第9話 迎えの約束
珠季が再び眠ってから、俺は静かにリビングへ戻った。
特にやることもなかったので、明日の中間テストの科目の予習をしておいた。
ふと珠季のいる実生の部屋を見た。
あの珠季の様子だったら明日くらいには良くなっているだろう。
時計を見るともう正午近くになっていた。
そろそろ昼飯の時間だ。
実生の部屋をノックして入ると珠季はまだ寝ていた。
起こそうとも思ったが、せっかく寝ているのに起こすのは申し訳ないと感じ、起こさないようにゆっくりドアを閉めて静かにリビングへと戻った。
朝に作っておいたおかずをレンジで温めて食べた後、皿を洗って水で濡れた手をタオルで拭く。
時計を見ると午後1時を回っていた。
もう一日目の中間テストが終わって帰ってくる頃か。
そのとき、インターホンが鳴った。
モニターを見ると、優斗が立っていた。
玄関を開ける。
「よっ」
「テスト終わったのか」
「おう」
そう言って優斗は家の中をちらりと見た。
「珠季ちゃんは?」
「今は寝てる」
「熱は?」
「まだ測ってないけど、お粥も半分くらい食べてたし、多分大丈夫だと思うけどな」
「そっか」
優斗は安心したように笑う。
「じゃあ俺は帰るわ」
「悪かったな」
「気にすんな」
優斗は軽く手を振る。
「珠季ちゃんによろしく」
「ああ」
玄関のドアが閉まる。
それからしばらくして、玄関のドアの鍵が開く音がした。
「ただいま!」
実生の声だった。
部活用のバッグを肩に掛けたまま、慌てた様子でリビングへ入ってくる。
「たまちゃんは!?」
「まだ寝てる」
「熱は!? 下がった!?」
「落ち着け実生。まだ測ってないけど、とりえずお粥は半分くらい食べてたから多分大丈夫だ」
先程の優斗に説明したのと同じように言った。
「よかったぁ……」
「部活は?」
「もちろん休んできた」
そう言うと実生は珠季の部屋へ向かおうとする。
「静かにな」
実生は小さく頷き、足音を忍ばせながら珠季の部屋の扉をそっと開けた。
実生が部屋へ入ってから数秒後。
「たまちゃん!」
嬉しそうな声が部屋の中から聞こえてきた。
俺も様子を見ようと部屋へ向かう。
扉を開けると、珠季はゆっくりと体を起こし、実生がその横へ座っていた。
「実生ちゃん……」
「もう大丈夫なの?」
「うん。朝よりずっと楽になったよ」
「よかったぁ……」
実生は安心したように胸を撫で下ろした。
「ごめんね」
「謝らない!」
実生は少し頬を膨らませる。
「風邪引きたくて引いたわけじゃないんだから」
「うん……」
珠季は少し照れくさそうに笑った。
その笑顔を見て、俺もようやく安心する。
「珠季、熱、もう一回測っとくか」
サイドテーブルに置かれた体温計を珠季に渡した。
「あ、はい」
珠季は体温計を脇へ挟み、静かに待つ。
数十秒後。
電子音が部屋に響いた。
珠季が体温計を取り出し、表示を見る。
「36.9度です」
「もうほとんど下がってるな」
俺がそう言うと、実生も体温計を覗き込み、大きく笑った。
「よかったぁ!」
珠季も安心したように小さく息を吐いた。
ーーー
「今日はもう無理しないでね?」
「うん」
珠季は小さく頷いた。
そして俺の方に視線を向けてから小さく口を開いた。
「熱も下がったので今日は家に帰ります」
「一人でか?」
「はい。もう大丈夫です」
珠季はそう言っているが、病み上がりに変わりはない。
「いや、送ってくよ」
「え?」
「荷物もあるだろ」
「でも……」
珠季は少し迷ったように俯く。
「ご迷惑じゃ……」
「迷惑なら最初から言ってない」
「……ありがとうございます」
珠季は小さく頭を下げた。
実生はそんな二人を見ながら嬉しそうに笑う。
「じゃあ私は留守番してるね!」
「頼んだ」
「はーい!」
ーーー
珠季の荷物をまとめ、マンションを出る。
外は夕方で暗くはないものの、肌を撫でる風はすでに冷たく、上着を羽織っていけば良かったと後悔していた。
珠季は来るときにも着ていた薄緑のパーカーを羽織っていたが、それでも少し寒そうにしていた。元々寒がりなのかもしれない。
「寒くないか?」
「なんとか大丈夫です。大翔先輩こそ大丈夫ですか?」
「俺は大丈夫だ。それよりもこの辺でタクシー拾っておくか?」
「そうですね。病み上がりなので」
「わかった」
丁度良いタイミングで空車マークの光るタクシーがこちらに向かってきていたため、俺は左手を挙げてタクシーを止めた。
タクシーへ乗り込み、珠季が住所を伝える。
車が走り始めて数分。
「思ったより近いんだな」
「歩いて15分くらいです」
「そんな近かったのか」
「はい。だからスーパーも同じところに行ってます」
言われてみれば納得だった。
家が近いなら、生活圏が重なるのも当然か。
そこからは特に会話はなく、車窓の景色を眺めているうちに、タクシーはゆっくりとマンションの前へ停車した。
ーーー
珠季が玄関の鍵を開ける。
「どうぞ」
そう言って扉を開けた。
「お邪魔します」
部屋へ入ると、引っ越してまだ日が浅いからだろうか。
室内は必要最低限の家具しか置かれていなかった。
白を基調としたリビング。
小さなダイニングテーブル。
