第2話 あるはずのない再会
『――大翔!!』
飛び起きた。
荒い息を整えながら、じわりと汗ばんだ首筋に手を当てる。またあの夢だ。あの雨の夜。父さんと母さんの声。それだけで目が覚める。慣れたと思っていたのに、身体はまだ慣れていないらしい。
ベッドのそばに置いたデジタル時計に目をやると、時刻は五時四十九分五十秒と表示されていた。その秒数が零になったのと同時にアラーム解除ボタンを押した。
カーテンを一気に開ける。四月の朝の光が部屋に流れ込んできて、さっきまでの夢の残滓を少しずつ薄めていく。深く息を吸って、吐いた。
よし。
トイレを済ませ、洗面所で顔を洗う。ついでにドラム式洗濯機に洗濯用洗剤と柔軟剤を入れてスイッチを押した。ゴウンゴウンと音を立てて回り始めたのを確認してから、キッチンへと向かう。
まず米を研いで炊飯器をセットする。出汁を取りながら冷蔵庫の中身を確認し、今日の弁当のおかずを頭の中で組み立てる。卵焼き、鶏の唐揚げ、ほうれん草のおひたし。品数は多いほうがいい。実生はバスケ部に入ってから食べる量が増えた。
弁当を二つ作り終えた頃、ちょうど洗濯機が止まった。衣類を下に、タオルを上にして干しやすいように仕分けてからベランダへと出る。四月の朝の空気は少しひんやりとしていて、それが心地よかった。
弁当の残り物で朝食を済ませ、壁の時計を確認する。七時を少し回ったところだった。
「そろそろ起こしに行くか」
廊下を渡り、向かいの部屋のスライド式のドアを開ける。薄暗い部屋の中、だらしない寝相でぐうぐうと寝息を立てる実生がいた。
「実生ー、そろそろ起きろー」
返事がない。
またか。
「……私が起きなくても、世界は上手く回ってるよ、お兄ちゃん」
「勝手に世界をしょい込むなよ」
実生は昔から寝起きが悪い。おまけに朝は判で押したようにネガティブ発言を連発する。毎朝違う言葉を繰り出してくるので、俺はいつの間にかそれを少し楽しみにしていた。最初から「遅刻」というワードを使えば一発で起きるのはわかっているのだが、それをやってしまうのはなんとなく惜しい気がした。
「そろそろ起きないと、遅刻するぞ」
その瞬間。実生はベッドの上に仁王立ちになった。
我ながら現金なものだと思う。あれだけ眠そうにしていたくせに、遅刻という一言でこうも変わるとは。バスケ部の監督がよほど怖いのだろう。
完全に目の覚めた実生は、俺がいるのもお構いなしにパジャマを脱ぎ捨て制服へと着替え始める。
「お前、俺の前では別にいいけど、他の男がいる前では絶対にそれするなよ」
「あれー? お兄ちゃんひょっとして私のこと好……」
「違う。家族の前ではいいけど、他人の前ではするなってこと」
「……わかってるよ。それくらい」
変な空気になってしまった。俺が言った「家族」という言葉に、実生が一瞬だけ反応したように見えた。気のせいかもしれない。でも気のせいじゃないかもしれない。
「まあ、飯食えよ」
「うん」
四人掛けのテーブルにラップをかけた実生の朝食を置く。以前は二人がけのテーブルで十分だったのに、いつの間にか四人掛けのものに変えていた。自分でも気づかないうちに、そうしていた。
「あ、それよりもお兄ちゃん」
「ん?」
「今日、部活ないんだ。うちの中学も入学式だから」
「そうなのか」
「うん。だからね、お願いがあるんだけど」
「なんだ?」
「二人の進級祝いも込めて、今日はごちそうでも作らないかなー、と思いまして」
「わかった」
「ええっ!?」
「何驚いてるんだよ」
「だってこんなにあっさりオッケーしてくれるとは思ってなくて。それにお祝いって言っても、ただ進級するだけだし」
「自分で言っちゃうのか、それ」
「確かにそうだね」
冷蔵庫の食材でも作れなくはないが、せっかくなら買い物しておいたほうがいいだろう。
「じゃあ帰りにスーパー寄って食材買ってくるわ」
「うん!」
「やけにテンション高くないか?」
「べっつにー」
ニヤニヤする実生の表情が、俺にはどうにも引っかかった。何かを知っているような、あるいは何かを企んでいるような、そんな顔だった。
―――
戸締まりを確認してエレベーターで一階まで降りる。
美鈴さんの経営するこのマンションには、玄関を出た先に少し広めの庭がある。どこもかしこも手が行き届いていて、美鈴さんの話によると専属の庭師を雇っているらしい。四季折々の草花が丁寧に手入れされたその庭の中央に、一本のハナミズキが植えられていた。白い花びらが朝の光を受けて静かに揺れている。
その木の下に、見覚えのある少女が立っていた。
……は?
誰かを待っているのか、少女の視線は落ち着きなく右往左往していた。やがてふいに、その目が俺の方を向いた。
この感覚、どこかで――。
目が合った瞬間、少女は一目散にこちらへと駆けてくる。
「あ、あの」
「は、はい?」
「か、神森先輩、ですよね?」
思わず半歩引いた。よく見ると、少女は俺の通う高校の制服を着ていた。うちの高校はネクタイの色で学年がわかるようになっている。少女の細い首元に結ばれたネクタイの色は青。今日の入学式で高校生になる、新入生だ。
「ひょっとしてうちの新入生? 道がわからないなら……」
「覚えて、ないですか?」
少女の声が、少し沈んだ。
俺はあらためて少女の顔をまじまじと見つめた。茶色がかった髪。少し丸みのある目。どこか懐かしいような、でも確かめるのが怖いような。
「……まさか、神原か?」
恐る恐る聞くと、今までのどこか不安げな表情が、ぱっと花開くように笑顔に変わった。
「そうです。覚えててくれたんですね」
「ああ……でも、なんでここに?」
神原珠季は、もじもじと指先を合わせながら「私も先輩と同じ高校に通うからですよ?」と言った。恥ずかしげに、でもどこか嬉しそうに。
「いや、でもなんでわざわざ地元から離れた高校に……」
「それは……内緒、です」
そう言って珠季は少し視線を逸らした。白いハナミズキの花びらが一枚、ふわりと二人の間を舞い落ちた。
あの日、墓前で立てた誓いは、この再会によって、少しずつ揺らぎ始めることになる。
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