新宿は豪雨
どうぞ、と丸められたしおりを渡される。
ボクは、目線を合わせてそのしおりを受け取ろうと掴むが……
「あ、あれ?」
なんか離してくれない。
ぐっと引っ張ってみても、男の子はびくともせずただ口元を緩ませているだけだった。
何も言わないし、ずっと笑ってるし。
いたずらっ子なのかな……?
「えーっと……どうしたの?」
「ううん、ないでもないよ。ただ、この手を離したらもう二度とおねーさんに会えないって思うとモヤモヤするんだ。」
と、笑顔で話す男の子。
この言葉に対して、顔があまりにも合っていないのが、少し疑わしく感じてしまう。
「大丈夫、きっとまた会えるよ。」
「そうなの?」
「うん!」
「へぇ……?」
──ゾクッと背中に悪寒が走った。
さっきまで純粋じみた男の子の顔に影が現れる。
鋭く光る青い瞳。
眼の前にいるモノをじっと見据えるソレを、ボクは見たことがある。知っている。
理性ではなく、本能から感じる根源的恐怖。
歯向かうことなんかできない、絶対的立場の決定。
これ……ル──
「ねえ、おねーさん。」
「っ……」
逃げないと。
ここにいちゃダメだ。
ボクはその場から離れるために、しおりを離す。
──はず無のに……
「えっ……!?」
離れない。手放せない。
手のひらを広げるだけなのに、それができない。
怖いからとかじゃない。
物理的に出来ない。
手がしおりにくっついているんじゃなく、硬い何かで、『手』自体を覆われているような感覚。
いや、手だけじゃない……
身体も……動かない……
「おねーさん。」
幼くも大人びた声がスッと不気味に脳内へ響く。
「『また会える。』なんて、嘘はだめだよ?」
「……っ……っ……」
ダメだ……もう身体全体が硬い透明の膜に覆われてしまった。
顎を動かすことだってできない。
「おねーさん、なんで2人を行かせちゃったのかなぁ? 自分の立場わかってるはずだよね。」
男の子の視線が、ボクからレストランの中に移る。
唯一、動かせる瞳。
それをなんとか動かして、男の子の視線の先を見る。
そこには、ドリンクバーでストローを探しているスバルと奏ちゃんがいた。
ガラスから見える『日常』。
なぜか、今感じているものとは違う別の焦りがボクの背筋を冷ややかになぞった。
「そろそろ来そうだね。じゃ、僕たちも行こっか。」
青い瞳が再びボクを見る。
影のある笑顔だった。
直後、ぐっと身体が締め付けられる。
それに応じて、心臓が激しく胸を叩く。
「おっと、そこの人。動かないでほしいな。」
ボクの左斜め後ろからカッと固く小さい何かが落ちる音が聞こえた。
男の子は鋭い瞳でその方向を見る。
……お姉ちゃんだ。
すでに起きていたんだ。
この状況を打開しようと動いてくれたんだ。
「……」
お姉ちゃんは何も言わない。
男の子は不思議そうにお姉ちゃんを見つめていた。
そしてチラリと、落とした物を見る。
「あ、スマホかぁ。残念、2人は気づかな──」
「違げぇよ、ばーか。」
「は?」
─パシュ!