テレビ。
「必要最低限って感じだな」
「まだ引っ越してきたばかりなので」
珠季は少し照れくさそうに笑う。
「ちょっと着替えてきますね」
「ああ」
珠季は自分の部屋へ入っていった。
俺は1人になったリビングを見回す。
静かな部屋だった。
規則正しい時計の秒針の音とクローゼットが開く音が聞こえる。
閉まるまでの間に時計の秒針はすでに何周かしていたように思う。
しばらくして部屋の扉が開いた。
「お待たせしました」
珠季は部屋着へ着替えて戻ってきた。
中央にクマが縫い付けられたベージュのスウェットを上着に、下は無地でブラウンのスウェットを履いていて、上下オーバーサイズで着ているのか、手足の指先が見えるくらいだった。
心なしか少しだけ表情も柔らかく見えた。
ーーー
「何か飲みますか?」
珠季がそう言いながら冷蔵庫へ向かおうとする。
「いや、大丈夫だ。それよりも珠季は病み上がりなんだから大人しくしてろ。いくら熱が下がったとはいえ、本調子じゃないだろ?」
「わかりました」
珠季は二人掛け用のソファーにちょこんと座った。
その姿を横目に見ながら、俺は持ってきた食材をキッチンに並べた。
並べるとは言っても、あらかじめ作るものは決まっているので、早速調理にかかった。
まず鍋に水を張って火を付け、沸騰したらタッパーから程よい大きさに切ったキャベツを入れて、葉が透明になるまで待つ。
透明になったらうどん、うどんスープを入れて、規定の時間になる前に卵一つを小皿に割り入れ、溶き卵を作る。
少し火を強めて、菜箸で鍋をぐるぐるかき混ぜて、流れを作ってから溶き卵を加える。
最後に水溶き片栗粉を加えてとろみが出たら、器に入れて最後にネギをかけて完成だ。
キャベツもネギもあらかじめ切ってからタッパーに詰めて持ってきたため、10分ほどで作ることができた。
「できた」
出来上がった料理を珠季が座っているソファーの前にある白を基調とした丸型のテーブルに置いた。
「ありがとうございます。いただきます」
珠季は目を閉じて丁寧に胸の前で手を合わせてから、花柄の箸を左手で持ち、うどんを音を立てないように啜ってからスープを一口飲んだ。
「おいしいです」
「スープの素は市販で売ってるやつが一番美味いからな」
「確かにそうですね。……でも、本当においしいです」
その後、珠季は黙々と食べていた。
朝に食べたお粥のときとは違い、器にはあとほんの少しのスープしか残っていなかった。
食欲もだいぶ戻ってきたみたいだ。
「ごちそうさまでした」
「はいよ」
「……甘えてしまってすみません」
「なにが?」
「昨日の夜から立て続けにご飯を作ってもらって……」
珠季は少しバツの悪そうな顔をしてこちらを見ていた。
「気にする必要なんてないよ。元々料理するの好きだから」
「また今度、お礼させてください」
「お礼?」
「お礼の内容はまた考えておきますね」
そう言って珠季は悪戯っぽく笑った。
その笑顔を見て俺も少し笑った。
ーーー
その後、食器を洗おうとしたが珠季に止められてしまい、することもなくなった俺は帰り支度をしていた。
玄関先で来客用のスリッパを脱いでサンダルに履き替えて、珠季に向き直った。
「明日はテスト、受けられそうか?」
「熱も下がりましたし、食欲も戻ってきてるので大丈夫そうです」
「そっか。じゃあまた……」
「はい……」
「……明日は俺がここに迎えに行くよ」
「えっ?」
「毎回来てもらうのも悪いしな。それに……」
「……病み上がりだからですか?」
玄関先の段差でやっと横並びになった俺と珠季の視線が合う。
ぷっ。
2人して笑ってしまった。
「俺、病み上がりって単語使い過ぎだな」
「私もそう思ってました」
「「……」」
急に訪れた静寂を前につい真顔になってしまった俺は、視線を珠季に戻す。
すると珠季も同じタイミングでこちらを見ていた。
なんだかさっきよりも距離が近くなっているような気がした。
手を伸ばせば触れられる距離感に俺は動けずにいたが、珠季の顔を見るとみるみる赤くなっていくのがわかった。
それを見た俺は我に帰った。
「……実生も家で待ってるし、そろそろ帰るよ」
「は、はい。……また、明日」
「……また明日」
そう言って俺は玄関を開けて扉を閉めた。
行きはタクシーで来たが、明日は迎えに行かなくてはいけなくなってしまったため、道順を覚えるためにも歩きで帰った。
その帰り道の途中、ズボンの右ポケットに入れたスマホが振動した。
開くと珠季からだった。
『昨日今日とありがとうございました。
おかげで元気になりました。
明日はよろしくお願いします』
俺は『よろしく』と一言だけ送っておいた。
珠季との距離が縮まったと感じる度に思い出すのはあの日の記憶。
決して忘れまいと胸に深く刻み込んだあの日の記憶。
誰のせいで両親が死んだのか。
誰のせいで実生が受けるはずだった愛情が奪われたのか。
俺のせいだ。
俺は家で待つ実生を思い浮かべながら走って帰った。
第9話を読んでいただき、ありがとうございます。
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