第5話/通算第65話「世界を救うためなら、自分を壊してもいいんですか?」
第7部『勇者継承機構編』
勇者は、選ばれるものではない。
《勇者は、作られる》
第6部の最後、古代施設の石壁に刻まれていた言葉が、勇者の歴史を根底から揺るがしました。
才能も魔力も最低。職業は《無職》。
そんな神谷悠真は、百人の死んだ英雄たちに教わりながら、少しずつ強くなってきました。
けれど、もし勇者の強さが、誰かから受け継がされるものだったとしたら?
受け継ぐのは、剣の技なのか。
戦いの経験なのか。
それとも、他人の記憶や想いまでなのか。
百人の先生たちが一斉に苦しみ、百一人目の勇者ゼルが初めて本気で悠真を止めた理由。
そして、百年前の記録に残された《百二人目》の謎。
その答えを求め、悠真とセレスは《勇者継承機構》の真相へ踏み込んでいきます。
しかし、真実に近づくことが、大切な人を守ることにつながるとは限りません。
先生の答えを信じるのか。
自分自身で答えを選ぶのか。
そして、誰かの過去を受け継いだあとも、自分は自分でいられるのか。
第7部『勇者継承機構編』。
これは、最弱だった少年が、強さの秘密ではなく、**「自分自身であり続ける意味」**を問い始める物語です。
悠真とセレス、そして百一人の先生たちが迎える新たな試練。
ぜひ、最後まで見届けてください。
俺なら、見える
もう一度あの扉に触れたら、俺は俺じゃなくなるかもしれない。
それでも。
俺は、確かめたいと思っていた。
「……悠真。本気なの?」
セレスの声が、震えていた。
王立アストリア勇者学院の資料室。
机の上には、古い警告文が置かれている。
《高適合者は人格境界の希薄化に注意》
人格境界。
自分と、他人を区別する境目。
その境目が薄くなる。
……つまり。
誰かの記憶が、俺の記憶になるかもしれない。
誰かの感情が、俺の感情になるかもしれない。
最悪の場合。
自分で考えているつもりでも、誰かの判断に従ってしまうかもしれない。
……怖い。
怖くないわけがない。
でも。
「……もう一度、機構に接続してみたい」
俺は、ようやく口にした。
セレスの表情が変わった。
「その警告を読んだあとで?」
「……うん」
「危険があると分かっているのに?」
「分かってる」
俺は、右手を見つめた。
《勇者継承機構》。
あの石の扉に触れた時。
俺の頭には、知らない戦場の記憶が流れ込んできた。
百人の先生たちが苦しんだ。
ガルディオ先生も。
クロウ先生も。
自分たちの記憶に、何かおかしなところがあると気づき始めている。
そして。
俺たちは、まだ知らない。
機構が何を継承しようとしていたのか。
百二人目とは、誰なのか。
なぜ、ゼル先生は《継承拒否》を選んだのか。
「……セレス」
「何?」
「もし、あの機構が俺にだけ反応するなら」
俺は、顔を上げた。
「俺が確かめるしかないんじゃないか?」
セレスは、すぐには答えなかった。
「……どうして、そう思うの?」
「だって、俺が触れた時だけ、あんなことが起きたんだろ?」
……そうだ。
百人の先生たちにも分からない記憶。
過去の勇者候補の記録。
名前のない継承候補。
俺と機構との関係は、まだ何も証明されていない。
でも。
何かが反応したことだけは事実だ。
「俺なら見える」
気づけば、そう言っていた。
「先生たちにも見えないものが、俺には見えるかもしれない」
セレスの眉が、わずかに動いた。
「……悠真」
「俺がやるしかないんだ」
その瞬間。
「違うわ」
彼女は、はっきりと言った。
……え?