衝撃が走った。
それは右手を伝い腕へと響く。
ボクは見た。
素早い何かが直線上に、ボクが持つしおりを貫通していったことを。
それが真っ二つになっていったことを。
パリッとガラスに何かが衝突する。
その跡は丸く熱を持っていた。
「狙撃……!? どこから……!?」
男の子がそう呟く。
しおりが真っ二つになったことにより、ボクと男の子の繋がりが絶たれた。
ボクはバランスを崩すように、男の子は一歩下がるように……と、お互いが距離を取る構図になる。
「きゃっ」
それと同時に、ボクを包んでいた透明な膜は液体へと一瞬のうちに変化した。
身体中が水浸しになる。
でも……
──動ける。
尻もちをついて痛みをなだめようとお尻を押さえられるぐらいだ。
「卯月、大丈夫?」
お姉ちゃんがボクに駆け寄って、心配そうにボクの両肩を掴んでくれた。
大丈夫と、ひとこと言って立ち上がる。
……が、
「っ!?」「な!?」
もうすでに、男の子が距離を詰めていた。
獣のような鋭い視線とボクの視線が交わる。
小柄の男の子は飛び込むようにして距離を詰めていたのだ。
小さくも牙のある獣は右手でボクの首を掴んで、ぐっと地面に押し付けた。
「卯月っ!」
お姉ちゃんが叫ぶ。
小学生のような背丈からは想像できない圧倒的な腕力にボクの抵抗は意味を成していなかった。
「甘いっ!」
突然、透明な膜がドーム状にボクと男の子を守るように包んだ。
直後、ドームが波打った。
波の発生源を見るとそこには弾丸があった。
それはしおりを撃ち抜いた弾丸。
ドームは完璧に受け止めている。
ドームがなければ、男の子の右手首は撃ち抜かれていただろう。
しばらくすると、熱と回転エネルギーを奪われた弾丸がカランと地面に転がってしまった。
ドーム状の膜の発生源は男の子の左手のようだった。
左手を中心にして、膜が地面に広がっている。
円状だ。
そして、そこから防壁を作るようにドームを形成したんだ。
「はな……して……よっ……!」
「結果は分かってるくせに、よくそんな無駄なことが言えるね。」
─ドンッ
ドームが波打つ。
それは、弾丸が着弾した時以上の衝撃だった。
「はぁ……」
男の子は面倒くさそうに振り返って、波の発生源を確認する。
そこには……
「羽田スバルだっけ……? ここじゃ戦いたくないんだよね。」
それが合図なのか。
男の子はドームを少し縮めたあと、右手のひらから透明な膜を生み出して、ボクの首を掴み始めた。
右手の代わりとなったそれは、やがて首を包んでいく。
透明な膜は首から口、鼻へと徐々に進行していって……
「あっ……うっ……」
ボクの呼吸を止めさせた。
口と鼻を覆うソレを引き剥がそうとするも、表面が固くて取ることができない。
それなのに、中は液体に包まれていた。
まるで水中にいるようだった。
息したら肺に水が流れ込んでしまう。
だから息ができない。
「殺すようなことはしないよ。1回気絶してもらわないと。気絶したらこれ取ってあげるからさ。」
ボクに目もくれず、男の子はそう言った。
「……っ……!」
次第に身体が持ち上がっていく。
ドームに攻撃するスバルと弾丸、そしてルナちゃんが見える。
男の子はニヤリと笑っていた。
そして……
△△△
「なっ、アイツ逃げるつもりだ!」
「私が……!」
ルナに代わった奏が前に出る。
青い瞳のガキは見向きもせず、透明な何かを左手のひらから、近くにある大きな木へと伸ばした。
ぐるっと巻き付いた直後、回収されていくワイヤーのように、木へと素早く吸い寄せられる2人。
ただ逃げることだけを目的とし、背中を向ける敵に……
──奏は笛を吹いた。
が……ガキに異常はなく、不思議そうにこっちを見るだけだった。
「……まただ……」
奏は笛の構えを解いて、逃げていくガキの背中をただじっと見つめていた。
「くそっ、奏の笛でもダメか……」
「…………ごめん。」
「いや、大丈夫だ。」
悔しい気持ちを抑えて、知世を見る。
知世はスマホを耳に当て、とある人と話していた。
俺の視線に気づいた知世は、スピーカーモードに変え、声を聞こえるようにしてくれた。
「野田さん、俺です!」
「『ああ、スバル君! 今、その逃げた目標を追っているよ。彼、蜘蛛の男みたいだね。すごい速さでスウィングっぽいのしてる。どうやら新宿駅に向かっているみたい。』」
若く明るい男の人の声が、知世のスマホから聞こえた。
父さんが送ってくれた護衛の数は2人。
たった2人か、と軽んじたくなる数字だが、この人たちは父さんがトップクラスに信頼できる凄腕の仲間だという。
そして今通話しているこの男の人は野田 勇樹さん。
若手ながらに近接戦は公安中トップクラス。
追跡にも長けていて、旅行中誰かが連れ去られた場合、彼を頼れと父さんが言ったほどだ。
「……どうするの? 相手は速いから今から追いかけても遅いだろうし、新宿ってよく分からないから、先回りなんて……」
