第8話 繋いだ手
翌朝。
寝るのが遅かったはずなのに、体はいつも通りの時間に目を覚ます。
アラームを解除して、布団を畳み、軽く伸びをしてから洗面所へ向かった。
顔を洗い、キッチンへ立つ。
味噌汁を温め、卵焼きを焼く。
炊飯器の蓋を開け、ご飯をよそう。
弁当のおかずも同時に作っていく。
4人分の朝食と、俺と実生の弁当。
いつもの朝と違うのは、作る量だけだった。
一通り準備を終え、時計を見る。
そろそろ起こす時間だ。
まずは俺の部屋へ向かった。
「優斗、朝だ」
「……ん」
「起きろ」
優斗はゆっくりと体を起こし、大きなあくびをする。
眠そうなまま部屋を出ていく優斗を見送り、今度は実生の部屋の前へ向かった。
軽く扉をノックする。
「実生、朝だ」
「んー……」
眠そうな返事が返ってきた。
「起きろ」
「はーい……」
布団の擦れる音が聞こえる。
そのときだった。
「……あれぇ?」
「どうした?」
「たまちゃんが起きないー。たまちゃーん、朝だよー」
珠季の返事は聞こえなかった。
嫌な予感がした。
咄嗟に部屋の中へ入り、実生の手前で眠る珠季の横にしゃがみ込む。
「珠季」
呼び掛けても返事はない。
眠っているだけにしては様子がおかしかった。
珠季の額へそっと手を当てる。
「……熱いな」
実生も心配そうに珠季を覗き込む。
「熱あるの?」
「体温計持ってくる」
俺は急いでリビングへ向かい、救急箱から体温計を取り出した。
ーーー
「実生」
俺は持ってきた体温計を実生に渡した。
「珠季に体温計、挟んでやってくれ」
「わかった」
実生は珠季の体をゆっくりと起こし、体温計を脇へ挟んだ。
「たまちゃん、もうちょっとだからね」
珠季はぼんやりとしたまま、小さく頷く。
しばらくして、短く電子音が鳴った。
実生が体温計を取り出し、表示を見る。
「お兄ちゃん……」
体温計を受け取り、表示された数字へ目を落とす。
「38.7度……」
思っていた以上に熱が高い。
「たまちゃん、大丈夫?」
実生が心配そうに珠季の顔を覗き込む。
珠季がゆっくりと目を開けた。
「大翔……先輩?」
ぼんやりとした視線が俺を捉える。
「珠季、今日は学校休め」
「……え?」
「熱がある」
珠季は自分の額へ手を当てる。
その表情が少しずつ曇っていった。
「そんな……」
掠れた声だった。
「無理するな」
「でも……」
珠季は布団の上でゆっくりと体を起こそうとする。
「わかってる」
今日から3日間にわたって中間テストがある。
1日でも休めば、その日の教科は受けられない。
「受けないと……」
珠季は布団から出ようとする。
だが、力が入らないのか、そのままふらりと前へ倒れそうになった。
咄嗟に肩を支える。
「ほら、無理するな」
そのままゆっくりと布団へ寝かせた。
「今日は休め」
「でも……」
「今の状態で学校へ行っても、まともにテストなんて受けられない」
珠季は唇を噛み締める。
「せっかく勉強したのに……」
その一言が胸に刺さった。
昨日、一生懸命勉強していた姿を見ている。
だからこそ、その悔しさは痛いほど伝わってきた。
「大丈夫」
自然とその言葉が口をついて出た。
「今はテストのことより、自分の体を優先しろ」
珠季は俯いたまま、小さく頷いた。
「私も学校休む!」
実生が勢いよく立ち上がった。
「駄目だ」
俺は即座に首を横へ振った。
「でも、たまちゃん一人じゃ不安だよ!」
「俺が学校を休む」
「でも……」
実生は納得できない様子で珠季を見つめる。
そのとき、部屋の入口から声がした。
「大翔」
振り返ると、制服へ着替え終えた優斗が立っていた。
いつもの笑顔ではなく、真面目な表情だった。