「あなたにしかできないことと、あなたがやらなければいけないことは、同じじゃない」
俺は、言葉に詰まった。
「……でも」
「確かに、あなたが触れた時に機構は反応した。でも、それが安全に情報を得られるという意味にはならないでしょう?」
……正しい。
いつものセレスだ。
分かっていること。
分かっていないこと。
その境目を、絶対に曖昧にしない。
「あなたの適合率が高いかどうかも分からない。次の接続で何が起きるかも分からない」
「……うん」
「だったら、先に資料を調べるべきよ」
……資料。
俺は、机の上を見た。
古い日記。
削られた名前。
欠けた記録。
《記録》
《適合》
《継承》
ここまで調べても、分からないことばかりだった。
「……いつまで?」
思わず、聞いていた。
「え?」
「いつまで調べれば、安全だって分かるんだ?」
セレスが、口を閉じた。
「一日? 一週間? それとも、何年も?」
「悠真」
「調べるなって言ってるんじゃない。でも、もう目の前にあるんだよ」
俺は、資料を指さした。
「確かめられるかもしれない場所が」
彼女は、静かに首を横に振った。
「確かめられるかもしれないことと、確かめていいことは違うわ」
……また。
正しいことを言われた。
それが。
なぜか、苦しかった。
世界を救うためなら
「……じゃあ、どうすればいいんだ?」
俺は、聞いた。
セレスは、机の上に三枚の記録を並べた。
一枚目。
《勇者継承機構への接触後、未知の記憶を認識》
二枚目。
《百英雄の一部に記憶の欠落・混乱あり》
三枚目。
《高適合者は人格境界の希薄化に注意》
「今、分かっているのはここまでよ」
……うん。
「記録を突き合わせて、ほかの候補者の例を探す。先生たちが覚えていることとも照合する」
「……それでも分からなかったら?」
「別の方法を探すわ」
「その方法が見つからなかったら?」
セレスが、俺を見た。
……分かっている。
言い方が悪い。
彼女だって、何もしないつもりじゃない。
俺と一緒に、何度も資料を調べてくれた。
でも。
「……もし、また大きな災厄が起きたら?」
俺は、言った。
「勇者制度が、何のために作られたのかは分からない。でも、昔の人たちは、何かを守ろうとしていたんだろ?」
セレスは、黙って聞いていた。
「先生たちだって、何かを守るために戦ったはずだ」
……そうだ。
百人の英雄。
そして、百一人目の勇者ゼル。
誰もが、何かを失っている。
命を懸けて戦った人もいる。
守れなかった人もいる。
もし。
そんな人たちの経験を未来へ残すために、この機構が作られたのだとしたら。
俺たちは、その意味を知らなければいけない。
「……もし、この仕組みを知らないせいで、また誰かが死ぬなら」
俺は、拳を握った。
「俺が少しくらい危険な目に遭っても、確かめる意味はあるだろ?」
……沈黙。
セレスが、俺を見つめた。
その顔が、ゆっくりと変わっていく。
「……少しくらい?」
「……え?」
「今、少しくらいって言った?」
……あ。
「いや、だから」
「自分じゃなくなるかもしれないことを、少しくらいって言うの?」
俺は、返事に詰まった。
彼女の声は、震えていた。
「……悠真」
セレスは、まっすぐ俺を見た。
「世界を救うためなら、自分を壊してもいいなんて言わないで」
……え?
胸の奥が、強く締めつけられた。
「あなたが、誰かを守りたいと思っているのは知ってる」
彼女は、続けた。
「何もできなかった自分を変えたいと思っていることも、知ってる」
……うん。
「でも」
セレスの声が、少しだけ大きくなった。
「だからって、あなた自身を犠牲にしていい理由にはならないでしょう?」
……分かっている。
そんなこと。
俺だって。
「……でも、何もしなかったら」
「何もしないなんて言っていないわ」
「じゃあ、ずっと調べ続けるのか?」
「必要なら、そうするわ」
「その間に何か起きたら?」
「だから、安全に調べる方法を探すの!」
……まただ。
彼女の答えは正しい。
でも。
正しいからこそ。
俺には、何もできないと言われているような気がした。
「……じゃあ何も分からないままでいろっていうのか」
言った瞬間。
セレスの表情が止まった。
……しまった。
「……私が、そんなことを言った?」
静かな声だった。
でも。
今まで聞いた、どんな怒鳴り声よりも重かった。
「……いや」
「私は、あなたと一緒に調べたいと言っているの」
「……分かってる」
「分かっていないわ」
彼女は、首を横に振った。
「あなたは、自分一人が危険を引き受ければ、それでいいと思っている」
……違う。
そう言いたかった。
でも。
すぐには言えなかった。
「先生たちが苦しむのは嫌なのに、自分が苦しむのはいいの?」
「……それは」
「私が危険な目に遭うのは嫌なのに、あなたならいいの?」
……セレス。
「どうして?」
彼女の声が、また震えた。
「どうして、あなたは自分一人ならいいと思うの?」
……俺は。
何を言えばいい?
