第3話 宣戦布告
俺が通う私立五十鈴ヶ丘高校は、県内でも有数の進学校であり、スポーツの強豪校としても知られている。
野球部やサッカー部、バスケットボール部をはじめ、多くの部活動が全国大会を目標に日々練習を重ねている。そしてフットサル部もまた、その一つだった。
学校から強化指定クラブとして認定されているほどの実力を持ち、毎年スポーツ推薦で数多くの選手が入学してくる。
そんな五十鈴ヶ丘高校において、どの部活動にも所属していないのは、おそらく俺くらいだろう。
クラスであまり目立たない生徒でさえ文化系の部活に所属している。それほど、この学校では部活動という存在が学校生活の一部になっていた。
もっとも、部活動への加入は強制ではない。
だから俺がどこにも所属していなくても、誰かに咎められることはない。
……一人を除いては。
―――
中学時代、全国大会準優勝。
俺と優斗は、その実績を評価されスポーツ推薦で五十鈴ヶ丘高校へ進学した。
優斗は迷うことなくフットサル部へ入部したが、俺は高校へ入学してから今日まで、一度たりとも練習へ参加していない。
そのことについて顧問や監督から直接何か言われると思っていた。
そもそもスポーツ推薦の取り消しだってあり得る話だ。
だが、意外にもそういうことは一度もなかった。
代わりに、会うたび優斗が伝言を持ってきた。
『監督がお前のこと聞いてたぞ。神森はまだ入らないのかって』
だけど、俺は入部する気にはなれなかった。
それでスポーツ推薦が取り消しになったっていい、そう思っている。
なぜなら、あの日。
父さんと母さんを失ったあの日から、俺はもうボールを蹴らないと決めたのだから。
―――
高校二年生。
新しいクラスでのホームルームも終わり、生徒たちが席を立ち始める。
去年と変わったことがあるとすれば、担任が変わったことくらいだった。
そして、その担任が俺にとって一番厄介な相手だった。
「神森君」
ホームルームが終わるなり聞こえてきた声に、小さくため息をつく。
前の席では、優斗が肩を震わせながら笑っていた。
「頑張れ」
「他人事だと思って」
「実際、他人事だからな」
そう言って優斗は逃げるように教室を出ていく。
薄情なやつだ。
俺は小さく息を吐きながら立ち上がった。
教卓の前に立つ女性――石鏡美久先生。
二年生から俺たちの担任になった先生であり、同時にフットサル部の顧問兼監督でもある。
すらりとした長身に整った顔立ち。
とてもスポーツ指導者には見えない。
むしろモデルと言われた方が納得できるくらいだった。
もっとも、俺が驚いたのはその容姿じゃない。
進級前の担任紹介で、この人がフットサル部の顧問兼監督だと知ったときだった。
思わず「は?」と間抜けな声を出してしまい、クラス中の視線を集めたのを今でも覚えている。
あとで優斗に文句を言うと、
『知ってるもんだと思ってた』
と苦笑いされた。
部活動から距離を置いていたとはいえ、自分の無知さが少しだけ恥ずかしかった。
「神森君」
「なんでしょう」
先生は満面の笑みを浮かべる。
「そろそろフットサル、やりたくならない?」
「結構です」
即答だった。
先生は肩を落とすどころか、むしろ楽しそうに笑っている。
「見学だけでも?」
「行きません」
「体験入部だけでも?」
「行きません」
「じゃあマネージャー」
「男です」
思わず返すと、先生は堪えきれず吹き出した。
「あははっ。そういうところ、好きよ」
「俺は好きじゃありません」
「冷たいなぁ」
そう言いながらも、先生は俺の机に軽く腰を預ける。
この一年、優斗から何度も勧誘されてきた。
そのたびに断ってきた。
それでも本人が直接ここまで来るということは、本気で俺を入部させるつもりなのだろう。
「優斗がいるじゃないですか。あいつ一人でもなんとかなるでしょう。それに学校側からわざわざ強化指定クラブとして認定されてるくらいなんですから。優斗以外にも良い選手が揃っているはずです」
「優斗君だけでも十分強いんだけどね」
「そうですね」
