十六夜祭、初日。
朝もやは世界を白くしてしまうくせに、景色も近くにある物も影の中のように全部を黒っぽく見せる。
湿気を含んだ冷たい空気は、吸い込んだ気道や肺の中をきれいに洗い流してくれる感じがする。
昼間は邪魔になると分かっているカーディガンも、やっぱり朝のうちは着ていたい。
クモの巣に水の球が連なるように、朝の空気がカーディガンの繊維の上で小さな水の球を作っている。服から出ている部分は風呂上がりに乾ききる前みたいにしっとりと水気を含んでいた。
これだけの水分が昼間にはきれいさっぱり消えてしまうのが面白い。
そして明け方にはまたいつの間にか戻ってくるところも。
木々の向こうから太陽の光が流れ込んでくると、一瞬にして朝もやは白さを増す。眩しさに目を閉じて明るさに慣らそうとしていると、頭を柔らかく抱えられる感触と、優しい声が上から降ってくる。
「いつからここに居るの?」
少しだけ怒ったような表情をしていても、冬の空の色に似た青い目は細められ、口の端は少し持ち上がっている。
質問に答えようと考えているうちに、額にひとつ口付けを落とされた。
小さく息をこぼして隣の席に腰を掛けると、カフェテーブルに片手で頬杖をついた。もう片方の手は闇色の髪を梳いて耳にかけ、そのまま頬に添えられる。
「……冷たいんだけど。……髪の毛も少し濡れてるし」
「見て、リュカ。白いつぶつぶ」
カーディガンや髪の毛に降ってきた小さな水滴を引っ張ってリュカの目の前に持っていく。
「……話を逸らしません」
頬をふにふに引っ張られらると、夜は笑いながらリュカの言葉を復唱する。
今度の口付けは唇の上に落とされた。
今日行くと予定している学園祭が楽しみで早く目が覚めてしまった、と夜は嬉しそうに説明した。
ひとつひとつの仕草を見ているだけで腰骨から力が抜けていきそうになる。骨抜きになるとはこの事だろうと自覚はあって、そんな自分にドン引きしつつ、何が悪いと開き直ってもいる。
ふたりだけで過ごせる毎分、毎秒、なんてかわいいんだと思ってしまう病に罹ってしまったのだから仕方がない。
ふたりだけで過ごす毎分毎秒を存分に楽しむしかない。
誰かが起き出してくるまでの朝のこの時間を、リュカは宝物のように大切にしている。本当に誰にも邪魔されずふたりになれる時間は、考えれば悔し涙が滲み出るほど短い。
ほのかさんのクラスの展示会場は、文化・芸術科の校舎の中でも、良く言えば歴史を感じる佇まいで、四季を存分に堪能できそうな隙間がそこかしこで自己主張していた。
長い長い時間を経ないと出ない黒に近い飴色の床は、その上を通った人数を物語って板一枚一枚が丸みを帯びている。
特科の校舎がヨーロッパの屋敷なら、この絵画クラスは大正ロマン漂う和洋折衷なデザインで、調べるまでもなく実際にその時代に建てられただろうと、はめ込まれた気泡入りのガラス窓や角の取れた柱を見れば簡単に想像がついた。
ご一行様は午前中の比較的人の少ない時間帯に絵画クラスにお邪魔した。
校舎の作品をひと通り見てまわる。
教室の壁には絵画が掛けられて、床には大小様々な彫刻や素材の分からないオブジェがぽつりぽつりと飾ってある。
見ているうちに昼に近い時間になってカフェに落ち着いた。
モダンな色柄の和装の上に白いエプロンのほのかさんが笑顔で出迎えてくれる。
いつもより大人しい史隆を生暖かい目でにやにやしながら見守り、特科の男子目当てに群がってくるその他の女子を華麗にかわしつつ、ほのかさんに専属で給仕をしてもらいのんびりと過ごした。
夕食の時間にいつもの食堂で落ち合う約束をして、リュカと夜はご一行様から別れて行動することにした。
近寄ってくる女子生徒を嫌味なく遠ざけ、近寄ろうとする男子生徒を噛み付きそうな勢いで睨みながらもふたりは学園内デートを満喫する。
約束の時間に食堂に行くと、リュカと夜以外の全員がすでにテーブルについて食事をしている最中だった。そしてもうひとり。
「エイト、いい子にしてたのか?」
いじめっ子から遠ざかろうと食器の乗ったプレートを持って立ち上がった瑛人を、もう片方、小さい方のいじめっ子がまぁ座りなさいよと引き止める。
「祭りの初日はもう終わったんだから、特に用事もないだろ?とりあえず付き合えよ」
特科の二階、居住スペース。男子チームサイドの空き部屋には、今朝まで普通科にあった瑛人の荷物がひとつ残らず移動していた。
部屋の入り口で立ち尽くした瑛人の斜め後ろで、都がにこにこと機嫌良さそうにしている。
呆れてものが言えなくなっている所に、お互い手間が省けて良かったなと背中を叩かれた。
学園をうろついている間に荷物を動かされて、ついでに普通科から特科の生徒になっていた。
教室で当たり前みたいな顔で椅子に座って、和やかにお茶を飲んでいる。
周りの雰囲気のままにお茶淹れジャンケンもしたし、お風呂ジャンケンで順番も決めた。
ここに居るのが当然で、昔からそうしていたように。
手間が省けた。
何の手間だ。
誰の?
俺の仕事がしやすくなったのか、その逆か。
覚悟を決めないといけないのか、
俺が死ぬのか、
その逆か。
すれ違った瞬間に触れ合ったのは、お互いの手の甲だった。
瑛人の襟を後ろから掴むと、膝裏を蹴ってそのまま下に引き倒した。倒れた瑛人の腹の上に馬乗りになってきたのは、夜だった。
「……殺すからって言ったよ?」
デカい男の体重すら大して苦も無く片手でどうとでもできるのに、瑛人は自分の体より小さな夜を動かせない。動かせる気がしない。
「いい子にしてろって、言ったのに」
何をしているんだとかけ寄ったリュカに手のひらを向けただけで、その場から一歩も夜に近付けなくなった。
手首にある腕輪はいつもより少なくなっている。
自分の手首に視線が集まっていると気が付くと、夜は笑みを深めて、両方の手首から腕輪を一本ずつ引き抜いていく。少し離れた床に投げられ、落ちるたびに鈴のような高い音が鳴る。
「リュカはエイトを殺せない……だったら私がやればいい」
誰も夜とその下にいる瑛人に近付けなかった。
近付こうという気が起きなかった。このままだと夜は言葉通りに実行するだろうと分かっていても、止めなければと思っても、止めるという行動を起こせない。
その場に立ち尽くして、言葉も発せず、ただ見ている事しかできない。
瑛人の着ているジャケットのボタンを外すと、胸元に手を滑らせる。
「それとも私の体をあげようか。……私も限りなく0番に近いし。もっと他にも色々作ってみたいでしょ?……ねぇ? アラタニ」
胸の内ポケットから摘み上げたのは、シルバーの音楽再生プレイヤーのようなもの。
よく似せてはあったが、電源が入ったままの状態で小さな赤いランプが灯っている。
見下ろした瑛人と目が合うと、夜は口の片方だけを持ち上げて、歌うように続けた。
「……へぇ。そういう事なら、当初の計画通りに会うことにしようか。それまでエイトは殺さないでいてあげる……わかった?アラタニ……じゃあね」