彼女を守りたい。
先生たちを守りたい。
誰かが危険を引き受けなければいけないなら、自分が。
……そう思った。
でも。
それは。
本当に、正しいのか?
「……セレス」
俺は、言った。
「一緒に考えることと、一緒に危険な目に遭うことは違うだろ」
彼女の目が、揺れた。
「……どういう意味?」
「機構がまた反応したら、先生たちも苦しむかもしれない。セレスだって、何が起きるか分からない」
……だから。
「俺一人で」
「それが違うって言ってるの!」
声が、資料室に響いた。
……え?
セレスが。
叫んだ。
いつも冷静な彼女が。
俺の間違いを、淡々と指摘する彼女が。
今は、必死に何かを伝えようとしていた。
「あなたが自分じゃなくなったら」
そこで、言葉が止まった。
セレスは、唇を噛んだ。
「……セレス?」
彼女は、俺を見た。
「あなたが自分じゃなくなったら、私は誰と一緒に答えを探せばいいの?」
……あ。
何も、言えなかった。
頭の中で。
今までの光景が、次々と浮かんだ。
最初の迷宮。
未知の魔物。
百人の先生たちにも、倒し方が分からなかった敵。
あの時。
俺とセレスは、一緒に考えた。
先生たちの知識だけでは、答えが出なかった。
でも。
二人で敵を観察して。
弱点を見つけた。
……あの時からだ。
俺は。
先生たちに教わるだけではなくなった。
セレスと一緒に、自分の答えを探すようになった。
「……悠真」
彼女が、俺を呼んだ。
「あなたが何を知りたいのか、私にも分かるわ」
……うん。
「私だって知りたい。勇者制度のことも、先生たちのことも、あなたに何が起きているのかも」
セレスは、一歩近づいた。
「でも、答えを知るためにあなた自身を失ったら」
その瞳が。
真っすぐ、俺を見ていた。
「その答えを、誰が受け取るの?」
……あ。
胸の奥で。
何かが、止まった。
真相を知る。
秘密を暴く。
世界を守る。
でも。
その時。
俺が俺じゃなくなっていたら。
……確かに。
何のために、調べたんだ?
破った約束
「……俺だって、怖いんだよ」
ようやく、声が出た。
セレスが、顔を上げた。
「……うん」
「知らない記憶が、頭に入ってくる。先生たちにも、思い出せないことがある」
俺は、右手を見つめた。
「自分の中に何があるのか分からない。それが怖い」
……そうだ。
もし。
俺の考え方まで、誰かの記憶に影響されていたら。
俺が正しいと思ったこと。
誰かを守りたいと思ったこと。
セレスと一緒にいたいと思ったこと。
それさえ。
本当に、自分の意思なのか?
