる。
——昨日の若い社員だった。
周囲を気にするように立っている。
私は静かに席を立った。
給湯室。
人のいない場所で、
彼は緊張した顔のまま頭を下げた。
「昨日はすみませんでした」
私は首を横に振る。
「気にしてない」
でも彼は、
まだ迷っている顔をしていた。
そして、
意を決したように口を開く。
「……ひとつ、聞いてもいいですか」
私は黙ったまま見る。
彼は少しだけ声を落とした。
「どうして辞めたんですか」
空気が止まる。
遠くでコピー機の音だけが響いていた。
私はすぐに答えられない。
彼は続ける。
「前の会社の人、みんなあなたのこと……」
そこで言葉を止めた。
でも、
最後まで聞かなくても分かった。
尊敬していた。
怖がっていた。
期待していた。
昔から、
みんな同じ目をしていた。
私は小さく息を吐く。
そして、
静かに言った。
「疲れたの」
彼が目を止める。
私は少し笑った。
「頑張りすぎて、何も分からなくなった」
あの頃は、
結果を出しても止まれなかった。
期待されるたび、
もっとやらなきゃいけない気がした。
気づけば、
家にも帰れなくなっていた。
友達とも会わなくなった。
眠ることすら下手になった。
なのに、
周りは誰も止めなかった。
——優秀だから。
その一言だけで。
私は視線を落とす。
「だから逃げた」
小さく言った。
「普通の人になりたかった」
給湯室が静かになる。
彼は何も言えなかった。
でもその沈黙が、
逆に少しだけ楽だった。
私は紙コップを捨てる。
「もう昔の話だから」
そう言って出て行こうとした、その時——
「でも」
背後から声。
私は止まる。
彼はまっすぐ私を見ていた。
「昨日のあなた、すごく楽しそうでした」
胸の奥が、
静かに揺れた。




