研究所内部
※流血表現と残酷描写があります。
苦手な方はご注意下さい。
心の準備はよろしいでしょうか。
では、参ります。
研究所の通路は静かだった。
電灯の高い小さな音と、潜入してきたもの達の立てる音しか聞こえない。
入り口から行く先は左右に分かれていた。
入ってすぐ目の前のふたつの扉には小さな磨りガラスがはめ込まれて、その上には男性用と女性用更衣室と、それぞれプレートが付いている。
もうひとつのドアのない入り口は給湯室なのか、簡素なシンクが少しだけ見えている。
右手奥の近い方の扉は正面のロビーに通じ、左側の通路の先が研究室に続く扉らしいがどちらにも案内は出ていない。
白い壁と黒味がかった緑の床が病院を連想させる。
決定的に違うのは、開放感のない事だった。この通路には窓がひとつもない。
通路どころか、この施設には窓がひとつもない。洋菓子店の箱のように白くて横長の建物、左下の隅のエントランスホールだけがガラス張りで、その部分にだけ開放感がある。
2メートル程の幅の通路を、何の合図もなく皆、左の方へ歩き出した。
途中には倉庫、来客者用お手洗い、会議室と表示されたいくつかの扉があった。都と史隆はお手洗いの文字を見つけて、ふたりで先を争って駆け込んでいった。
実際にはそんなに長い時間ではなかったのだが、静かで、時間を示すもののない通路に残った誰もがとても長い時間待たされた気になった。
戻ったふたりと合流して、再び一番奥の扉に向けて歩き出す。
突き当たりの扉にもやはり鍵が掛かっていて、横にはロックを解除する小さな白い箱があった。
さっきのカードは使えないだろう。
その前にもうすでに入り口の前に捨ててきてしまった。
さっきの要領で史隆が進み出た。
今度は壊しすぎないように、力加減をして。
煙を吐き出させる前に鍵の外れる音がする。全員から驚きと感心の声が上がる。
一番驚いたのは史隆本人で、すごいでしょアピールを忘れてしまうほどだった。
先頭にいるのは榊、数メートル先に見えるエレベーターに向けて歩き出す。
部屋に続くドアを幾つか通り越し、右に折れ曲がった通路には目もくれない。
エレベーターのボタンは下に向かった印しかない。
ボタンを押す前に、ちょうど顔の高さにあるアクリル製の小さな板に顔を近付けて、自分の名前を告げる。
ピピピと電子音がすると、ああ良かったとボタンを押した。
作動音が聞こえて、エレベーターが呼ばれて地上まで上がってくる。
「あぶねー。コレ動かなかったらどうしようかと思ってたのよね」
榊以外の全員が同じことを考えていた。
けれど、誰もその事を口に出さない。どう言えばいいか分からなかった。
誰が尋ねるのか、迷っているうちにどんどんタイミングを逃して、口に出せない。
誰かが遠慮なく質問してくるのを待っていた榊は、いつもなら上手に作れるはずの笑顔も中途半端なまま、無言の質問に答えた。
「いや、だから。昔ここに勤めていたというね、そういう事です」
今度は親指をアクリル板に当てて、エレベーターのドアを開けた。
「ーーーーまぁ、いいわ。とりあえずこっから下が研究所になるから、詳しい話は下に行ってからにしましょうか」
やはり皆、どう言っていいか分からないまま、無言でエレベーターに乗り押された階下に行くボタンを見つめる。
すぐに低い音を立て下降を始め、目的の場所で止まり、扉は横に滑り開いた。
扉が開いた瞬間。
コッティ以外の全員が顔をしかめ、そのうち何人かは口元を手で覆う。
すぐに琴野は鋭く息を吸い込んだ。もう下がれるスペースはないはずなのに、全員が一歩以上後ろに退いた。
エレベーターの外側の通路は赤黒い色のもので覆われ、その下の床はほとんど見えない。赤黒い色はそこら辺の上にも下にも張り付いて、天井の照明をぼんやりはね返す。
こちら側の調整された空気と、生温かく湿度の高い空気が入れ替わる。
それと同時に、纏わり付くように、重くて、危機感を煽る臭いがする。
自分の生命を守る為に、全力で、体も、心も、その臭いを拒否する。
鉄くさい、終わった命が朽ち果てていく臭い。
「やばい。吐きそう」
口を塞いだ指の間から、都が堪らず声を漏らす。小さく咳を繰り返した。
