婚姻の意味
首都へ到着した時には、陽が西へ傾き始めていた。
城門を抜け。
王城へ続く広い大通りへ入る。
王都そのものにも戦争の傷は残っていた。
新しく建て直された建物。
古い石壁に残る修復跡。
それでも街路には人が溢れ、馬車が通るたび、多くの視線がこちらへ向けられた。
旧敵国から嫁いできた姫。
どんな気持ちで見られているのだろう。
歓迎。
好奇心。
あるいは。
嫌悪。
考えれば考えるほど、背筋が固くなる。
馬車が王城前で止まった。
扉が開く。
外の光が差し込む。
深く息を吸った。
――大丈夫。
今度こそ。上手くやる。
そう自分に言い聞かせて。
馬車から降りた。
その先に。
一人の青年が立っていた。
濃い黒褐色の髪。
肖像画で見たよりも、少し柔らかな印象の顔。
王族らしく整った正装を身につけているが、その立ち姿には妙な堅苦しさがなかった。
レオン・ヴァルグレン王子。
私の。未来の夫。
王子は私を見て。
笑った。
「ようこそ、導きの姫」
差し出された手と同時に。
思いがけない呼び名が飛んできた。
「心待ちにしておりました」
一瞬。
身体が強張る。
導きの姫。
また。《星導》のことだ。
頭の中に、ベアトリス王妃の笑い声が蘇った。
『なんていうスキルでしたっけ? 道案内?』
学院の生徒たち。
『学院一の道案内役だ』
胸の奥が、きゅっと縮む。
けれど。
恐る恐る王子の顔を見る。
そこには。
嘲笑がなかった。
口元に浮かぶのは。
ただ、少し茶目っ気のある柔らかな笑み。
「……私のスキルについては」
「伺っていますよ」
王子は当然のように頷いた。
「《星導》。対象を目的地へ導く付与スキルだとか」
「はい」
いつものように。
まず、返事をする。
「でしたら、“導きの姫”というのも、なかなか洒落た呼び名でしょう?」
少し得意そうに言う。
どうやら。
本当に気に入っているらしい。
私は瞬きをした。
「……道案内のスキルでございますよ」
つい。自分からそう言っていた。
先に貶してしまえば。
相手に笑われても傷つかずに済む。
いつの間にか。そんな癖が身についていたのかもしれない。
だが。レオン王子は笑わなかった。
「道を示せるというのは、十分立派なことでしょう」
「……」
「知らない土地で迷えば、誰だって案内してくれる人を探します」
そして、少しだけ目元を和らげる。
「少なくとも私は、迷った時にあなたが隣にいてくださると心強い」
言葉が出てこなかった。
胸のどこかが。
小さく揺れた。
同じ《星導》の話なのに。
笑われていない、馬鹿にされていない。
価値がないとも、地味だとも、言われない。
ただ。
そういう力なのですね、と。
そのまま受け入れられた。
たったそれだけのことなのに。
どうしてこんなに。
戸惑うのだろう。
「……ありがとうございます」
ようやくそれだけを言うと。
王子は満足そうに微笑んだ。
◇
数日後。
私は国内へのお披露目を兼ね、レオン王子の地方視察へ同行することになった。
訪れたのは、国境から少し離れた地方都市。
かつては交易の中継地として栄えていたが、戦争中に激しい攻撃を受けた場所だという。
町へ近づくにつれて。
修復途中の城壁が見えてきた。
崩れた部分には、新しい石が積まれている。
だが、まだ足場が組まれたままの場所も多い。
橋の片側は新しく架け直されているが、もう片側には戦争中についた黒い焦げ跡が残っていた。
遠くには一面の畑。
けれど、ところどころ作物の代わりに雑草だけが揺れている。
それでも人々は働いていた。
石を運ぶ男たち、壁を塗り直す職人。
水路の泥をかき出す農民、荷車を押す女たち。
子供まで、小さな籠で石くずを運んでいる。
私たちの一行を見ると、作業の手を止め皆が頭を下げた。
旧敵国から来た私にも、同じように。
胸が詰まる。
一人の老職人が、崩れかけた家の前で壁を補修していた。
手にはいくつもの古い傷がある。
私は馬車を降り、その人のところまで歩いた。
「ここまで戻されたのですね」
老人は驚いたように顔を上げた。
「大変だったでしょう」
「ええ」
老人は。
目の前の町を見渡した。
「でも、まだまだです」
その声に疲れはあるけれど。
諦めはなかった。
私はどう言えばいいのか、少し迷った。
慰めるだけではきっと足りない。
だから自然に出てきた言葉を口にした。
「良い町を作ってまいりましょうね」
老人がこちらを見る。
「私も、ご一緒させてください」
一瞬。老人は何も言わなかった。
やがて皺の深い顔がゆっくりと笑った。
「姫様にそう言ってもらえると」
照れくさそうに。
「本当にできる気がしますな」
その言葉が嬉しかった。
だから。
別の農民にも声をかけた。
橋を直す職人にも。
物資を管理している役人にも。
一人一人。
「大変ですね」
「ここまで続けてこられたのですね」
「きっと良くなります」
「私にもできることがあれば、お手伝いさせてください」
本当に。その程度のことしか。
できなかった。
◇
視察を終え、王城へ戻ったのは日が沈んでからだった。
身体は思った以上に疲れていた。
それでも自室へ戻るとすぐ翌日の資料を机へ広げた。
今日見た町。
街道。
水路。
人口。
税収。
王太子妃教育で学んだ知識と照らし合わせれば。
何か役に立つ案を出せるかもしれない。
何か一つでも役に立たなくては。
紙へ視線を落としたところで。
扉がノックされた。
「エレナ?」
レオン王子の声がして慌てて立ち上がる。
「はい」
扉を開ける。
王子は机いっぱいに広げられた資料を見て、眉を上げた。
「……何をしているのです?」
「明日の視察資料を確認しておりました」
「今から?」
「はい」
王子はしばらく黙った。
そして。
小さく息を吐いた。
「今日はもう休んでください」
「はい。ですが」
故国での癖で返事だけは先に出る。
「明日の資料がまだ終わっておりませんので」
「あなたを政務官としてお迎えしたわけではありませんよ」
責める口調ではなかった。
むしろ。
困っているように聞こえた。
「はい」
私は。
そこで言葉に詰まった。
「でも、私はお役に立たないと、何のために故国から来たのか……」
「何のために?」
思わず顔を上げる。
王子は本当に分からない、とでもいうような顔をしていた。
レオン王子は少しだけ首を傾けた。
「私の妻になるため、でしょう?」
あまりにも当然のように言われた。
妻になる、ただそれだけで。
ここにいていいの?
何も証明せず。
何も成し遂げず。
役に立てなくても?
理解できなかった。
「……はい」
またそれしか言えなかった。
「失礼いたしました。先に休ませていただきます」
資料を閉じる。
王子はまだ何か言いたそうだった。
けれどそれ以上は何も言わなかった。
一人になってから寝台へ腰を下ろす。
『私の妻になるため、でしょう?』
その言葉が。
何度も頭の中に浮かんだ。
妻とは、役に立たなくてもなれるものなのだろうか。
私は。本当に、何のためにここへ来たのだろう。
私はもう、わからなくなっていた。




