day 12 雷と卵。
湿った風が鼻先を通り過ぎていく。
匂いが変わった気がして、リュカは顔を上げる。
木々の隙間に見える空は、雲の流れるスピードが速い。
「降りておいで、夜。雨が降りそうだ」
3m程の高さから、いやだと楽しげな声が降ってくる。
太い枝に片足を置き、さらに上を目指して幹にしがみ付く姿は、本当にわんぱく小僧そのものだ。
「雷が鳴るかも。そしたらおヘソを取られるよ」
上った枝に両足を乗せて立ち上がると、不思議そうな顔をして夜が見下ろしている。
「なんでおへそを取られる?……誰が取るの?」
なぜこんな事を言い出したのか。
自分が昔言われたんだったと思い出して、かくんと頭が下がる。
年寄りかと落ち込んだ。
まあいい。
雨に濡れて、夜が風邪をひかなければそれでいいと気を持ち直す。
「下りて来たら教えてあげるから…ほら」
差し伸べられたリュカの手と、これから目指している木の頂上とを見比べる。
「もう少しで、上までいけるから、だから、やだ」
「そこより上は危ないよ。もう枝が細いから……あ、夜!」
注意はしていても、怒ってはいない。
それが伝わるから、夜は天辺を目指して上の枝に足をかけた。
もう少しでも上に行けば落ちるのは目に見えている。
どう見たって今足をかけている枝は、夜の体を支えられないだろう。
いつ落ちてきても大丈夫なようにその瞬間を待つしかない。
夜の位置から真下には、太い枝が張り出している。
あれにぶつかると痛そうだ、そう思っているうちに、木の軋む音は、そのまま延長して折れる音に変わった。
夜が足場を失った時には、リュカはもうその下の枝に登りきって、夜の体をしっかり確保していた。
この枝もふたり分の体重はキツイと軋む音が聞こえて、折れる前に滑るように地面に着地する。
本当に落ちるのとスピードはそう変わらない。
リュカの力で確実に安全に落ちた。
「……ほら、落ちた」
一瞬の出来事に、驚いて目を見開き、状況を飲み込もうとしていた。
不意に足場がなくなって下に落ちる感覚は不安とは結びついても、恐怖には結びつかない。
それはリュカが居て支えたからで、セットで付いてくる痛みとも結びつかなかった。
安全が約束されたジェットコースターに乗ったようなものだ。
「………落ちた‼︎」
楽しそうに笑う夜を地面に立たせて、夜の顔をこちらに向ける。
「夜。俺だったから、痛くならなくて済んだんだぞ」
言葉以外の気持ちも正確に夜に伝わって、顔つきが真剣になる。
「……そうか。ーーーわかった」
「たまには言う事を聞きなさい」
頬をつままれたりこね回されたりしながら、ごめんなさいはと強要され、夜が謝ってもとてもそうは聞こえない謎の言葉が飛び出して、ふたりは笑い声を上げる。
葉擦れの音が大きくなる。
揺れている下草の振り幅が大きく、ランダムになってきた。
ちょうど手の甲に当たった水の粒に、リュカはああと声を漏らした。
「雨だ。ーーー行こう、夜」
この場所から特科の校舎に帰るよりは、スポーツ専攻科の校舎の方がはるかに近い。
不本意過ぎて腹が立つが仕様がない。
少しでも雨に濡れない事と、運動バカ達に見つからない事を賭けて、特科とは反対方向にふたりは走り出した。
夜にとって反対側は、初めての場所だった。
特科とは比べものにならない大きな建物に、夜は驚いた声を上げる。
スポーツ専攻科の校舎は4階建て。
1階は職員室や榊の居る保健室、生徒会室やその他の教室ではない部屋が集中してある。
建物を半分に分けて、全員で250人程が入る教室と、100人程の寮生の部屋が同じ建物の中にあった。
校舎の向こうに残りの150人が生活している寮、体育館やグラウンド、屋内プールなどの施設がいくつも並ぶ。
さらにその向こうが普通科の校舎と寮。
いつも行く食堂は普通科にあって、スポーツ専攻科の校舎よりさらに建物は大きい。
この風向きでは軒下でも雨が吹き込んで濡れてしまう。
静かな校舎を見上げて、授業中なのを確認すると、リュカはそのまま夜の手を引いて、榊の保健室に向かった。
保健室に入って電灯を点けると、作業に没頭していた榊とよつばは明るくなった事に驚いて顔を上げる。
戸口に立つリュカと夜を見てさらに驚いた。
「目が悪くなるよ、ふたりとも」
「どうしたんですか、こんな所に」
リュカが窓の方に顔を向ける。
少し前に降り出した雨は、保健室に来るまでの間に勢いを増して、大きな粒が窓ガラスを叩いていた。
「降ってきたから、こっちに来たんだ。近かったし」
「濡れてませんか?ふたりとも」
「ちょっとね。タオルある?」
榊がそこにと指差した先には、色んなものに埋もれた奥の方に、プラスチック製の引き出しが3つの衣装ケースが並んでいる。
「夜、良いトコに来た。ちょっとこっちに来て、コレ見て」
机の端に積んである紙の山を数回叩いた。