「待て!どうせならこの外で吐いてくれよ、この中がゲロ臭くなんのはヤだからさ」
史隆は仔猫を持つように都の服の背中を掴んで持ち上げる。エレベーターから降りると、赤いものを踏まないように床が見えている部分を歩いた。
やめろ、揺するな。と都の弱々しい悲鳴の後に、よつばがついて行き、榊も出ていく。
リュカが後ろにいたふたりを振り返る。
「カズと琴野さん達は上で待ってればいいよ、何か……こんなだし」
琴野の声にならない返事に、コッティが反論する。
「それはよくない、リュカの言う通りにするべきだ」
琴野は首を横に振り、先ほどと同じ言葉を繰り返す。
「……上で、心配しながら待っているより、みんなと一緒に居たいーーーーそう言っている」
コッティの顔はもちろん変わらないが、顔に出た影が一層濃くなったようだった。
「ーーーーじゃぁ……オレも行くしかないよね」
和隆は空いた方の手で、琴野の手を優しく叩いて、地下の通路に全員が降り立つ。
エレベーターの前、建物の奥に続く通路は、上の階とはまったく様子が違っていた。
通路は倍ほどの広さがあるし、個室が数多くあって、壁は腰から上のところから、どこもガラス張りになっている。
部屋の中どころか向こう側のまだ向こうまで見通せる。
ただ、とてもひとりやふたり分とは思えないほどの血液が、通路や壁に張り付いて流れ、ガラス張りの部屋の中を簡単に見ることはできない。
広い通路の真ん中に、蛇が這い通った様な血の道が出来ている。
蛇行したその道は、通路の角を曲がっていた。
榊を先頭に、その角を曲がる。血の道は、角を曲がったすぐの所で無くなった。
その横のガラスが破れている。
何をするのかよく分からない機械や、どう使うのか知らない器具がたくさん並ぶ部屋。
作業台と作業台の間、床の上に道を作った本人がいた。
引きずられて投げ込まれた元は生きていた人間は、腕も脚も頭もありえない方向に向いている。
捨てられた人形のような、元は生きていた人間は、よく見れば部屋のあちこちに、物陰から体の一部が見えている。
誰も数えはしないが、これだけの血液の量なら、今見えている人数では全然足りていない。
都はよつばの手を両手で握って、中を見ないように顔を背けたり、時々目をぎゅっと閉じる。
今ほど自分の能力が仇になることはない。
榊は構わず奥に進んでいく。
未だに何の説明もないが、皆、付いて行くしかない。
史隆は周りを観察しながら、和隆と琴野は足元を気にしながら、最後を行くリュカはひとり遅れて歩いていた。
通路はまた扉で終わっている。
今度は鍵は掛かっておらず扉が少し開いていた。
その扉を引いて、さらに奥へと進む。
通路は狭くなり、いくつか部屋があるが、壁はもうガラス張りではない。
通り過ぎる部屋の、開いたドアの隙間からも人の一部が見えているが、部屋の様子を覗こうともしない。
右へ左へと複雑に通路を進み、たどり着いたのは、さっきよりも小さなエレベーターの前。
そこでようやく口を開いた。
「ここから下は、ほとんど人がいない場所になるから、さっきみたいな感じじゃないと思う。ーーーー……ただこの下にある所長室に行って、データを持ち帰らないと。……ごめんね、みんな。こんな状態だと思ってなかったから。……でもどうしても行かないと」
よつばには榊の言うことは良く解った。
自分のラボがこんな状態になったとしても、きっと同じ事をするだろう。
データの中身が重要であるとか、そういうことではない。
人によっては何の価値もない、研究者にとっても価値があるかわからないものだってある。
人の命を犠牲にしてまで得ないといけないものでもないかもしれない。
でも自分は命を懸けても持ち帰らなくてはと思うだろう。
「行きましょう、ここまで来て、手ぶらでなんて帰れません。ここに居た人達のためにも、データを持ち帰りましょう」
「まぁぁぁあああ、この借りは高く付くよ、先生?」
あの惨状が目に入らなくなった都は、少し調子を取り戻し、いつものように片方の眉を持ち上げて言った。
榊もいつものように上手に笑顔を作ると、いつか体で返しますと言いながら、ボタンの上にあるパネルを覗き込み、自分の名前を告げる。