奏が近づいてそう言った。
確かに俺たちは新宿をよく知らない。
でも……
「……先回りはできる。」
ピロンと、知世の携帯が鳴った。
画面に表示されている名前は、野田さんともう1人……
「え、佐野さん!?」
「『スバル君、右の黒い車見える?』」
落ち着いた女性の声。
この人は、もう1人の護衛。
佐野 梨花さん。
野田さんとペアで行動している、ベテランだ。
冷静沈着で頼りになる先輩スナイパー。
公安随一の美人さんで、振った男は数しれず……
(父さん調べ)
先程、狙撃でアシストしてくれたのはあの人だ。
「あ、見えます。」
「『早く乗って。先回りするよ。』」
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「す、すみません! その、さっきから言ってる先回りって……?」
後部座席にいる奏が佐野さんに問いかけた。
俺達は今、佐野さんの黒い車の中にいる。
エンジンの揺れが身体にまで伝わってくる。
爽やかな香水の匂いが、車の中に漂う。
「君たちはここでご飯を食べ終わったらどこに行く予定だった?」
「えーっと……あ、伊勢丹!」
「今、目標には伊勢丹に続く道を進んでもらってる。それ以外に続く道路を全て封鎖してね。」
俺が伝える前から、佐野さん達公安警察は、すでに手を打ってくれたのか。本当にありがたい。
「あの……道路を封鎖しても、相手はスウィングして移動してるんですよね……? そんなの意味ないんじゃ……」
「普通はそうだよ。でも、目標はわざとこの作戦に乗ってくれてるみたい。」
街の景色が流れていく。
しかし、通る道に車などなく、通行人も見られない。
吸い込まれるように車は伊勢丹へと向かっている。
「野田君から聞いたの。目標、追跡できるギリギリの速度で移動してるみたい。誘っているようだって言ってたわ。目的は分からないけどね。」
「『誘っている』……か。」
奏と同じく後部座席に座る知世がそう呟いた。
「『先輩、野田です! 目標はあと3キロで伊勢丹に着きます!』」
「わかった。……こっちのが速いわね。」
ニヤリと佐野さんは笑った。
「……ちょっと憧れるかも。」
「え!? 佐野さんギター弾くんですか!?」
憧れで瞳を輝かせる知世の隣から、また別の意味で瞳を輝かせた奏。
奏は、トランクから佐野さんへと視線を往復させていた。
「ちょっ、奏!」
「だってだってだって! すごく高そうなギターケースがあるからさ……!」
「ふ、あんまり触らないようにね。その中、狙撃銃だから。」
「え」
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黒く光を遮る曇天。
湿った風が流れる。
バタンと車の扉が閉まった音が聞こえる。
ここは新宿通りと明治通りが交差する、新宿三丁目交差点。
普通は人で溢れかえる場所だ。
だが、人っ子一人いない。
……正直、不気味が勝つ。
「それじゃあ、私は移動するから、あとは頑張ってね。」
佐野さんが狙撃銃のケースを片手に持ちながら、俺達にそう伝えた。
言葉を発せず頷く俺達。
佐野さんが移動してしばらく経った後。
遠くから、建物から建物へと飛び回る小さな人影が見えた。
あのガキだ。
「やあ、久しぶり。」
無駄なく着地して、俺たちの前に立つ。
片手には卯月がいた。
左手から伸びている透明な紐で卯月が担ぎ上げられている。
どうやら気絶しているようだった。
「ありがとうね。君達のおか──」
3歩進んで届く拳。
一歩、俺は地面を蹴るようにして、顔面へと拳を叩き込んだ。
「……人が話している最中だよね。」
しかし、次の瞬間にはガキが右手で受け止めている。
青い瞳に影が生まれた。
その手には透明な膜が張られている。
それは俺の拳をゆっくり確実に侵食してきた。
ニヤリと笑ってやる。
それに対して、ガキは不思議そうに俺を見た。
だって、ガキの後ろには……
「っ!?」
──ルナがいる。
完全顕現、最高速度のルナの拳。
至近距離で放たれたソレを避けるなど、できる訳もなく。
─バキッ!
「っ!」
あまりにも速い攻撃。
どこに直撃したのかすら見えなかった。
ガキは勢いよくただ真後ろへ飛んでいった。
俺の真横を通過して、伊勢丹の窓ガラスへと吸い寄せられていく。
だが、窓ガラスが割れる音は聞こえなかった。
振り返って状況を確認する。
しかし、結果はすぐ見て取れた。
ガキがぶつかったのはガラスではなく、糸だった。
透明で強靭な知世の糸。
その糸はぶつかった瞬間、ガキの身体を何重にも巻き付け、身動きを封じたのだ。
「……ちっ……」
ガキは苦しそうに左腕を見た。
その左腕は微かに震えていた。
小さくだが、動くかどうか確認している。
ルナの打撃だ。
しかし、骨が確実に砕けるダメージを受けたはずなのに、なぜか震えているだけで済んでいる。
あの一瞬、左手から透明な膜を生成して、ダメージを軽減したのだろうか?
