バタフライエフェクト(1)
「……ッ!貴方もしや、この実験の──」
「死んで。」
─ザク
「ッ!」
男の横腹が赤く滲み始めた。
私の赤い手のひらは、別の『赤』へ染まっていく。
直後、男から歯ぎしりが聞こえてきた。
そして、ぐっと私の胸ぐらを掴んで、先程の階段の方へ投げ飛ばした。
「うっ…」
「紫っ!」
横腹が痛んで力が入らなかったのかどうかは知らないが、飛ばされた距離は少し歩けば元の位置に戻れるぐらいのものだった。
「ねぇ…狙いは私でしょ!?」
「黙れッ!」
クルミの方から、ダッと何かを蹴り上げる音が聞こえた。
身体の異変に慣れず、投げられた痛みを抱えて地面に寝そべっていた私は、何が起きたのか確認しようと立ち上がり、前を見た。
「クル…ミ……」
クルミが仰向けになっている。
閉じた瞼で天井を見つめている。
「少し、興味が湧きました。被験体、番号を言いなさい。」
「紫。」
「は?」
「私の名前は番号なんかじゃない。……私の名前は紫。」
一歩、一歩と自分の言葉を噛みしめながら男の元へ向かう。
「そうですか……」
再び男と向き合う。
真っ赤に染まったナイフがポタポタと血を落としていた。
ぐっと、ナイフに力が入る。
「今ので貴方に攻撃は無意味とわかりました。しかし…様子を見るに痛覚は残っているようですね?」
男は醜く笑った。
誰もが恐怖し、不気味さを覚えるはずの笑顔。
これからされる行為は恐ろしいはずだ。
でも、不思議と……怖くなかった。
「……フフフ…まずはその右手です。」
じっと、男を見つめる。動くつもりはない。
男もそれを分かっていた。
だから、男は大きくナイフを上げて私の右肩を──
「喧嘩はそこまでだよ。」
「ッ!?」「っ!?」
私の後ろ。すぐに振り向く。
暗闇から声が聞こえた。
周りは暗くて狭い廊下。
声は反響するはずだ。
しかし、その声は反響せず、暗闇へと溶け込んでいく。
それは、とても不気味で……
それは、知ってる大人とはかけ離れていて……
私はこの声が何に例えられるのか知っている。
すぐ身近にあって、吸い込まれてしまいそうな深さのあるただ1つの色。
──本当の黒。
「ッ…なぜここにいるのですか?
───ボス。」
ボス……?
「ハハハ、君は変わらないね。ボスは止めてくれって何度も言っているだろう?」
闇の中にいる『彼』の重く大人しい声から、ハッキリとした芯のある温かさが感じられた。
いや…違う。これは……
──温かすぎる。
触れた瞬間、すぐ離してしまうような……
触れた瞬間、指が溶けてくっついてしまいそうな……
そんな、狂気的な温かさを感じた。
「もう大丈夫だよ。」
暗闇から手が現れた。
他の大人とは違う大きな手だった。
ずっしりと、右肩に手のひらが置かれる。
不気味な温かさが私の肩を蝕んでいく。
肩から肺へ、足へ、頭へ……
得体の知れない硬い何かが血液と入れ替わろうとしている感覚だった。
「っ……っ……っ……」
今、息を吸っているのかどうか分からない。
口も、指も、肩も、足も、体も、瞼だって……
「怖がっているね。私が怖いのだろうね。ごめんね。」
私は、"暗闇"と対面していた。
"暗闇"が目に焼き付いていく。
「ボス、この危険因子はどうしますか?」
男の態度はまるで違った。
先程の怒りに近い感情じゃない。
これは……私がクルミに抱いている感情に近いものだった。
「迷っているね?」
「っ……」
"暗闇"の視線はわからない。
でもそれは、クルミに向けられているものだと直感で理解した。
「瞳を開けて私を見るか、瞳を閉じて生き永らえるか。」
「……」
沈黙が返ってくる。
「安心しなさい。もう、帰っていいよ。」
「……!?」
「なっ!?ボス、一体何──」
「しーーっ。……後ろに下がっていなさい。」
何かを我慢するようにして、男は暗闇の後ろへ向かっていった。
……分からない。
何を言っているんだ?
帰す…?
ここの大人は私とクルミを捕まえようとしているんじゃないのか?
