女神と兵士たち
白い石造りの神殿、その大扉から伸びた列は広場を横切り、噴水の脇まで続いている。
戦争が終わって十二年の時が過ぎた。
けれどそれは、兵士たちの傷、全てが消えるほど長い年月ではなかった。
今日も、戦傷者の平癒を担う神殿には、リリアの癒しを求める長い列ができていた。
杖をつく者。片足を引きずる者。顔の半分を古い火傷の痕に覆われた者。袖や裾の余った軍服を身につけた者も、決して珍しくはなかった。
皆、戦争からは生きて帰った人たちだ。
けれど、故郷へ帰ったその日から、以前と同じ暮らしへ戻れたわけではない。
十二年という歳月に色褪せた軍服の胸には、今も勲章が下がっている。
そして彼らは今、戦場で掲げた軍旗ではなく、神殿の奥にいる一人の少女を目当てに列を作っていた。
「今日はリリア様がおられるそうだ」
「それなら、もしかしたら俺の脚も」
そんな期待を含んだ囁きが、列のあちらこちらから聞こえてくる。
十五歳にもならない公爵令嬢を、兵士たちはいつしか敬意を込めて――ある者は祈るような声で――『女神様』と呼ぶようになっていた。
「次の方を」
リリアがそう言うと、一人の兵士が神官に体を支えられて前へ出た。
その兵士は、右腕の肘から先を失っている。
リリアが両手を傷口へかざすと、手の先から淡い暖かな光が広がり、兵士の肘から骨が伸び、肉が形を取り、皮膚が覆っていく。
しばらくたつと、そこには失われたはずの右腕ができていた。
兵士の息を呑む音が聞こえる。
「お、おお……」
兵士は震える手を握ったり開いたりして、やがて涙を流した。
「女神様……!」
周囲から歓声が上がる。
リリアは少し照れながら微笑んだ。
「女神だなんて、大げさですわ」
「いいえ!」
治療された兵士は、強く首を振った。
「俺たちにとって、あなた様は女神そのものです!」
「そうだ!」
「リリア様がいなければ、俺たちはどうなっていたことか!」
声が次々に重なる。
リリアは困ったように笑った。
その時だった。
「それにしても……どうして王太子妃になられるのが、あなた様ではないのでしょう」
リリアの笑みが止まった。
「……え?」
「あなた様ほど国のために尽くしておられる方はいない」
別の兵士も頷く。
「姉君には悪いが、《星導》なんて道案内しかできないのでしょう?」
「あなた様の方が、ずっとこの国の役に立っている」
「王太子殿下のお隣には、あなた様こそ相応しい!」
そうだ、そうだと声が広がる。
リリアは慌てて手を振った。
「そんなことを仰ってはいけませんわ。姉様は正式な婚約者なのですから」
否定はした。
けれど。
その頬には、わずかに嬉しそうな色が差していた。
◇
その日の夕方。
リリアは公爵邸へ戻ると、王太子の婚約者でもある姉、エレナの部屋へ向かった。
アシュベリー公爵邸は、王都でも古い歴史を持つ屋敷だ。
磨き上げられた大理石の廊下には、歴代当主やその家族を描いた肖像画が並び、高い窓から差し込む夕日が、深紅の絨毯を細長く照らしている。
リリアは神殿帰りの疲れた足取りで、その廊下を奥へと進んだ。
途中ですれ違った使用人たちが次々と頭を下げる。
「お帰りなさいませ、リリア様」
「ただいま」
笑顔を返し、そのまま二階の東側へ。
エレナの私室は、その一番奥にある。
扉の前まで来ると、リリアは一度だけ髪を整えてから、軽く二度ノックした。
「エレナ姉様、私よ」
すぐに中から声が返る。
「どうぞ」
扉を開けると、エレナは窓際の机に向かっていた。
机の上には何冊もの本と、細かな文字の並んだ書類。王国史や外交に関する資料らしく、端には書き込みの入ったノートまで重ねられている。
どうやら今日も、王太子妃教育の続きをしていたらしい。
けれどリリアの姿を見ると、エレナはすぐにペンを置いた。
「お帰りなさい。今日も神殿だったのでしょう?」
そして、自分の勉強を中断したことなど何でもないように、いつもの穏やかな微笑みを向ける。
「エレナ姉様、今日もたくさんの方を治せたの」
「まあ」
姉のエレナは、十七歳とは思えぬ落ち着きを持った人だった。
自分に厳しく、聡明で、王太子妃として必要とされる品格をすでに身につけている。