「珠季ちゃんのことはお前に任せる」
「宮後先輩……」
珠季が申し訳なさそうに俯く。
「気にしなくていいよ、珠季ちゃん」
優斗は珠季に笑いかけた。
「でも……」
「俺のことは心配しなくていい」
俺は珠季の目をまっすぐ見て言った。
「大翔」
「ん?」
「学校には俺が説明しとく」
「悪い」
「その代わり、珠季ちゃんのこと頼んだぞ」
「ああ」
優斗は小さく頷くと、今度は実生へ向き直った。
「実生ちゃん、行こう」
「やだ」
実生は即答した。
「たまちゃんが心配」
「俺も心配だよ」
優斗は苦笑する。
「でも、大翔がいる」
実生は俺を見た。
俺も静かに頷いた。
「俺に任せろ」
その一言を聞いて、実生はようやく小さく頷いた。
「……わかった」
そう言って珠季の手をそっと握る。
「たまちゃん、ちゃんと寝てるんだよ? 無理しちゃダメだからね?」
「うん……」
実生は名残惜しそうに珠季の手を離すと、優斗と一緒に部屋を出ていった。
部屋の中には、俺と珠季だけが残った。
ーーー
朝食と身支度を済ませた優斗と実生を見送ったあと、俺は玄関に鍵を掛けた。
部屋へ戻ると、珠季は布団の中でぼんやりと天井を見つめていた。
「珠季」
「……はい」
声にも力がない。
「とりあえず薬飲もうか」
実生が風邪を引いたときのために、解熱剤や風邪薬は常備している。
コップに水を注ぎ、薬を取り出す。
「飲めるか?」
「はい……」
珠季はゆっくりと体を起こす。
まだ力が入らないのか、動きはぎこちなかった。
薬とコップを手渡すと、珠季は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
薬を飲み終えるのを確認し、空になったコップを受け取る。
「もう横になってろ」
「……でも」
「気を遣わなくていい」
「そういうわけじゃ……」
珠季は何か言いかけて、小さく俯いた。
「昨日、せっかく教えてもらったのに」
「それを無駄にした気がして……」
その言葉に、思わず苦笑する。
「無駄じゃない」
「え……?」
「追試がある」
「俺も1年のときに珠季と同じように熱を出したことがある」
「……そうだったんですか」
「そのときも追試があった」
珠季は黙って俺を見つめていた。
「だから今は何も考えなくていい」
「しっかり寝て、早く治すことだけ考えろ」
珠季はしばらく黙っていたが、
「……はい」
小さく頷き、再び布団へ横になった。
俺は布団を首元まで掛け直す。
「何かあったらすぐ呼んでくれ」
「はい」
珠季は目を閉じる。
その寝顔を見届けてから、俺は静かに部屋を出た。
ーーー
部屋を出ると、静かなリビングが広がっていた。
さっきまで実生と優斗がいたとは思えないほど静かだった。
時計を見る。
もう午前8時30分前だ。
学校では、そろそろホームルームが始まる頃だろう。
俺は小さく息を吐き、キッチンへ向かった。
薬は飲んだ。
あとは何か食べられるものを用意しておいた方がいい。
冷蔵庫を開け、中を見渡す。
「……」
昨日買ってきた食材が並んでいる。
熱があるときに揚げ物は重い。
消化のいいものがいいだろう。
米は炊いてある。
卵もある。
「おかゆにするか」
鍋を取り出し、ご飯と水を入れて火にかける。
ぐつぐつと煮立ってきたら、白だしを入れる。
溶き卵を鍋へ流し入れてから蓋をして、弱火でゆっくりと火を通す。
少しだけ塩で味を整え、仕上げにネギを散らす。
完成だ。
湯気の立つおかゆをお盆に乗せ、スプーンと水の入ったコップも一緒に運ぶ。
珠季の部屋の前で軽く扉を叩いた。
「珠季」
「……はい」
中から小さな返事が聞こえる。
「入るぞ」
「はい」
