その頃、上の方では。
エレベーターに乗らなかったふたりの方。
別れた時点からの話。
エレベーターの動きを確認したかのように、何かの唸り声は地を這ってリュカと史隆の足元を震わせた。
何か大きなものがぶつかる音がする。
「……ーーいや、コレ。無理じゃね?」
「……だったら隅っこ行って、震えてろよ」
声は鼻で笑うように軽い調子でも、史隆から見える後ろ姿の肩は持ち上がり、息をする度に静かに上下している。
腰の位置が低くなって、両足に均等に力が入っていくのが見ただけで分かる。
これはリュカが戦闘モードに入った体勢。
史隆は天井を仰ぐ。
ここで腰の抜けたセリフを言えば、今暴れまわっている何かより前に、自分が殴られる。
リュカが見えなくなってしまう前に、ひとつだけ言っておかないといけない事があった。
「ーーじゃあ、俺なんか武器を探して来ま……す」
ふとリュカから力が抜けたように体が沈んで、その次の瞬間にはもう通路のずっと先の曲がり角で史隆を見ている。
「早く来ないと良いトコ全部もってくからな」
女性に振りまけば良い魅惑的な顔をして、そのまま角を曲がって行ってしまった。
返事はしたが、多分もう聞こえるような距離にはいないだろう。
「あのヒトなんであんなケンカ好きなの……」
シャツの裾で顔の汗をゴシゴシ拭うと、両手で自分の頬を一度叩く。
気合が入ったかといえばそうでもないけど、気持ちは切り替わった気がする。
あくまで、気がするだけだけど。
とりあえず何か武器になるようなものを探さなくてはいけない。
リュカの手助けになり、邪魔をしないものを。
それはなんでもよかった。
適度な大きさと、重さがあれば。
「消しゴムな〜。ちょうど良いけど、あれはナゼか威力がイマイチ……」
少し開いた部屋の中をそっと覗いて、見えた事務机に向かって歩き出す。
真っ直ぐではなく、うつ伏せに横たわった血染めの白衣の人を避けながら。
机の上に飾られた写真がそこの白衣の人か、確かめる勇気はない。
子どもと奥さんらしき人と3人で写った写真を机に伏せようとした時、色んなものが一度に壊れる音が響いた。
「わあぁぁぁ……始まった……」
写真立てを伏せることはせずそのまま元の位置に戻した。その横のペン立てに入った文房具をポケットにしまい、引き出しを開けて使えそうなものをいくつか手に握った。
部屋を出て、派手に音がする方に行こうとした史隆の前方を人影が横切る。
リュカではない。
ここの人達をあんな目に合わせた何かでもないだろう。
遠くの方で今まさに真っ最中の音が続いている。
あのヒト、今日は白い服じゃないし。
なんかちょっと小さいし。髪だって黒くないし、あんな長くないし。
あんなに可愛くないし、ていうか、女の子だし。
「女の子だし!!」
史隆は走って通路を曲がる。
すると人影もちょうど向こう側の角を曲がろうとしていた。
「ちょっ、ちょっと待って!!」
人影は立ち止まる。それでもまだ行こうとしている方向を見ていた。
声をかけた史隆を見ようともせず、ここから出なさいと言った。
「なぜじゃまをする。いますぐみんな、この研究所から、出て行きなさい」
そう声は聞こえるが、長い髪に隠れて口元が動いているように見えない。通路に音が反響しているからなのか、実際より近くから話しかけられているように聞こえる。
女の子はそのまま見ていた方向に歩き出した。
史隆が追いかけて、その子がいた場所に立った時には、人影はどこにも見当たらなかった。
通路が二手に分かれ、女の子を探して左に曲がると、来た時に通ったドアがある。
この先はガラス張りの研究室がある場所だった。
開いたままの扉をくぐった途端、ガラスが割れる音と一緒に、目の前に大きな塊が飛び出てきた。
それは反対側の壁にぶつかって、その壁に嵌っていたガラスも粉々に砕いた。
砕けたガラスを被っているのに、払おうともしない。
血液や汗や、薬品のような嫌な臭いが史隆の元まで届いてくる。
上半身は何も身につけておらず、筋肉は異様に発達して盛り上がり、そのせいで手や足が小さく見えて、アンバランスな姿をしている。
黒ずんだ肌に浮き出た血管はさらに黒い色をしていた。
体の表面を伝っている液体は、汗、血、犠牲になった人達から浴びたもの全て混ざって、流れ落ちては灰色の丸いあとをいくつも床に作った。
「それ」は出てきた方向を見据え、口からは絶えず低い音が漏れている。唸り声ではなく、呼吸の音が声のように喉を鳴らしていた。
立ち上がろうとしても重たいものを背負っているように上手く立ち上がれず、残ったガラスごと壁を掴み、支えにしてゆっくりと立ち上がる。
前かがみの姿勢で膝も曲がっているが、真っ直ぐに立てば2mは軽く超えている。
不自然に盛り上がった筋肉や内側から発される強い感情で、大きさはそれ以上に見えた。
顎を引いて何かを睨みつけ、ぎりぎりと音がするほど食いしばった歯が口の端から見えている。