淡い金色の髪はいつも丁寧に整えられ、白い肌に、灰青色の瞳。目を奪われるような華やかさこそないものの、姿勢よく佇んでいるだけで、名門公爵家の令嬢なのだと分かる。
声を荒らげるところなど、リリアは一度も見たことがない。
誰かが失敗すれば事情を聞き、落ち込んでいる者がいれば励まし、自分が何かを頼まれれば嫌な顔ひとつせず引き受ける。
幼い頃から、リリアにとってエレナは何でもできる姉だった。
初めて神殿へ行くのが怖かった時も。治癒の力を使ったあと、熱を出して寝込んだ時も。
「大丈夫よ、リリア」
そう言って、いつも傍にいてくれた。
だからリリアは、姉を誇らしく思っている。
――思っては、いる。
けれど最近。
社交界へ出るようになり、神殿で多くの人に感謝されるようになってから、時折思うことがあった。
エレナは何でもそつなくこなす。
けれど、何か一つを挙げて「これこそがエレナだ」と言えるものがない。
そう思うと、胸のどこかが少しだけ、軽くなる自分がいた。
美しい。けれど社交界一ではない。
聡明だ。けれど国を動かす政策を生み出したわけではない。
王太子妃教育も優秀だという。けれど、それは未来の王太子妃なら当然求められることだ。
何でもできるけれど、何でもできるだけだ。
それに比べて、自分には人の命を救う力がある。
今日だって、失われた腕を一つ取り戻した。
目の前で泣きながら感謝された。
『女神様』
そう呼ばれた。
そんな時だけ、リリアの胸の奥に小さな疑問が浮かぶ。
――エレナ姉様は立派な方。
でも。
王太子妃になる方に必要なのは、本当に「立派」であることだけなのだろうか。
「それで?」
エレナの声に、リリアは我に返った。
「今日はどんな方を治して差し上げたの?」
その顔には、いつもの穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「腕を失った方も、ちゃんと元に戻せたわ。でも、まだ待っている方が大勢いるの。もっとたくさんの人を救えたらいいのに」
リリアの瞳は真剣だった。本当に、人を救いたいのだ。
「あなたは立派ね」
エレナは、心から嬉しそうに微笑んだ。
「きっと、もっと多くの人を救えるわ。あなたの願いが叶うよう、私も祈っているわ」
その言葉を聞いた瞬間、リリアはなぜか素直に笑えなかった。
「……ありがとう、姉様」
それだけを返して、部屋を出る。
廊下を歩き、自室へ戻る。扉を閉めた途端、リリアは小さく息を吐いた。
――祈るだけ。
姉様は、いつだってそうだ。
優しい。聡明。何をさせてもそつがない。
王太子妃教育でも、教師たちは口を揃えて褒める。
使用人たちも、姉様のことを「さすがエレナ様」と言う。
リリアだって、そんな姉を誇らしく思っている。
幼い頃から、分からないことがあれば姉様に聞けばよかった。困った時には、姉様が何とかしてくれた。
ずっと憧れてきた。
だからこそ。
時々、思ってしまう。
――私は、姉様より劣っているのかしら。
私は毎日のように神殿へ通っている。
血を見る。苦痛に歪む顔を見る。呻き声を聞く。
力を使い続ければ、腕は重くなり、頭も痛くなる。それでも、一人でも多く救いたいと思って治療を続けている。
今日だって、失われた腕を取り戻した。
兵士は泣いていた。周囲の人たちも泣いていた。
それなのに姉様は。
屋敷にいて。
「祈っている」と言うだけ。
リリアは鏡台の前へ腰を下ろした。
鏡の中には、まだ神殿での治療を終えたばかりの自分がいる。
少し乱れた髪。疲れた顔。
けれど、その顔を見た兵士たちは今日も『女神様』と呼んだ。
ふいに、昼間の声が蘇る。
『なぜ、あなた様が王太子妃ではないのですか』
あの時は、そんなことを言ってはいけないと窘めた。
エレナ姉様は正式な婚約者なのだから。
そう思っていた。
今も、そう思っている。
――でも。
リリアは鏡の中の自分を見つめた。
もし王太子妃というものが、この国の民に寄り添い、国のために働く存在なのだとしたら。
本当に、姉様でなければならない理由はあるのだろうか。
リリアは鏡から目を逸らさなかった。
そして初めて、胸の奥に浮かんだ思いを打ち消さなかった。
――本当に、なぜ私ではないのかしら。