……分からない。
「怖いからこそ、確かめたいんだ」
俺は、言った。
「何も知らないまま、自分が変わっていくほうが怖い」
セレスは、しばらく黙っていた。
そして。
「……その気持ちは、分かるわ」
静かに答えた。
「でも、悠真」
彼女は、俺の目を見た。
「あなたは、昨日言ったわよね」
……昨日。
「私には、全部知っていてほしいって」
俺は、頷いた。
「……うん」
「だったら」
セレスは、声を落とした。
「どうして、私が一番知りたくない未来を、一人で選ぼうとするの?」
……知りたくない未来。
俺が、いなくなること。
俺が、俺じゃなくなること。
そして。
彼女のことさえ、分からなくなること。
……そうか。
俺は。
そんな未来を。
セレスに押しつけようとしていたのか。
「……私のことは、信用できない?」
「違う!」
思わず、声が大きくなった。
「そんなわけないだろ!」
「だったら、一緒に考えて」
……正しい。
分かっている。
でも。
彼女の言葉を受け入れたら。
ここまで来て、何もできない自分に戻ってしまうような気がした。
剣も使えず。
魔法も出せず。
《無職》と笑われた。
あの日の自分に。
……何でだよ。
俺は。
もう、あの頃の俺じゃないはずなのに。
「……少し、一人で考えたい」
俺は、言った。
セレスの表情が変わった。
「……悠真」
「今は、ちゃんと話せる気がしない」
このまま話せば。
きっと、もっとひどいことを言ってしまう。
俺は、机から離れた。
「……ごめん」
それだけ言って。
資料室を出た。
扉が閉まる。
……昨日。
約束した。
勝手に一人で決めない。
何が怖いのか。
何を考えているのか。
ちゃんと話す。
……なのに。
俺は。
その約束を破ろうとしていた。
先生たちにも、分からない
『……おい、悠真』
廊下を歩いていると、声がした。
ガルディオ先生だった。
「……何ですか?」
『お前、あの嬢ちゃんに何を言った?』
……聞いてたんですね。
まあ、そうだよな。
先生たちは、いつも俺の近くにいる。
「……ちょっと、言い過ぎました」
『ちょっとか?』
「……かなり」
先生は、腕を組んだ。
『分かってんなら、謝れ』
……正論。
返す言葉がない。
「……はい」
『で』
先生が、俺を見た。
『まだ、あの機構へ行くつもりか?』
……。
俺は、すぐには答えなかった。
「……分かりません」
『そうか』
……え?
怒鳴られると思った。
いつものように。
『馬鹿野郎!』
そう言われると思った。
でも。
先生は、黙っていた。
「……止めないんですか?」
『止めてほしいのか?』
……あ。
俺は、顔を上げた。
ガルディオ先生は、真剣な顔をしていた。
『俺は、お前に剣を教えた』
「……はい」
『勝ち方も教えた。もっとも、逃げ方はあの暗い奴のほうが詳しいがな』
壁際にいたクロウ先生が、短く言った。
『逃げる判断も、立派な技術だ』
……先生。
今日も容赦ないですね。
ガルディオ先生は、続けた。
『だがな、悠真』
「……はい」
『今のお前の頭の中に何があるのか、俺には分からねえ』
……昨日と同じだ。
先生は、自分が知らないことを、知らないと言ってくれた。
『だから、最後に決めるのはお前だ』
「……先生」
『ただし』
先生の声が、低くなった。
『自分で決めた結果から逃げるな』
……結果。
俺は、頷いた。
「……はい」
その時。
『悠真』
エレノア先生が、静かに声をかけた。
『一つ、確認してもいいかしら』
「……何ですか?」
『あなたが知りたいのは、機構の秘密?』
「……はい」
『それとも、自分が何者なのか?』
……え?
俺は、言葉を止めた。
……どっちだ?
