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8/12

夜の庭園

「エレナ、夜の庭園を散歩しませんか」


 レオン王子からそう誘われたのは。

 視察から数日後のことだった。


 夕食を終え自室へ戻ろうとしていた時。

「今から、でございますか?」

「そうです」

 王子は窓の外を見た。

「今夜は月が綺麗です」

 その言い方があまりに自然だったし、断る理由を見つける必要もなかった。


 夜の王城は。

 昼間とはまったく違う顔をしていた。

 昼には多くの役人や侍従が行き交う回廊も静まり返り。

 開け放たれた窓から。

 涼しい風が入り込んでいる。


 庭園へ出ると。

 淡い月明かりが石畳を白く染めていた。

 初夏の花の香りに混じって。

 湿った土と。

 古い石の匂いがする。

 美しい庭だった。


 それでも。

 ところどころに戦争の跡が残っている。

 片側だけ崩れた古い回廊。

 今も足場が組まれた噴水。

 庭園の端には。

 壁の一部を失った小さな塔。


 きっと。

 昼なら。

 傷跡ばかりが目につくのだろう。

 けれど月明かりの中では。

 崩れた石さえ。

 どこか静かに見えた。


 レオン王子は。

 私の歩調に合わせて。

 少しゆっくり歩いている。

 最初は。

 他愛のない話をした。

 ヴァルグレンの春はアルディアより少し寒いこと。

 城の庭師が花にこだわりすぎて毎年予算を超えること。

 王子が幼い頃。

 庭の池へ落ちて兄君に笑われたこと。


 意外だった。

 この方も。

 そんな子供時代を過ごしたのだ。

 少しだけ。

 距離が縮まったような気がした。


 やがて。

 噴水のそばまで来た時。

 王子が足を止めた。

「エレナ」

「はい」

「一つ、尋ねても?」

「はい」

 いつものように返事をする。


 王子は。

 少し困ったように笑った。

「あなたは、なぜそんなに頑張るのです?」

「……え?」

 意味が分からなかった。


「今日も朝から資料を読んでいたそうですね」

「はい」

「視察から戻れば報告書」

「はい」

「まだ正式に政務へ加わってもいないのに、復興計画まで勉強している」

「……はい」

 王子は。

 そこで少し声を柔らかくした。

「まるで」


「役に立たなければ、ここにいてはいけないと思っているように見える」


 胸の奥を突然。

 指で押されたような気がした。

 息が止まる。

「そんなことは……」

 否定しようとした。でも声が続かなかった。図星だった。


 私は無意識に手を握りしめた。

 王子は急かさない。

 黙って待っていた。

 だから、少しずつ、話した。


「私は……故国の王太子妃になる予定でした」

「ええ」


「十三歳から」

 王太子妃になるために。

 勉強したこと。

 我慢したこと。

 王妃様に何を言われても。

 学院で笑われても。

 ルーク殿下に何を言われても。

 いつか王太子妃になるのだから。

 そのために必要なことなのだと。


 そう思っていた。


 リリアが優秀でも。

 殿下が自分より遥かに立派でも。

 自分にできることを続ければいい。


 そう信じていた。


「でも」

 喉の奥が詰まった。


「必要ではなかったのです」

 言葉にした瞬間。

 胸が痛んだ。


「私でなくてもよかった」

 王子は何も言わない。

 私は俯いたまま続ける。

「妹は人を救えます」

「……」


「故国の王太子殿下もとても優秀な方です。お父様も、お母様も。皆、何かを成し遂げている」

 自分の手を見る。

 何も持っていない。

 そう思ってきた手。


「私だけが」

 声が掠れた。

「何もないような気がして」

 婚約を失った日。

 自分の努力を。

 当たり前だと言われた。

 必要ではないと。

 突きつけられた。


「ですから」

 私は手を握った。

「今度こそ、と思ったのです」

「今度こそ?」


「ここでなら」

 言葉にするのが怖かった。

 でも、言った。

「必要としていただけるかもしれない、と」


 夜風が。

 庭園を通り抜けた。

 花がかすかに揺れる。


 王子は。

 しばらく何も言わなかった。

 沈黙が怖くなり。

 余計なことを言ったかもしれないと思い始めた頃。

 静かな声が返ってきた。


「あなたは」

 顔を上げる。

「いえ、少なくとも私は」

 レオン王子はまっすぐ私を見る。

「あなたに何かを証明していただくために、この婚姻を受けたわけではない」


「でも」

「あなたについては、婚姻を受ける前に調べました」

 突然。

 少し実務的な口調になった。

 その変化に。

 思わず瞬きをする。

 王子は指を折る。

「血統」

「教養」

「語学。外交。礼法。王太子妃教育の成績。学院での素行」

「……」


「申し分ありませんでした」

 思わず呆気に取られる。

「それは……」


「それだけでも、我が国としては十分すぎる縁談です」

 そう言ってから王子は少し笑った。

「ですが」

「?」

「実際に会ってみれば、報告書に書いていなかったことまで分かった」

「何でしょう」


 王子の瞳が。

 月明かりを映す。

「あなたは、とても優しい人だ」

 言葉を失った。

「……優しい?」

 そんなものを自分の長所として考えたことがなかった。


「ええ」

 王子は続ける。

「視察先でも」

 老人。

 農民。

 職人。

 一人一人の顔が浮かぶ。

