私を必要としてくれる場所へ
ヴァルグレン王国へ向かう馬車は、国境へ近づくにつれて揺れが激しくなっていった。
道が悪い。
王都を出た頃には滑るように進んでいた車輪が、今では石と石との隙間を拾うたび、ゴトリ、ゴトリと鈍い音を立てる。
向かいの座席に積み重ねた旅行鞄が跳ねるたび、私は膝の上で組んでいた手に力を込めた。
今回の婚姻の約束そのものは、すでに両国の間で正式に決まっている。
けれど、婚礼が行われるのはおよそ半年後。
旧敵国同士の王族婚ともなれば、国内外への告知、招待客の選定、儀礼の調整だけでも相当な時間がかかる。
まして私は、ヴァルグレンの宮廷作法も、王城での生活も知らない。
そのため婚礼に先立ち、まずは私だけがヴァルグレンへ移り住むことになった。
半年ほどかけてこの国の暮らしに慣れ、王族や貴族たちへ顔を覚えてもらい、国民へのお披露目を済ませる。
そして何より、これから夫となるレオン王子と、お互いを知るための時間を持つ。
そう説明されていた。
半年。
長いようで一生を共にする相手を知るには、きっと短い。
それでもいきなり婚礼を挙げ、その日から夫婦として暮らせと言われるよりはありがたい。私はそう思うことにした。
◇
窓の外を流れていたアルディアの景色も、いつの間にか見慣れたものではなくなっていた。整然と並んでいた街道樹は途切れ、畑の間隔も広くなる。
そして、やがて。馬車の速度がゆっくりと落ちた。
前方に巨大な石造りの城壁が見える。両国を隔てる国境門だった。
高く積み上げられた灰色の石。その上では、風を受けたヴァルグレン王国の旗が大きく翻っている。
見慣れない紋章。
その下には、槍を携えた兵士たちが等間隔に立っていた。
彼らの視線が、こちらの馬車へ向けられる。
ほんの少し。指先が冷えた。
十二年前まで。あの旗を掲げた兵士たちと、私たちの国は殺し合っていた。
私自身は戦場を知らない。五歳の頃に戦争は終わった。
けれど、王太子妃教育では何度も学んだ。
ヴァルグレン軍がどこまで進軍したか。
アルディアがどれほど追い詰められたか。
いくつの砦を失い。何人の兵が死んだのか。
もしあと少し和平が遅れていれば、王都まで敵軍が迫っていた可能性さえあるという。
その敵国へ。私は今から嫁ぐ。
もっとも、私を乗せた馬車にはアルディア王家の紋章と、今回の婚姻使節であることを示す旗が掲げられている。
私一人を乗せた馬車ではない。
護衛もいる。外交官もいる。
何も恐れる必要はない。
そう頭では分かっていても。
高い城壁を見上げると、胸の奥に薄い膜を張ったような緊張が残った。
門前で馬車が止まる。
アルディア側とヴァルグレン側、双方の役人が書類を確認する声が遠く聞こえた。
やがて。
重い門扉が、石を擦る低い音を立てながらゆっくりと開いていく。
馬車が再び動き始めた。
門の影が窓を覆う。
一瞬だけ車内が暗くなり。
そして、再び陽の光が差し込んだ。
その時にはもう。
私はヴァルグレン王国の中にいた。
思わず後ろを振り返りそうになって。
やめた。
今さら見たところで何になるのだろう。
あの国には。もう、私の席はない。
私は前を向いた。
そうして私は、生まれて初めてアルディア王国の外へ出た。
◇
国境を越えてしばらくは、なだらかな丘陵が続いた。
夏の草が風に揺れ、遠くには低い山並みが霞んでいる。
景色だけを見れば、とても十二年前まで戦場だったとは思えない。
けれど。
首都へ向かうにつれて、少しずつ違和感が増えていった。
石敷きの街道には大きな亀裂が走っている。
新しい石で埋められた場所もある。
だが、補修が追いついていない箇所も多く、馬車の車輪が深い窪みに落ちるたび、身体が大きく揺さぶられた。
「……っ」
思わず座席の端へ手をつく。
街道脇には、新しく建て直された家がある。
その隣には。
壁だけを残した家。
屋根を失ったまま蔦に覆われた農家。