「でも神森君も欲しいのよ」
「商品じゃないんですけど」
「似たようなものじゃない?」
「教師としてその発言はどうなんですか」
「私は教師である前に、一人の人間だから」
さらりと言ってのける。
この人らしい答えだった。
「じゃあ、学校のためですか」
俺がそう聞くと、先生は首を横に振った。
「違うわ」
「じゃあ、なんですか」
「私が勝ちたいだけ」
「……はい?」
思わず聞き返してしまった。
「私は常に私利私欲で動いてるの」
あまりにも堂々と言われて、返す言葉を失う。
「教師失格じゃないですか」
「あら、そう?」
先生はくすっと笑う。
「人間ってね、結局はみんな自分のために頑張る生き物なのよ」
「自分が勝ちたい」
「自分が楽しい」
「自分が嬉しい」
「全部、自分のためでしょう?」
確かに、その通りだった。
スポーツだってそうだ。
試合に勝ちたい。
上手くなりたい。
全国へ行きたい。
その気持ちは、全部自分のためだった。
「でもね」
先生の声色が少しだけ変わる。
「その結果が誰かの笑顔に繋がるなら、それで十分じゃない?」
その言葉だけは、不思議と胸に残った。
先生は俺の表情を見ながら続ける。
「私は学校のために勝ちたいわけじゃない」
「自分が勝ちたいだけ」
「でも結果として学校が喜ぶなら、それはそれでいい」
「部員たちが喜ぶなら、それも嬉しい」
「だから私は、自分のために頑張るの」
この人の言っていることは滅茶苦茶だ。
なのに、不思議と筋が通って聞こえる。
それが石鏡美久という人だった。
「……先生」
「ん?」
「俺はもう、フットサルはやりません」
先生は少しだけ目を細めた。
「そう」
短く答えたあと、小さく笑う。
「でも私は諦めない」
「今年中には、絶対に入部してもらう」
「そのためなら、どんな手段でも使う」
「脅しですか」
「いいえ」
先生は人差し指を一本立てる。
「宣戦布告よ」
そう言って踵を返した。
迷いのない足取りだった。
「……どんなことしてくる気なんだ、あの人」
―――
教室を出ると、廊下には部活動へ向かう生徒たちの声が響いていた。
運動部の生徒たちはすでに着替えを済ませ、友人と笑い合いながら体育館やグラウンドへ向かっていく。
その光景を横目に、俺は一人昇降口へ向かった。
あの日の事故がなければ、あの輪の中に優斗と並んでいたのかもしれない。
そんなことを考えた自分に苦笑する。
……もう戻らない。
戻るつもりもない。
そう決めたのは俺自身だ。
靴を履き替え、校門へ向かう。
春の風が制服の裾を優しく揺らした。
入学式ということもあり、校門前にはまだ多くの新入生や保護者が残っている。
その中に、一人だけ見覚えのある後ろ姿があった。
肩まで伸びた茶色がかった髪。
白いカーディガン。
周囲をきょろきょろと見回しながら、誰かを探しているようだった。
……神原。
そう思った瞬間だった。
神原が俺に気づき、ぱっと表情を明るくする。
そして、小走りでこちらへ駆け寄ってきた。
「神森先輩」
少し息を弾ませながら、俺の前で立ち止まる。
「お、お疲れ様です」
「……お疲れ」
朝も会ったばかりだというのに、神原はどこか嬉しそうだった。
「その……今から帰りますか?」
「ああ」
神原はほっとしたように胸をなで下ろした。
その仕草を見て、ふと疑問が浮かぶ。
「ひょっとして……待ってたのか?」
そう尋ねると、神原は少しだけ目を丸くした。
そして照れくさそうにはにかみ、小さく頷く。
「……はい」
その一言だけだった。
それなのに、なぜだか胸の奥が少しだけ温かくなる。
もう会うことはないと思っていた後輩が、今こうして俺の帰りを待っている。
不思議な感覚だった。
「じゃあ、帰るか」
「はい!」
神原は嬉しそうに笑った。
俺たちは並んで歩き始める。
まさか、その帰り道で神原との距離が一気に縮まることになるなんて、思いもしなかった。
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