「あなたは、誰かが何をしてきたのかを見ようとする」

「……」


「何かできることはないかと考える」

「それは……」

「今日だけではありません」

 王子は。

 少しだけ苦笑した。

「あなたは、いつも誰かの気持ちを理解しようとしている」


 王太子の事情。

 王妃様の立場。

 リリアの気持ち。

 お父様。

 お母様。

 誰かを責めるより先に。

 相手の事情を考えた。

 いつも。

 そうしてきた。


「だから、いつも自分を後回しにしてしまうのでしょうね」

 王子は静かに言った。

 責めるでも、哀れむでもない声だった。


 ただ、ようやく何かを理解したように、ほんの少し目を細める。

「……やっと分かりました」

「何が、でしょうか」

「あなたに、何をお伝えすればいいのか」


 王子は私をまっすぐ見つめた。

「少なくとも、私の前では」

 一度、言葉を切る。

「自分の価値を証明しようなんて、しないでください」


 息を呑んだ。

「役に立たなければならないとか、何かを成し遂げなければここにいられないとか。そんなことを考える必要はありません」

「でも……」

「エレナ」

 名前を呼ばれて、言葉が止まった。

「あなたはもう、ここにいる」

 あまりにも当たり前のことを言うような声音だった。

「私にとって、それで十分なんです」


 胸の奥が。

 じわりと熱くなった。

 私はずっと、誰かを理解する側でいなければならないと思っていた。

 王太子殿下には王太子殿下の事情がある。

 王妃様にもお立場がある。

 リリアにも、両親にも、それぞれ考えがある。


 だから私は。

 自分の気持ちくらい、自分で飲み込めばいいと思っていた。

 そうしていれば。

 誰にも迷惑をかけない。

 誰かを困らせることもない。


 けれど、この方は。

 私が何をしてきたのかではなく。

 なぜ、そうしてきたのかを見ようとしてくれた。

 それがこんなにも嬉しいものだなんて知らなかった。

 気づけば、張りつめていた力が抜けていた。

 ほんの少しだけ、口元が緩んでいた。


「ようやく年相応の顔を見せていただけた」

「え?」


「大変可愛らしいですよ、導きの姫」

「……っ」

 顔が熱い。

 頬だけではない。

 耳まで、きっと真っ赤になっている。

「殿下!」

 思わず声が大きくなった。

 王子は堪えきれないように笑う。


「もう……!」

 本当に。

 ずるい人だ。



 ◇

 しばらく歩いた。

 さっきまで。

 心の奥を見られた恥ずかしさでいっぱいだった。

 でも。

 不思議と嫌ではなかった。

 むしろずっと胸にあった重いものが。

 少しだけ軽くなった気がする。

 庭園の端まで来たところで私は足を止めた。

 そこには修復途中の古い塔があった。


 大きく欠けた石壁。

 戦争の傷。


 それを見てずっと聞けずにいたことが。

 口から出た。

「殿下」

「はい」

「殿下は……」


 躊躇う。

「私の国を、恨んでいないのですか」

 王子の表情が静かに変わった。

 笑みが消える。

 でも、怒っているわけではない。

 遠くを見るような顔。


「恨んでいない」


「と、言えば嘘になります」

 胸が痛んだ。

 当然だ。


「思うところがないなどとは、とても言えません」

 私は俯いた。

 やはりそうなのだ。

 王子は私がアルディアの人間であることを、どこかでは。


「ただ」

 声が続く。

 顔を上げた。


 王子は。

 夜空を見ていた。

「当時の私は子供でした」

「……」


「兄は戦場に出ました。でも私は」

 小さく笑う。

「安全な王宮で、守られていた」

 その笑いには。

 自嘲の色があった。


「国民が死んでいる間に、温かい食事をして、暖かい寝台で眠っていた」

 何も言えない。

「そして」

 王子がこちらを見る。

「それはあなたも、同じだったでしょう」

「……はい」


 私は五歳だった。

 戦争を始めたわけではない。

 軍を動かしたわけでもない。

 誰かを殺せと命じたこともない。


「そんな私たちが」

 王子は少し肩をすくめた。

「父や兄たちの戦争を背負って、互いに恨み合う」

 そして、ほんの少し笑う。

「少し滑稽だと思いませんか」


 その笑みは寂しかった。

「恨む理由なら、探せばいくらでもあります」

 王子は壊れた塔を見る。

「あの塔も」

「……」


「兄のことも」

「……」


「今も復興できていない町のことも」


 夜風が王子の髪を揺らす。

「ですが」

 ゆっくり言葉を選ぶ。

「私は今」

「恨み続けるより」

「死んでいった者たちが見ても、恥ずかしくない国を」

 塔の向こう、夜の王都、いくつもの灯り。

「もう一度つくる方が、有意義だと思っています」


 しばらく。

 沈黙した。


 王子は少し困ったように笑う。

「……薄情でしょうか」


 私は首を振った。

 迷わなかった。

「いいえ」

「とても」

 言葉を探す。

「とても、ご立派な考えだと思います」

 王子が。目を細めた。

「それならよかった」

「?」

「聡明な導きの姫にそう言っていただけるなら」

 また。

 あの少しキザな笑み。

「少し、自信が持てます」

 また。

 顔が熱くなる。

 この人は。

 きっと。

 わざとだ。

 そう思いながら。

 私は。

 今度は少しだけ笑った。

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