怒りの感情で動いている生き物にしか見えない。
史隆は少し離れた場所で、さっき手にしたペンを一本だけ右手に持ち替えて、いつでも動けるように両足に均等に体重を乗せる。
もちろん、こっちに向かってこられても、どちらにでも逃げられるように。
割と近い距離にいても、相手はこちらに気付いていない。
落ち着いて、丁寧に、相手に確実に当てることをイメージする。
慌てて力一杯では大してダメージを与えられない。
軽く、で良い。
自分の能力を乗せて、出来るだけ数を放つイメージ。
持ったペンを何度か握り直し、ゆっくり深呼吸。
今まで抑えていたものを解き放つ。
熱くなって持てなくなる前に、そのペンを相手に放り投げた。
確実に当たるように、どす黒い、大きな体を狙って。
プラスチック製のペンは、目標通り肩口に当たると、長細い形が体に触れた一瞬で液体になって貼りついた。
青い炎と少しの煙を出して音もせず消えた。
「らら。ペンもイマイチ」
立て続けにぽいぽいと他の細かなものを放り投げる。
ステープラーとライターは小規模ながら爆発を起こして、払おうとした相手の手の先を千切り落とした。
怒りの矛先は史隆に向かい、相手はゆっくりと近付いて来る。
指の無くなった手を伸ばし捕まえようと、向かって来ている。
数歩下がってポケットに手を入れる。次に投げるものを取り出そうと何かを握りかけた時、横からスチール製の事務机が、壁のガラスと一緒に目の前を横切った。
耳がどうにかなる程の大きな音がして、事務机が黒い体を押し潰す。
体の上にかぶさった机から引き出しが滑り出て、中の細かなものが床に散らばった。
「……ーーっぶねーな!!当たったらどうすんだよ!!!」
机が飛び出てきた部屋にはリュカが立っていた。当たらなくて良かったじゃないかと、嬉しそうに笑う。
相手を通路に蹴り出したのも、机を投げてぶつけたのも、わざわざ史隆の目の前を狙っていた。
いたずらが大成功して満足だといった様子だが、された本人はいたずらなんてかわいいものでは済まない。
思いつく限りの悪口を言いながら、史隆は床に散らばったものを拾い集める。
事務机が裏返しにひっくり返る。
机の足を杖代わりにして相手が立ち上がろうとする時には、史隆は、もうガラスの抜けてしまった腰までの高さの壁を乗り越えて、リュカの隣に来ていた。
「お前、遅いよ」
そう言ったリュカをよく見れば、服がかなり汚れている。
黒っぽい上下なので分かりにくいが、濡れていた。濃い血の匂いがする。
ケガをしたのかと聞けば、違うと短く答えて、気分が悪そうに服を引っ張った。
「あいつ、結構……早いんだよね」
スピードを競って早いと言わせる相手、しかも力も渡り合えるほど強いとなれば、相性は良くない。
何度か床に倒され、その時に床の血が服に付いた。
相手は声を上げる。
体にある力という力のこもった声で、薄い仕切りの壁を震わせる。
振動はかろうじて枠に挟まって残っていたガラスを床に落とす。
杖代わりの机の足を飴細工のように簡単にねじ曲げた。
史隆は驚いて数歩下がるが、リュカは無反応でまだ濡れた服を気にしている。
「……史隆今まで何してたんだよ」
「いや、それどころじゃなくね?あ!ていうか、女の子見なかった?!」
「はぁ?何言ってんの、見るかよ」
手にある小物を相手に投げつける。
顔に当たっては頬の肉を削ぎ落とし、腹に当たっては音もせず小さく抉る穴を空ける。
ポケットにある文房具や、近くの作業台にあったものを手当たり次第投げる。
足止めにはなるようだが、それだけでは完全に相手の動きは止まらなかった。
どんなに傷を負わせても、タールのような血を少し流してすぐに止まってしまう。それ以上吹き出すこともない。
血が貼り付いて見えないが、傷はすぐに塞がっていた。
決定打が与えられないことににひとつ軽く溜息を吐く。
腰に手をやると何かが邪魔をして、リュカは上着のポケットから、その邪魔なものを取り出した。
「史隆、ちょっと下がって……」
リュカは野球のピッチャーのセットポジションをとる。塊を握りつぶさないように、軽く握って、その力は前に押し出す力に変えるんだと自分に命じた。
振りかぶって投げた第一球は、風を切る音と同時に相手の鳩尾辺り、中心より少し左を貫いた。
マンガや映画のように向こう側が見えるような穴は開かなかったが、突き抜けた塊は、奥の壁にマンガみたいに穴を開けて、どこかで止まったのか、大きな音を立てる。
相手は声も上げずゆっくりと両膝をついて、前のめりに倒れた。
「……ぅお。……なに?なに、今投げたの」
「ん?………ドアノブ」
感嘆の声を上げて、リュカを褒め称えた。
その声で相手がもぞもぞと動き出したのを見て、態勢を整える為、一度相手から離れようと提案した。
もう史隆の周りには武器になるようなものがなかった。
もうしばらくこのふたりにお付き合いいただきます。
…3人か。
いや、もうひとりいたな。