「……紫は、どうなるの。」
後ろからクルミの声が聞こえてきた。
先程の掠れが嘘かのように、ハッキリと暗闇に響く。
一瞬、その声に安心するがそれはすぐに続かなかった。
「ここに住むんだよ。」
っ……
…ここに住む……
ああ……そうだ。
気づけば私はここにいた。
いつだって、この世界に身を置いていたんだ。
ここじゃないと私は生きていけない。
その生き方を知らない。
クルミは任せて欲しいって言ってた。
でもそれじゃ、クルミが大変になってしまう。
「住むだなんて、そんなの……!」
「不服かな?」
「もちろんに決まってるでしょ?」
クルミはここにいてはいけない大人だ。
私なんかと関わったからこんなイタい目に遭うんだ。
私だって、こんな思いしなくて済んだ。
あんな恐怖、感じたくなかった。
でも…会いたくなかったって言ったら嘘になる……
約束。したんだ。
きっとこのままじゃ、クルミは殺される。
クルミが怖い思いをする。
だから…言ってやった。
「クルミ……」
「紫!大丈夫、すぐ助け──」
振り返って言ってやった。
男の手を払って、クルミの眼を見て。
「待ってて。」
「え……?」
「クルミ……ぜったいに、私会いに行くから。だから……それまで待ってて。」
「いや…だからってそんな……!」
「お願い。クルミ……」
仰向けになっていたクルミは、壁に寄りかかって立ち上がった。
荒い呼吸をして、冷や汗を垂らしている。
腕を押さえて、必死に私を見ている。
「っ……ははは、普通セリフ逆でしょ?まったく、世話の掛かる子だなぁ……」
暗闇からでもハッキリ見える。
クルミの笑顔。
私を安心させるための笑顔。
自分を納得させるための笑顔。
とても悔しそうで…泣きそうな笑顔……
「待ってるから…ね……?」
「さぁ、行こうか。」
ぎゅっと、不気味な温かさが私の右手を握った。
私は握り返そうとはしなかった。
引っ張られる方向に身体を向け、少しの間クルミを見つめる。
クルミはずっと笑顔だった。
私が暗闇に飲まれるまで、ずっと……
「君の手、冷たいんだねえ。」
自分からスッポリと何かが抜け落ちている事に気が付いた。
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「ねぇ、これから私に何をするの……?」
「もう怖がらなくていいよ。大丈夫だ。」
〚だって、これから君は『■■■■■■■■』。〛
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「──っ!」
「あ、起きた!」
目が覚めた途端、視界いっぱいに広がる神美 卯月の笑顔。
冷たい風に、川の音。
彼女の顔でほとんど埋め尽くされているが……
ここは…河川敷……?
「紫ちゃん起きたよ!」
ゆっくりと上半身を起こし、痛む首に触れる。
……ああ、そうだ。
私は、神美 卯月に意識を落とされたんだ。
「……紫…?」
ふと、聞き覚えのある声に視線を向ける。
私の左。
そこには、奏が座っていた。
痛々しいほどボロボロで、少しでも突っついたら倒れてしまいそうな身体。
「今、救急車待ってるんだ。」
奏は、いつものように優しく笑った。
何もなかったかのように、何も悪いことがなかったかのように、清々しい笑顔をしている。
「……ねぇ、奏。」
「どうしたの?」
「私のこと──」
─ヒュ〜〜〜〜……パァン!
突然、破裂音とともにオレンジ色の光が空に広がった。
気になって空を見上げる。
「紫…そんなびっくりしなくていいよ?だってこれ……」
空いっぱいに広がる、光の花。
満遍なく広がった瞬間、徐々に崩れていく形。
それは次から次へと、余韻を持たせて打ち上がっていく。
「はな…び……?」
「そうそう、花火!だからそんなに警戒しなくても……」
横から奏の声が聞こえる。
何か言うべきだろう。
でも…言葉が出ない。
今、何か言えるとしてもきっとそれは、期待される言葉じゃない。
でも…でも……
「……綺麗…………」
「ふふふ、そっか。そうだね!」
青色、赤色、緑色、黄色……
黒い空から彩られる一瞬の花。
……約束をした。
クルミと一緒に観ると。
でも…叶わない。
──クルミは殺された。
この組織に。
クルミと過した部屋。
何週間か経った後、扉の前でスタッフが話し合っていた。そしてそれを耳にした。
……その時に初めて人を殺した。
──後悔は死ぬほどしてる。
けど……その分だけ快感を呼び覚ます。
きっとあれから、私は狂い始めたんだ。
だからきっと……私は……
「紫。」
っ……
「私は怒ってなんかないよ?」
「でも……」
「奏は優しいの!」
後ろから強気な声が聞こえてきた。
その声の主は、私と奏の間に入ってくるようにズボッと顔を覗かせる。
神美 二日だ。
ジットリと横目で私を見ている。
「アタシはまだ許してないから。」
「……その、ごめ──」
「奏はアタシのものだからね!」
「え、ちょっ、知世!?」
神美 二日は奏の肩に腕をかけ、相変わらず私を威嚇していた。
「紫ちゃん、さっきのことお姉ちゃん許してくれるって!」
「ア、アンタ!」
「ふふっ。」
本当に頭が痛い。
だから……そうなのだろう。
こんな人たちだから、こんな奏だから……
こんなに優しいから……
こんなに輝いているから……
だからきっと……私は、関わったんだ。
だからきっと……こんな酷いことをしたんだ。
狂い出した私を止めてもらいたいから……
ラクにして欲しいから……
「紫。」
羽田スバルが名前を呼ぶ。
彼は神美 卯月と一緒に、神美 二日の一つ後ろに座っていた。
「なに?」
「なんで解毒剤を用意していたんだ?」
「あ、ボクもそれ気になってた!」
みんな興味津々な瞳で私を見つめている。
私は奏と神美 二日に睡眠薬ではなく、長い間眠らせる毒を注入していた。
理由としてはただすぐに起きてほしくなかったから。
……解毒剤を持っていた理由としては…………
「……その…………やっぱいい。」
「「「「えーー?」」」」
「ぷっ、ふふ……」
「え……」
「あ……」
「おお……」
「へえ……」
「っ……な、なに?」
みんなが私を見ている。
特に奏が瞳を大きく広げていた。
「今、笑った……?」
「…………………………………………しらない。」
「いや、今笑ったよね……?紫、笑ってたよね!?!?」
「ち、ちが……」
「うんうん。奏ちゃんの言う通り笑ってた。」
「へ~、アンタそうやって笑うんだぁ~」
「だから……っ」
「……諦めろ。」
「だぁーーーーかぁーーーーーーらぁーーーーーーーー……………!!」
蝶の叫びは、花火と共に空へと打ち上がっていった。
祭りを楽しむ声に少年少女の笑い声が溶け込んでいく。
──黒い空に、紫色の花が咲いていた。




