そのあと。
琴野がくしゃみをして、コッティが気が付いた。
「リュカ、中に入ろう。ここは寒いんじゃないのか?」
「…ああ。そうだね」
手を引いて立たせようとするが、やはり夜は何の反応もしない。
心底困ったように顔を歪ませて、夜を椅子から抱き上げた。
人形のようにだらりと下がった手首の数本の腕輪がぶつかり合って、リュカが歩くたびに鈴のような高い音を立てる。
琴野は先に校舎に入って、まだ暗い教室に灯りをつけた。
リュカは夜を抱えたまま、『まったりするところ』に腰を下ろす。
どうしたらいいんだと夜を抱きしめた。
「榊に電話をしてみよう」
そうコッティが言って、琴野はそのまま電話のあるキッチンに向かった。
受話器を取り上げて、耳にあてて肩に挟むと、榊の番号を押す。
呼び出し音が途切れたタイミングで、受話器をコッティに向けた。
「榊か……朝早くに申し訳ないんだが」
相手は寝起きで、相当に機嫌が悪い。
掠れた声で何の用だ、と言った。
その声で、榊には自分が女性であるという自覚はあるのだろうかと、コッティにいらぬ心配が生まれてくる。
「それが……夜の様子がおかしいので、どうしたらいいか、困っていて……」
コッティの言葉を理解するのにしばらく時間をかけた後、すぐ行く、それだけ言って電話は切れた。
「……榊が嫁に行けるのか心配だな」
琴野は困った顔で微笑んで、受話器を壁にある電話に戻した。
3人分のカップを用意して、お湯を沸かそうとポットに水を入れた。
夜の好きなココアを用意し始める。
琴野は嫁の行き先に不自由しないだろうが、そう易々と渡したりしないと、コッティは心の中でそうつぶやいた。
飲み物を用意して戻った時には、昼寝用にいつも置いてある赤いブランケットが夜にかかっていた。
リュカは笑顔でカップを受け取ると、夜の前に持っていく。
夜はリュカの胸に頭をもたれさせて、ぼんやりとどこかを見ている。
目の前のココアに焦点は合わない。
「……榊がすぐに来てくれるらしい」
自分の事の様に辛そうな顔をふたり見合わせる。リュカは手に持ったカップを少し持ち上げて琴野に礼を言った。
ひとつ頷いてすぐ近くにあった椅子を引いてくると、琴野はコッティを膝に乗せて座る。
15分程で榊は現れる。
昨日と同じ服のままだった。相当走って来たのか息を切らせている。
昨日からそのまま保健室にいた榊は、いつものかかとの高い靴で、スポーツ科の校舎から10分少々でダッシュしてきた。
荒く息を継ぎながら、夜の前に膝をついて座り込む。
声を掛けながら、顔や手に触れ、眉間にしわを寄せた。
「体が冷たいわね、どうしたの?」
反して自分は白衣を脱ぎながら、3人に問いかけた。榊の額には汗の粒が浮いてきている。
「夜中に部屋を出て行ったきり戻らないから、心配になって探しに出たのだ。さっきまでずっと外の椅子に座っていたようだ」
「……ずっと、こんなふうに無反応なの?」
「そう……でも昨日はもっと…それでも、しゃべってた」
「ーーーもっと体を温めなきゃね。…琴野さん、悪いけど毛布か何かを持ってきてくれない?」
琴野は頷いて、座っていた椅子にコッティを座らせて、自分の部屋に向かおうと階段を上る。
榊はだらりと下がった夜の手を取って、腕輪を見る。
「…原因はこれだとは思えないんだけどねぇ。これくらいしか思い当たる節がないのよねぇ…」
榊は自分の額に手を持っていき、しばらく考えた後、何本もある腕輪を両方の手首から1本ずつ外して、近くの床の上に置いた。
しばらく様子を見ても、夜に変化はない。
「……半分程いっとくか?」
自分に問いかけて、また1本ずつ腕輪を引き抜いた。
「夜?」
リュカが夜に話しかける。
「どうしたの?ルカ」
「いや、今なんか…夜の声が…」
「そうか、ルカは今ぴったりくっ付いてるからねーーーって、オイ!今気付いた!何を私のかわい子ちゃんを抱きしめとんじゃい‼︎」
