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星の導き

 エレナが国を出てから、数週間が過ぎた。

 アルディア王国では、まだ誰もそれを異変とは呼んでいなかった。


 最初に感じたのは、ほんの小さな違和感だった。

 エレナの父、アシュベリー公爵――エドワードは、その日も朝から執務室に籠もっていた。


 大きな窓から差し込む陽光が、磨かれた机の上に積まれた書類を白く照らしている。

 領内を流れる河川の改修計画。

 街道整備に必要な予算。

 来季の穀物備蓄量。

 戦後、新たに開拓された地域への人員配置。


 どれも、これまで何度となく目を通してきた類いの案件だった。

 エドワードは一枚の書類を手に取り、目を走らせる。

 そして、眉を寄せた。

 もう一度、最初から読む。

 数字は読める。

 内容も理解できる。

 問題点だって分かっている。

 だが。


「……妙だな」

 小さく呟いた。


 以前なら、書類に目を通した瞬間にはいくつかの解決策が頭に浮かんでいた。

 どの村から人員を回し、どこへ予算を割き、どの工事を来年へ回せば全体が滞りなく動くのか。

 まるで最初から答えが書類の裏側に書いてあるかのように、自然と見えていた。


 ところが今日は。

 案は浮かぶ。

 しかし、どれもしっくりこない。

 一つを選べば、別の場所に無理が出る。

 そこを直せば、今度は予算が足りない。

 当然といえば当然の話だった。

 本来、領地経営とはそういうものだ。

 それでもエドワードには、その当たり前がひどくもどかしく感じられた。


「公爵閣下?」

 控えていた文官が声をかける。


「いや……すまない。少し考える時間をくれ」

 エドワードは書類を机へ戻した。


 指先で眉間を揉む。

 娘を遠い国へ送り出したばかりなのだ。

 自分でも気づかないうちに、疲れが溜まっているのだろう。

 そう結論づけた。




 ◇

 エレナの母、セシリアもまた、似たような違和感を覚えていた。


 その日の午後。

 公爵家の応接間には、王都でも名の知れた貴婦人たちが集まっていた。

 紅茶の香り。

 磨かれた銀器。

 慎重に選ばれた菓子。

 表面上は、いつもと変わらぬ穏やかな茶会だった。


「そういえば、北部の織物商が随分と景気がよろしいそうですね」

 一人の伯爵夫人が何気ない調子で口にした。


 セシリアは微笑む。

「まあ。それは何よりですわね」

 そのまま話題は別のことへ移っていった。


 けれど、茶会が終わった後。

 長年仕えている侍女長が、少し言いづらそうに口を開いた。

「奥様。先ほどのお話なのですが……」

「何かしら?」

「あの伯爵夫人は、北部の織物商との新しい取引について、こちらの意向を探っておられたのではないでしょうか」


 セシリアの手が止まった。

「……ああ」

 言われてみれば、そうだ。

 あの夫人は昔から、何かを直接尋ねることを好まない。

 遠回しに話題を振り、相手の反応から情報を拾う。

 そんなことは分かっていたはずなのに。

「どうして気づかなかったのかしら」

 独り言のように呟く。


 侍女長はすぐに、

「お疲れなのですよ」

 と慰めた。

「エレナ様がお嫁ぎになられたばかりですもの」

「……そうね」

 セシリアも、それ以上深く考えなかった。


 ただ。

 以前なら、言葉の裏に隠された意図など、相手が話し終える前に分かったのに。

 そのことだけが、心のどこかに小さく引っかかった。



 ◇

 同じ頃。

 ヴァルグレン王国では、まるで長く錆びついていた歯車に油が差されたように、物事が少しずつ動き始めていた。


 最初は、誰も気づかない程度の変化だった。

 エレナとレオンが視察で訪れた農村。

 戦争で壊された水路は、十二年が経っても完全には復旧していなかった。

 農民たちは毎年、少ない水をどう分けるかで頭を悩ませていた。


 ところがある朝。

 一人の老農夫が、鍬を担いだまま川岸で足を止めた。

「……待てよ」

 山から流れてくる支流を見つめる。

 これまで誰も利用しようとしなかった、小さな流れ。

 地形。

 傾斜。

 村までの距離。

 頭の中で、突然それらが一本につながった。

「ここから引けばいいんじゃないか?」

 仲間たちは笑った。

「何年も考えて駄目だっただろう」

「いや。違う。この高さなら、こっちの丘を回せば水が落ちる」

 地面へ枝で線を描く。

 説明を聞いているうちに、周囲の表情が変わっていった。

「……できるぞ」

「これなら、大きな魔導ポンプもいらない」

「おい、役所の人間を呼べ!」

 その数日後には工事が始まった。


 別の町では。

 戦争中に壊れた製粉設備を、何年も修理できずにいた職人が、突然別の歯車の組み方を思いついた。

「なぜ今まで気づかなかったんだ」