だが、一瞬だ。
──あんなの人じゃ到底反応できない。
やはり、人狼なのか?
じゃあ、あの『透明な何か』はなんだ?
それ以外にも引っかかる点が多すぎる。
「ねえ、卯月を離して。」
ガキの背中から、声が響く。
"悪魔"のような黒く深い視線。
気づけば、ガキの首元に小さく透明な糸が一本、通っていた。
それは時間が経つにつれて首を圧迫し始める。
卯月を縛る透明な紐は一切揺らぐ姿を見せなかった。
「人質を取ったって言っても、貴方は卯月に危害を加えられない。そうでしょ?」
「……まあ、そうだね。」
「ちなみになんだけどさ、アタシに見覚えは?」
「さあ? 君達を調べるはずの同僚は捕まっちゃったからね。まだ君に関しての情報は分からないんだ。そっくりさん。」
どうやら、ガキは知世が卯月の姉だという情報は知らないようだった。
そっくりさんだと呼ぶってことは、他人だと思われている証拠。
……都合がいい。
よし、このまま、一気に叩──
「──君達、勝った気でいるでしょ。」
背伸びした子供の声が波のように一帯に広がった。
縛られ、人質は意味をなさず、3対1という人数的不利。
この差に、汗一つかかず、声色を変えない姿。
一瞬、それが不気味に思えてしまった。
「君達、『神美 卯月を連れ去る任務』って勘違いしてるみたいだけど……違うよ?」
ゾッと背中に悪寒が走る。
「僕の任務は、『君達の殲滅』。紫とはわけが違うんだよ。」
瞬間、ガキの首が締まった。
ガキは目を見開くも、動じない。
背後に立ち、気絶させようとする知世。
その暗い顔には焦りと怒りが混ざっているように見えた。
──ニヤリとガキが笑った。
「主、離れろ!」
ルナの声に、知世は我に返る。
一歩、退いて距離を取ろうとする知世。
その目の前には……
透明の刃。
それは巻き付く糸を断ち切ろうと右手のひらから出た大きな刃。
切ったと同時に、知世めがけ振りかざされる。
─ジャキィイン!
金属音を立て、地面へと突き刺さった刃。
そこに血は見えず。
「あぶない……!」
残ったのは、"銀色の弾丸"が残した風だけ。
「あ、ありがとうルナ。」
「モンダイない。」
お姫様抱っこをして見つめ合う2人。
別のシーンだったらロマンスの始まりなのだが……
生憎ここは戦いの場。
そんなことは起こり得ず。
お姫様抱っこから下ろされた知世。
気を取り直して、ガキを視界に捉える。
「僕ね、組織の中では結構特殊な被験体なんだよね。」
ガキから糸が落ち、一歩一歩と前へ進んでくる。
卯月は依然と紐に吊るされていた。
△△△
とあるビルの屋上。
交差点にいる少年少女を見下ろし深呼吸をする女性。
その後ろには、若い男性がいた。
「先輩、本当に加勢しちゃダメですか?」
「野田君が加勢すれば有利になるでしょうね。でも、オオカミは何処にだって潜んでいる。孤立してしまったら格好の餌食だよ。」
「た、たしかに……では、守らせてください!」
女性の口元は緩む。
しかし、それもたった一瞬。
彼女は空を見た。
「……っ……まずいね。」
男性も同じく空を見る。
「そんな、こんな時に……」
△△△
ポツ、ポツポツと冷たく重い何かが振り注ぐ。
それはやがて、鋭く、多く、無尽蔵に降り始めた。
汗が滲んでくる暑さは、凍えるようなソレによってかき消されていく。
「ふふふ……僕ってツイてるな。」
俺は衝撃的なものを見た。
それと同時に疑問が解ける。
ガキは近づいてくる。
純粋な笑みを空に向ける。
──透明で光を乱反射する獣の耳と尻尾。
それは全て、『水』でできていた。
「もう気づいてるよね。」
水浸しになる世界。
雨粒の落下音が音を上書きする。
「僕ね、『人狼』なんだ。水を操れる…ね。」
青い瞳が光る。俺達を視界に捉える。
雨音をものともしない透き通った声。
──新宿は豪雨だ。