部屋へ入ると、珠季はさっきと同じように布団の中で横になっていた。
顔色はまだ優れない。
「おかゆ作った」
「……ありがとうございます」
お盆を近くへ置く。
「食べられそうか?」
「少しだけなら……」
「無理はするな」
珠季はゆっくりと体を起こした。
熱のせいか、その動きはまだぎこちない。
「大丈夫です」
「食べられる分だけでいいから食べろ」
「いただきます」
珠季はスプーンでおかゆを一口すくい、ゆっくりと口へ運んだ。
「美味しいです」
「……よかった」
その言葉を聞いて、小さく肩の力が抜けた。
珠季は二口、三口とゆっくりおかゆを口へ運ぶ。
熱のせいか食欲はないようだったが、それでも少しずつ食べ進めていた。
半分ほど食べたところで、珠季はスプーンを置いた。
「……ごめんなさい。ごちそうさまです」
「いいよ。むしろよく食べたほうだ」
器を受け取り、立ち上がる。
「薬も飲んだし、少し寝れば楽になると思う」
「……はい」
珠季は布団へ横になり、ゆっくりと目を閉じた。
「おやすみ」
「おやすみなさい……」
返事は聞こえたものの、その声はさっきよりも小さかった。
俺は静かに部屋を出て、キッチンへ戻る。
食器を洗い終え、一息ついたところで時計を見る。
まだ午前九時前だった。
「……」
普段なら今頃、一時間目のテストが始まっている時間だ。
珠季も、本当なら教室で問題用紙と向き合っていたはずだった。
そう思うと、少しだけ胸が痛んだ。
そのときだった。
「……大翔先輩」
部屋の方から、小さな声が聞こえた。
俺はすぐに珠季の部屋へ向かった。
ーーー
「どうした?」
「……すみません」
熱のせいか、声はさっきよりも弱々しい。
「喉、乾いちゃって……」
さっき持ってきたコップは空になっていた。
「待ってろ」
キッチンへ戻り、新しい水を注ぐ。
部屋へ戻りコップを手渡すと、珠季は両手で受け取った。
「ありがとうございます」
少しずつ水を飲み干し、小さく息をつく。
「少し楽になりました」
「それならよかった」
コップを受け取り、サイドテーブルへ置く。
珠季は布団へ横になり、天井を見つめたまま小さく呟いた。
「……大翔先輩」
「ん?」
「昨日、なんでだめって言ったんですか?」
思いがけない質問だった。
「なんでって……」
俺にもわからなかった。
「……わからない」
「私、大翔先輩がだめだって言うなら……」
「いや、それは良くない。そもそも珠季が決めたことを俺がとやかく言う立場じゃない。ただ……」
「……ただ?」
「気付いたら声に出してた」
「ふふっ」
珠季が少しだけ笑ったように見えた。
「……大翔先輩、手を握ってくれませんか?」
珠季はそう言い、布団の中から左手を出してきた。
「……」
どう返せばいいか考えていた。
「少しだけでいいので……」
どうしようか迷ってふと珠季を見ると、俺のことを弱々しい、でも真剣な眼差しでじっと見つめていた。
「……わかった」
「ありがとうございます」
珠季の手の上に俺の手を重ねてほんの少し軽く握った。
珠季の手は熱かった。
またふと珠季を見ると今まで以上に顔を赤くしていた。
それを見た俺はもう片方の手を下に添えて、両手で包み込むように珠季の手を握った。
熱くて、細くて、柔らかい、優しい手だった。
「……もういいか?」
「……」
「……珠季?」
「……」
珠季は静かな寝息を立てていた。
俺は起こさないよう静かに部屋を出る。
廊下へ出ると、小さく息を吐いた。
「……ごめん、珠季」
その声が届くことはなかった。
第8話を読んでいただき、ありがとうございます。
よろしければ感想やご意見など、いただけたら励みになります。