 自分でも不思議そうに呟きながら、長年動かなかった機械を再び動かした。


 行政官たちは、複雑に絡まっていた復興物資の配分を整理した。

 商人は、放置されていた旧街道を利用する新しい交易路を考えついた。

 一つ一つは、小さな成功だった。


 けれど。

 それが各地で、ほぼ同時に起き始めた。

 そして不思議なことに。

 その変化は、エレナが訪れた土地ほど顕著だった。


 ◇


 レオン自身も、それを感じ始めていた。

 執務室の机の上には、復興事業に関する報告書がいくつも広げられていた。

 以前なら、この量を読むだけで半日はかかった。


 ところが今日は。

 紙を一枚めくるたび、問題の構造が驚くほど鮮明に見える。


 道路整備。

 食糧輸送。

 税の減免。

 帰還民の再定住。


 どれを先へ進め。

 どれを後へ回し。

 何を同時に動かせば、全体が最も滞りなく進むのか。


 まるで絡まっていた糸が勝手にほどけて行くように、頭の中で、するすると整理されていく。


「……ここを先に開通させれば、南部から穀物を入れられるな」

 レオンは地図上へ一本の線を引いた。

 そこから東へ街道をつなぎ、途中の倉庫を中継地点に指定する。

 これなら冬までに北西部へ十分な設備を回せる。


 そこまで考えて、ペン先が止まった。


 以前なら。

 この答えに辿り着くまで、少なくとも二日は側近や行政官たちと議論したはずだ。

 なのに。

 今日は、ほとんど迷わなかった。


「殿下?」

 側近が首を傾げる。


 レオンはゆっくりと椅子の背に身体を預けた。


「最近、私は随分と賢くなったらしい」

「それは結構なことでございます」


「冗談だ」

 言いながらも、表情は笑っていなかった。

 自分だけなら、偶然で片付けられる。

 体調がいい。

 仕事に慣れた。

 経験を積んだ。

 あるいは、努力がようやく実を結び始めた。

 いくらでも理由は考えられる。


 だが。


 レオンは机の端に積まれた報告書へ目を向ける。


 一番上は、先日エレナと視察した農村。

 長年手つかずだった水路の改修案が、突然まとまった。


 その下は、エレナが職人たちへ声をかけた町。

 十二年間動かなかった製粉設備が修復された。


 さらにその下。

 エレナが役人たちを励ましていた地区では、滞っていた復興物資の再配分が、わずか数日で整理されている。


 どれも。

 ここ数週間で、目に見えて復興速度を上げていた。


「……」

 レオンは別の束へ手を伸ばした。

 北部地域の報告書だった。

 まだエレナを連れて視察していない土地。


 人口の回復率。

 農地の再開墾。

 道路補修。

 物資輸送。

 数字を追う。


 悪化しているわけではない。

 以前と同じ速度で、少しずつ復興している。


 つまり。

 変化がない。


 レオンはもう一枚めくった。

 さらに北。

 そこも同じ。


「……なるほど」

 小さく呟く。

 側近が反応した。


「何か?」


 レオンは二つの報告書を机の上へ並べた。

「こちらは、エレナと視察した地域だ」

 指先で一方を叩く。


「そしてこちらは、まだ彼女が訪れていない」

「はい」


「復興政策そのものが改善したのなら、全国で同じような変化が出るはずだ」

 側近の表情が、わずかに変わった。


 レオンは続ける。

「だが、そうではない」


 エレナが訪れた場所。

 エレナが話をした人間。

 エレナが励ました者たち。


 そこだけが。

 妙なほど上手くいっている。


 そして。

 自分も。

 夜の庭園で。

『死んでいった者たちが見ても恥ずかしくない国を、もう一度つくる方が有意義だと思っています』

 そう言った自分に。

 エレナは。

『とても、ご立派な考えだと思います』

 そう言ってくれた。


 あの頃からだ。

 頭の冴え方が、明らかに変わったのは。


「……何かが、おかしいな」

 レオンは低く呟いた。

「何がでございましょう」


「調子が良すぎるのだ」

 一枚の報告書を指先で叩く。

「私も。この者たちも」


 側近は黙った。

 レオンも、しばらく何も言わなかった。

 偶然。

 そう片付けるには。

 一致するものが多すぎる。

「エレナが来てから」


 側近の表情が変わった。

「まさか」

「ただ、エレナの何がそうさせているのかは、分からない」

 レオンは即座に答えた。

「だから調べる」


 そして、真っ直ぐ側近を見る。

「彼女の《星導》について、もう一度調べてくれ」

「《星導》……道案内の?」

「ああ」


 レオンは窓の外へ視線を向けた。

 夕陽の下。

 復興途中の王都が広がっている。

「道案内だけのスキルと伝えられたが……」

 ほんの少し目を細めた。

「本当に、それだけなのか?」




 ◇

 その頃。

 アルディア王国の神殿では、リリアが青ざめていた。