リュカは夜の背中を部屋の中へそっと押して、自分は様々を乗り越えてタオルを取るべく進んで行く。
紙の山の真ん中あたりから束を引き抜くと、その上のまとめられていない紙が雪崩を起こして机の下に落ちた。
それを見もせず軽くあーあと言いながら、夜に引き抜いた束を渡した。
「ちょっとそれ読んでーーーんーと、その辺で」
生徒用のベッドを指差して自分は作業に戻る。
見かねたよつばが立ち上り、床に散らばった資料を拾い集めて机に戻すと、すぐそばにあった榊のカップを手に取った。
夜には椅子を引っ張って持ってくる。
「ココアをいれましょうか?」
椅子に座った夜は元気よくよつばに返事した。
いそいそと楽しげに用意を始めるよつばを見ながら、ひとつ椅子を持っていくと、リュカは夜の隣に腰を下ろした。
タオルを夜の肩にかけて、見ている資料を覗き込んでも、そこに何が書かれてあるのかさっぱり理解できない。
どん、と建物が振動する。
足元から痺れるような振動が這い上がって、窓がカタカタと鳴った。
一瞬明かりが消えて全員が顔を上げた。
榊がヤバいとパソコンの電源を落とそうと手を伸ばす。
夜は息を止めて、窓の外を見ていた。
「夜、雷だよ」
景色が消え飛ぶほど白く光って、しばらく間をおいて腹に響く音が鳴る。
風が雨と一緒に窓にぶつかって跳ね返る。
資料を持ったまま立ち上り、窓辺に吸い寄せられていく。
「リュカ‼︎あれがかみなり⁈‼︎」
嬉しそうに窓ガラスを叩いて振り返る。
「あの白いのにおへそをとられるの⁈」
鳴り響く音の後に、数人の色々な種類の感想が廊下から聞こえてくる。
磨りガラスの向こう側を人影が通り過ぎていった。
全員で人影を見送って、榊はリュカを視界の中心に置いた。
「……ーーーあんた、何教えてんのよ」
「うん。……ーー自分でも、どうしてあんなジジイみたいな事を言ったんだか」
「……なにがおへそをとりに来るのか?」
「ーーーさぁ、何だろうね。見たことないんだよね、俺。……よつばは見たことある?」
「え⁈ーーーいや……まだ僕のお腹には付いてるんで、おへそ。……多分、見た事ないと思うんですよね」
コーヒーを淹れている後ろ姿が、話を振られないように気配を消していたのにと訴えていた。
「……見たひとはおへそがないんだったら、おへそのないひとをさがして聞けばいい」
リュカの前にコーヒーを運び、夜の前にはココアを置いて、手を出している榊にカップを渡す。
案の定、熱いと突き返されて机のわずかなスペースに置き直した。
「ーーー冴えてるわね、夜。いい線いってるけど、会う人会う人におヘソが有るか無いかを聞いていくのは、時間もかかるし、大変な作業だと思わない?」
「む。……そうか」
「そこでよく考えてごらん、夜。……おヘソのない生き物はどうやって子どもを産むのか」
「らんせいーーー卵‼︎‼︎」
「そう卵‼︎ーーーだから夜。卵を産んだ人を探して、何がおへそを取りに来たのか聞けば良いのよ‼︎‼︎」
「ほう……ーーなるほど。美和ちゃんは頭が良いな‼︎」
「ーーー……とても頭が良い人同士の会話じゃないけどね」
「おい、誰のせいでこんな事になったと思ってるんだ」
「いや、だったら正解を教えてくれよ、今、すぐ!」
「知るか‼︎私もまだおヘソが付いてんだよ‼︎‼︎」
「そういう意味じゃないよ」
「ーーーおへそのある人と、ない人の間に生まれた子どもはどうなんでしょうね。父方と母方の有無でも変わりますよね……ーー興味深い」
「言ってる事は頭良さげだけど、内容がおかしいよね」
「そうですか?お母さんはどう思います?」
用心して話しているつもりでも、つい口走り、よつばはしまったと顔をしかめる。リュカや夜を呼ぶ時は気を付けていたつもりなのに。
当の呼ばれた本人は、さっきから考え込んだ表情のまま変化はない。
腕を組み、持った資料をぷらぷらさせている。
「やっぱり卵を産む人を見つけないと……な」
至った結論にうんうんとひとり頷いている。
「ああああ。すみません、気を付けてるつもりなのに、お母さんとか……」
「…何言ってんのよつば。ルカと夜が両親なのは事実なんだから、別に呼びたいように呼べば良いじゃない」
まぁ、その事実は大変腹立たしいけどねと付け加えて、榊は椅子にふんぞり返る。
まだ認めてないからなとリュカを睨んだ。
「本人は気付いてないみたいだから、良いんじゃないの?」
榊の視線を受け流して、そう、その事実は変わらないとリュカは余裕でコーヒーを飲んでいる。
「……?よつばがわたしのこどもだってこと?ーーーーーー知ってるよ?」
おおう。
夜→よるのイントネーションはそのまま朝、昼、夜の夜と同じです。
何のために今さらって、念の為。
夏場の夕立+雷が一番キレイで格好良いと思うんですよね。次点が雪が積もった後の晴れた日。
なんで雷様がおヘソを取りに来るか分からないのは、私です。




