だいじょうぶ、だいじょうぶ。
いつかは覚えていないけど、夜が子どもの頃によつばが現れたという。
今ここに居るよつばよりも年を取っていた感じがするという。
自分はよつばだと名乗り、今よりも子どもの夜にあなたはお母さんだと告げた。
次々に出てくる質問に答えながら、少しずつ思い出す。
でもその時自分がどういう状況だったか、いつやって来て、いつ居なくなったか。その詳細は覚えていないと話は終わった。
「よつばを見たときに、前に会ったのを思い出した。それにみんな、わたしを見るたびに、おかあさん、おかあさんうるさい」
もちろん口に出しては誰一人言っていなかったが、心の中では違ったらしい。
「言わないようにしてても、わかるよ、よつば」
抱えていたお盆を机の上に置いた。
持っているものがとてつもなく重く感じて持っていられなかった。
心臓が大きな音を立てて、一気に血液が体を駆け巡る。
同時に意識がどこかに吸い取られて、遠く消えて無くなりそうになる。
「………ーーー全部?」
「うーん。ーーーたぶん、ぜんぶ」
力が抜けて、よつばはその場にへたり込む。
よつばの隣にしゃがみ込むと、頭を撫でた。
「だいじょうぶ、こわくないよ……これ見てよつば。ここからきじゅんちを間違えてるよ?」
「………ーーーえ?」
持っていた資料を床に置き、一か所を指差した。数ページ戻してもう一度指差した。
「これよつばが作った。ここのたんいが違うから、あとの方でおかしくなる」
「…………ーーーあ、ホントだ」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。今からなおせばいいんだよ」
せめて榊とリュカだけには知られないように、心を持ち直す事に神経を集中する。
目の前の夜は、大丈夫だよと繰り返しながら、笑顔でよつばを見つめていた。
触れられた夜の手から安心感が流れ込んでくる。
さっきまで胸の中にあった大きな氷の塊のようなものは、溶けて小さくなった。
いつの間にか雷は遠くで次の獲物を探して唸っていた。
外は明るくなって、雨も小降りになっている。
リュカは虹が見えるかもしれないと、保健室の窓から出て小雨の中に飛び出して行った。
夜もその魅力的な言葉に、リュカの後に続いて窓枠を乗り越えようと足を掛けている。
濡れるからちょっと待ってと言うリュカの静止は校舎に響いて反響する。
雨の中に飛び出して、リュカの側まで駆け寄った。
走ってきた夜を抱きとめて、肩に掛かったタオルを頭にかぶせ直す。
ぐるりと一周見回して、太陽の角度が悪かったのか、今いる場所からは見えない位置に出来ているのか、そこから虹は見えなかった。
ないないとはしゃぐふたりを見ながら、榊はふんぞり返った椅子からずるずると落ちる手前まで腰をずらした。
「おーおー。……見たまえ、よつば。あれが、青春というやつじゃないかい?」
「………でしょうね。ーーー僕のとはずいぶん違いますけど」
「ずいぶんか………どれ位違うって?」
横に立って同じように外を見ているよつばは、外にいるふたりと良く似た笑顔を浮かべている。
「僕の近くには女の子はいませんでした。……ーーー男子校だったんで」
「……ああ、心中お察しします。ーーーまぁ、良いじゃん?今は隣に美人が居るんだから」
「ははは、そうですね」
ふたりに良く似た笑い顔と、乾いた笑いに腹が立って、榊はよつばにパンチを繰り出した。
ひとつ舌打ちをした後、榊の教育的指導が校舎に響く。
「コラーーー‼︎そこのケダモノーーー‼︎必要以上のお触りは控えなさーーーい‼︎‼︎」
夜を背負ってぐるぐる回転していたリュカは、夜を降ろすと、これ見よがしに抱きついた。
いたずらっ子がふたり笑い合っている。
「………ーーー僕がここに来た理由がもしあるんなら」
窓枠に足を掛けた榊が振り返る。
「多分、これです。ーーーこれが見たかった」
「………いい大人が泣かないでよ」
「泣いてません」
目からは零れていないので、本人の判定ではギリギリセーフだったが、榊の判定ではアウトだったらしい。
タオルはあっちと指差して、窓枠を乗り越えて外に出て行った。
『言わないようにしてても、わかるよ、よつば』
『だいじょうぶ、こわくないよ。今からなおせばいいんだよ』
頭の中で繰り返される言葉で、完璧にアウトになったが、誰にも見られないうちにタオルを探しに行くことができた。
心の氷は溶けきらない。
体の芯を冷やして、それはなくなろうとしない。