 白い治療室。

 高い窓から差し込む午後の光。

 鼻につく薬草の匂い。


 目の前の寝台には、一人の兵士が横たわっている。

 戦争で左腕を失った男だった。


「もう一度、お願いします」

 リリアは神官へ言った。

「リリア様」

「お願い。もう一度だけ」

 神官は困ったような顔をした。


 すでに三度。

 リリアは同じ兵士へ《聖癒》を使っている。


 傷口は綺麗になった。

 神経痛も消えた。

 古い傷跡さえ薄くなった。


 だが。

 肘から先は。

 何度やっても戻らない。


 リリアは両手をかざした。

 淡い光が広がる。

 いつもなら。

 ここから。

 骨が伸びる。

 肉が生まれる。

 皮膚が覆っていく。


 その奇跡を。

 何度も見てきた。


 自分自身の手で起こしてきた。

 だから。

 待った。

 一秒。

 二秒。

 三秒。


 何も起こらない。

「……どうして」

 リリアの唇が震える。

 兵士が気遣うように笑った。

「いいんですよ、リリア様。痛みはなくなりましたから」

「よくありません!」

 思わず声が大きくなった。

 兵士が驚く。


 リリアはすぐに、

「……ごめんなさい」

 と俯いた。

「でも、以前なら治せたの」

 手のひらを見る。


 力はある。

 傷も治せる。

 病気だって治せる。


 けれど。

 以前なら救えた重病者を救えない。

 失った腕や脚を再生できない。

 死の淵にいた患者を引き戻すことも。


 最初に異変を感じたのは、数週間前だった。


 初めは疲労のせいだと思った。


 学院の事故では、確かに力を使いすぎた。

 慣れない王太子妃教育も始まった。


 だから治療の日数を減らした。

 神官に勧められるまま、何日か完全に休みもした。


 けれど。

 どれだけ身体を休めても、あの力だけは戻ってこなかった。


「お疲れなのですよ」

 神官が優しく言った。

「学院の事故でも、随分と力を使われました」

「違うわ」

 リリアは首を振った。

 もう、その言葉では自分を納得させられなかった。


「こんなはずがないの」


 幼い頃から。

 自分は特別だった。

 誰にも治せない傷を治した。

 神官たちが驚く奇跡を起こした。

 兵士たちから女神と呼ばれた。


 だから自分は。

 ただの《聖癒》ではないのだと。

 そう思っていた。


「私のスキルを調べてください」


 声が震えた。

 神官が目を見開く。

「もう鑑定は――」

「もう一度です」

 リリアは、自分でも驚くほど強い声で言った。


「何かがおかしいのです」




 ◇

「なぜ、こんなことも決められない!」

 ルークの声が、会議室へ響いた。

 長い卓上には、外交、財政、軍備に関する書類が広げられている。

 宰相。

 軍務官。

 財務官。

 行政官。

 国を支える重臣たちが、黙り込んでいた。


「北部への支援金を増やせば、南部の街道整備が遅れます」

「では軍費を削れ」

「隣国との関係がまだ不安定な中、それは危険です」

「ならば、交易税を――」

「商人たちの反発が予想されます」


 言われるたびに。

 ルークの苛立ちは増していった。

 以前なら。

 こんな問題。

 誰かが一言説明すれば。

 その場で解決策が浮かんだ。


 それが。

 今日は見えない。


「……なぜだ」

 ルークは資料へ目を落とした。

 文字は読める。

 数字も理解できる。

 議論の内容も分かる。

 自分が突然愚かになったわけではない。

 それなのに。

 答えが。

 以前ほど鮮やかに出てこない。


「殿下」

 宰相がおそるおそる口を開いた。

「少し、お休みになられた方がよろしいのでは」

 ルークは顔を上げた。

「私だけではないだろう」

 ルークは集まっている重臣たちを一人ずつ見渡した。

 静まり返る会議室に、ルークの声だけが響いている。

「お前たちもだ」

 宰相の顔が強張った。

「以前なら、こんな案件で何時間も会議をすることなどなかった」

 誰も答えない。


「騎士団からも報告が来ている。訓練効率が落ちた。新兵の育成も遅れている」

 机を叩く。


「行政からも同じだ。復興計画は遅れる。商人たちは判断を誤る」

 声が低くなる。


「一体、何が起きている」

 その答えを持っている人間は、誰もいなかった。

 皆、能力を失ったわけではない。

 宰相は今でも優秀だ。

 行政官たちも有能だ。

 ルーク自身も、凡庸な王子になったわけではない。


 ただ。

 これまで当たり前だった、

 何をしてもうまくいく、一歩先が見える、努力すれば必ず結果へつながる。

 その感覚、それだけが、まるで最初から存在しなかったかのように。

 消えているのだ。


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