ピピピと電子音が鳴り、今度は合成された女性の声が、おはようございます、どくたーさかき、しばらくおまちください、と話しかけてきた。
モーターの高い音と、ワイヤーを巻き上げる低い音が同時に聞こえて、更に階下に行く箱が静かなこの通路に上がってこようとしている。
史隆は額に浮き出た汗をシャツの裾で拭いて取る。
「あーーーーー。ガチでバイオハザードだよ。超怖ぇえっつうの」
思い出したような声が、コッティから聞こえる。
「……そういえば、バイオハザードとは、どういう意味だろうか」
「えぇ?映画とかあんじゃん。表面上は製薬会社なのに、生物兵器とか作っててですね〜。悪いウィルスが、こう……事故なのか、故意なのか、漏れてーーーーで、人が死……は!え?!……なんか、大丈夫なの?コレ。ーーーー俺達、物凄いカジュアルな格好なんですけど?!!!」
「確かに〜。すごいカジュアル〜」
双子の片方が呑気に相槌を打つ。
「ウィルス……風邪をひくのか、皆。それはいかんな」
コッティの的外れな独り言と、対照的な双子に、榊は答える。
「いやいや、さっきのはどう見てもウィルスどうこうっていうのじゃないでしょ。ていうかバイオハザードってそういう意味じゃないから。ていうか細菌兵器なんて作ってないし。……今は空調止まってるみたいだけど、外よりもむしろ空気がきれいですから。風邪にもかかりようがないくらいですから」
「それよりさ、この下に行ける人間は、限られた人間なんだろ?」
我関せずといった顔をしていた都が、急に話に割って入ってきた。
「そうだけど、なあに?」
「いや、さっきの……部屋のアレを、何かがああしたとして、そいつは下に行けるのかな」
「は?何言ってんの、アレとかソレとか…」
都は先ほどの光景を思い出したくなくて、表現を控えたが、史隆には通用しなかった。
「だから!あんな事をした何かは、この研究所の外には出てないだろ、俺たちがドアを壊して入ってきたんだから。……で!!この下に行くには声紋と網膜認証が無いと行けないんだろ?……てことは、このフロアにその危険な何かがいるんじゃないかって事だよ!!!」
急に静かになった通路の空気が張りつめる。
映画ならここで、怪物か何かが背後から登場しそうだが、そんな事はなかった。
榊は腕を組み、肩でエレベーターの扉に寄りかかる。
「そうね……下に行くには更に指紋が必要よ。これが開いてないのは、私がまだ開けてないから。……都の言う通り、その何かは、たぶんこの下には行けない」
「……と、言うことは。ーーーーこのままここにいたら、危ないって事ですよね」
そう史隆が言い終えた時。
地響きのような衝撃で、静かだった通路がいっぱいになる。
それは音の響きだった。何かの呪詛が込められた歌にも聞こえるし、獣の叫びにも聞こえる。
音は下腹に響いて、そのまま体を震わせる。
「ああぁぁぁああ。なんかいるよ?」
史隆は近くにいた都の背後に回る。
都はだから言ったろ、という顔で答える。
「ああ、居るな、何か」
「先生、開けてよ!早く下に行こう!!」
史隆が言い終える前に、榊はパネルに自分の指を押し当ててエレベーターの扉を開けた。
皆ひとかたまりになって乗り込むが、ひとり残って通路の先を見ている。
「どうしたんだよ、ルカ!早く乗れって!!」
リュカは振り返り、史隆に答えた。
「みんな、帰る時のこと、何も考えてないだろ……帰りもここを通るんだぞ」
「……だから?」
「あれをこのまま放っておいて、運良く外に出られると思うか?」
「……だから?」
「史隆、降りろよ」
「……マジ?」
もう何も言わず、史隆に手でこっちに来いと合図をする。
遠くで派手にガラスが割れる音がする。
その音に弾かれるように、エレベーターを飛び出る。
皆を振り返った史隆の顔は、歪んで今にも泣き出しそうだ。
「先生、上手くいったら、下に迎えに行くから、それまで上がってこないでよ」
リュカは背を向けたままそう言った。
皆の顔を見ようともしない。
思い出したのかと聞かれ、そうだよと答える。
榊はそれ以上何も言わず、押していたボタンから手を離す。
扉が閉まり切る前に、また何かの唸り声が響いたが、扉が閉まると、別の世界の事に思えるほど、小さくなって、すぐに聞こえなくなった。