石橋の中央だけが新しい石材へ置き換えられている場所。
町の入口に残る、黒く焼け焦げた城壁。
人の暮らしは戻っている。
それでも。
戻りきってはいない。
ある村では、広場で大人たちに混じり、まだ幼い子供まで材木を運んでいた。
別の村では、半分だけ耕された畑の向こうに、雑草で覆われた土地がどこまでも残っている。
人手が足りないのだろう。
働ける者が。
帰ってこなかった者が。
きっと、たくさんいる。
時折、街道の脇に石碑が現れた。
古びた小さなものもあれば、立派な慰霊碑もある。
そのどれにも。
今も新しい花が供えられていた。
十二年。
長いようで。
誰かを忘れるには、きっと短い。
戦災の跡だ。
この国も。
私たちと同じ戦争をしていた。
同じように兵士を失った。
同じように家族を失った。
同じように町を焼かれ。
国庫をすり減らし。
傷を負った。
なのに。
窓の外を見れば見るほど。
一つの疑問が頭を離れなくなった。
――どうして、こんなにも違うのだろう。
アルディアでは。
王都から戦争の面影はほとんど消えている。
街道も整えられ。
領地も再建され。
市場には品物が溢れていた。
もちろん、すべての地域が完全に元通りになったわけではない。
それでも。
目の前のヴァルグレンと比べれば、その差は明らかだった。
王太子妃教育で学んだ歴史を思い返す。
元々の国力は、ヴァルグレンの方が上。
軍事力も上。
戦争末期には、勝利寸前までいっていたのはこちらの国だった。
それが。
突然、アルディアが盛り返した。
父をはじめ、軍人や官僚たちが次々と成果を上げ。
外交でも想像以上の条件を引き出し。
私が五歳の時。
和平が結ばれた。
その後。
アルディアは目を見張る速さで復興した。
なぜ。
同じ戦争をしたのに。
――優秀な方々に恵まれていた、からなのか。
お父様。
お母様。
宰相閣下。
騎士団長。
行政官たち。
そしてルーク殿下。
皆、驚くほど優秀だった。
だから。
そういうものなのだろうか。
◇
馬車の窓に映る自分の顔を見る。
そして。
これから夫となる人のことを思った。
レオン・ヴァルグレン王子。
二十一歳。
私より四歳年上。
肖像画では何度か見た。
濃い色の髪。
端正な顔立ち。
少し鋭く見える目元。
ただ。
実際にどのような方なのかは、ほとんど知らない。
年の離れた兄君がいたそうだ。
本来なら、その方が王位を継ぐはずだった。
けれど。
戦争で亡くなった。
兄君の婚約者も、その後まもなく亡くなられたという。
だからレオン王子は。
若くして、次代を背負うことになった。
それでも。
国内から持ち込まれる縁談を、長く断ってきたそうだ。
『国が立ち直るまで、自分の婚姻は後回しでいい』
そう仰っていたと聞いた。
そして。
今回の私との婚姻だけを受けた。
旧敵国との和平を、より確かなものにするため。
胸の奥が。
ほんの少しだけ痛んだ。
――私と同じだ。
国のための結婚。
好きだからでも。
一緒にいたいからでもない。
国が必要としたから。
お互いの立場が、そうさせたから。
そういう婚姻。
なら。
かえって良いのかもしれない。
私は窓から視線を外し、膝の上で手を重ねた。
今度こそ。
今度こそ、うまくやろう。
ルーク殿下には。
私は必要とされなかった。
王妃様にも。リリアにも。あの国にも。
でも。
ここでは。
まだ何も決まっていない。
私を迎えてくださる方の役に立とう。
その方をお支えしよう。
王太子妃になるために学んできたことだって、無駄ではないはず。
何か一つくらい。
ここで役に立つかもしれない。
そうすれば。
今度こそ。
私にも、そこにいていい理由ができるかもしれない。
胸の前で、そっと指を組む。
祈るように。
どうか。
今度こそ。
私を必要としてくれる場所へ。
馬車は。
私の願いなど知る由もなく。
ヴァルグレン王国の首都へ向かって走り続けた。