「榊……今はそんな事気にしている場合ではないぞ」
「むーーー。まぁ、今は許してやろうじゃないか。……いいか、今だけだぞ!しゃーなしだからな‼︎」
そんな言葉は、当のリュカにはこれっぽっちも届いていない。
夜をそっと揺り動かして、何度も名前を呼んでいる。
琴野が戻ってきて、広げた毛布で夜を覆ってやる。
しばらく呼び続けると、夜は何度か瞬きをして、目の焦点がゆっくりと近くで結ばれる。
目の中に光が戻ったように見えるのと同時に、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちてきた。
「夜?聞こえる?……俺の事、わかる?」
声のする方を見上げて、リュカ、と口だけを動かした。
リュカは音になっていない夜の声が聞こえて、そうだよ、と返事をする。
リュカはほんの瞬間目を見張り、すぐに眉間にきつくしわを寄せて、苦しそうに短く呻き声を出す。
「……ーーー先生、それ……腕輪、返して……」
榊はついさっき外したばかりの腕輪を床から取り上げて、手を出しているリュカに渡した。
少し震える手で元あったように腕輪を夜の手に通してやる。
大仕事をこなしたように大きく息を吐く。
一気に脱力して背もたれに体重を預けた。
はあ、キツかったとつぶやきながら、顔に浮いてきた脂汗を手で拭う。
夜があかんぼうのように大きな声をあげて泣き出した。
さっきまで力なく垂れ下がっていた手足を自分の胸に引き寄せて、小さく縮こまる。
すっぽりとリュカの腕の中に収まった。
リュカは毛布の上から、あかんぼうにするようにとんとんと夜の背を叩いてやる。
榊は夜に手を当てて、安堵のため息をゆっくりと吐き出し、良かったとつぶやいた。
「こんなに朝早くに、いったい何の騒ぎだよ」
2階の手すりによりかかり、都は階下にいる全員に何事かと確かめる。
いつもの半分しか目が開いていない。
誰かが走り回る音と、誰かの泣き声で目が覚めたと、Tシャツの下の腹をなでながら、階段を下りてくる。
ダボダボのシャツと短パンの、年相応に可愛らしい9歳児は、老人のようにリュカの横にどっこらしょと腰を下ろした。
「……こりゃ。……豪勢に泣いて、まぁ。どうしたのかね……」
都もぽんぽんと夜の背中を叩きだした。
しばらくすると泣き声は小さくなり、徐々に落ち着いて、夜は泣き止んだ。
今は琴野が温め直してくれたココアを両手に持って、少しずつ飲んでいる。
榊は頃合いを見計らって、その腕輪と前のアレとどっちが良いかと夜に尋ねた。
「こっちの方が良いもの。これは静かになるし、かるいし、だれにさわってもだいじょうぶ。あと、かわいい」
頷くと、次に何が起こったのかを聞いた。
思い出した途端、顔を曇らせる。
振り返ってリュカの顔を見上げる。
リュカは微笑んで、大丈夫だよ、と夜の腰に手を回す。
何をどう言おうか、考えて視線はちらちらと動く。
長い時間迷って、考えて、出て来たのは。
「琴野、ごめんね」
ぽつりと言って、申し訳なさそうに俯いた。
琴野は座っていた床から立ち上がる。
持っていた空のマグカップが床に転がって、ゴトッと鈍い音を立てた。
「どうしたんだ、琴野」
コッティの言葉で、何事かを考えていた都は顔を上げる。
「……琴野さんを、呼び捨てにするのは、こいつと、和隆だけだ……」
椅子に座った人形に視線を向ける。
「琴野に伝えてくれないかな、ごめんねって。心残りはそれだけなんだ〜」
夜はまるで和隆の話し方でそう言った。
夜が言い終える前に、琴野は和隆の部屋に走り出していた。
ベッドはきちんと整えられ、家具以外は何も無い。
ゴミさえも処分されて、元から生活感の無い部屋は、更にひと気を失っていた。
部屋の主は居ない。
この日を最後に、和隆は姿を消して、完全に消息を絶った。