勇者制度の真相。
先生たちの記憶。
百二人目。
空欄の継承候補。
全部、知りたい。
でも。
一番怖いのは。
自分の中に、自分の知らない何かがあることだ。
「……両方、です」
エレノア先生は、静かに頷いた。
『なら、その二つを混同しないことね』
……混同。
『機構の仕組みを知ることと、あなた自身を知ることは、同じとは限らないわ』
……そうか。
あの扉に触れれば、何かが分かるかもしれない。
でも。
それが俺自身の答えとは限らない。
知らない誰かの記憶かもしれない。
過去の記録かもしれない。
……分かっている。
分かっているんだ。
その時。
『悠真』
穏やかな声がした。
ゼル先生だった。
黒髪の青年。
いつもの優しい表情。
でも。
最近は、その笑顔を見るたびに考えてしまう。
《第百一勇者 ゼル》
《継承拒否》
先生は、何を拒んだのか。
なぜ、俺が機構に接続することを止めたのか。
「……ゼル先生」
『何だい?』
「先生は、あの機構に触れたら、俺がどうなるか知ってるんですか?」
先生の笑顔が、わずかに消えた。
……あ。
聞いてしまった。
今は自分たちで答えを探す。
そう決めたのに。
ゼル先生は、少しだけ考えた。
『全部は、知らないよ』
……全部は。
「……じゃあ、一部は?」
先生は、俺を見つめていた。
『君が知ろうとしていることには、危険がある』
「……それは分かってます」
『そうだね』
ゼル先生は、頷いた。
『でも、危険を知ることと、危険を受け止められることは違う』
……まただ。
俺は、思わず苦笑した。
「……今日は、みんな同じことを言いますね」
先生も、少しだけ笑った。
『それだけ、君が心配なんだろうね』
……心配。
セレスの顔が浮かんだ。
怒っていた。
本気で。
でも。
あれは。
怒っていたからじゃない。
……怖かったんだ。
俺が、いなくなるかもしれないことが。
「……先生」
『何だい?』
「俺、間違ってますか?」
ゼル先生は、すぐには答えなかった。
そして。
『君は、どう思う?』
……また、それか。
先生は。
いつだって、答えを教えてくれない。
でも。
今は。
俺自身にも、答えがなかった。
誰の記憶だ?
気づけば。
俺は、《勇者継承機構》の前に立っていた。
古い石壁。
並んだ紋章。
百英雄に関係する記録。
そして。
名前のない、最後の席。
……ここだ。
前に触れた時。
俺は、知らない戦場を見た。
先生たちは、苦しんだ。
ゼル先生は、必死に止めた。
……もう一度触れたら。
今度は、何が起きる?
俺は、右手を見つめた。
……戻ればいい。
今なら、まだ戻れる。
資料室へ戻る。
セレスに謝る。
別の方法を考える。
……それが。
きっと、一番まともな選択だ。
でも。
俺は、石の扉を見た。
《継承候補 適合確認中》
あの空欄。
その文字が、頭から離れなかった。
俺と、関係があるのか。
それとも。
まったく関係がないのか。
……確かめたい。
『悠真』
ゼル先生が、静かに言った。
『まだ、引き返せるよ』
「……はい」
俺は、頷いた。
「分かってます」
……分かっている。
それでも。
「……俺、怖いんです」
先生は、黙っていた。
「触って、自分が変わるのも怖い」
俺は、右手を握った。
「でも、何も知らないまま変わっていくほうが、もっと怖い」
ゼル先生の表情が変わった。
『……悠真』
「だから」
俺は、手を伸ばした。
「確かめます」
『待て!』
ガルディオ先生が叫んだ。
『悠真!』
エレノア先生。
『やめろ』
クロウ先生。
そして。
『悠真、触れるな!』
ゼル先生の声が、響いた。
……ごめんなさい。
俺は。
石の扉に、手を触れた。
その瞬間。
世界が、消えた。
最初に感じたのは、冷たさだった。
石の冷たさ。
それが、手のひらから腕へ。
腕から胸へ。
そして。
頭の奥へ。
一気に広がっていく。
「……っ!」
視界が白くなる。
次の瞬間。
戦場が見えた。
燃える大地。
倒れた兵士。
響く叫び声。
……知らない。
こんな場所、知らない。
なのに。
知っている気がした。
足元の土。
握りしめた剣。
敵が、右から来る。
……避けろ!
そう思った瞬間。
視界の中の身体が動いた。
剣が振られる。
敵が倒れる。
……え?
待て。
俺は、こんな剣を使えない。
ガルディオ先生から教わったことはある。
でも。
こんな動きは、できない。
前にも、知らない戦場の記憶を見た。
けれど。
見たからといって、剣技を再現できたわけじゃなかった。
なのに。
今は、その動きが。
自分の経験のように感じられた。
……誰の記憶だ?
次の瞬間。
景色が変わった。
暗い部屋。
傷ついた人。
血のついた手。
助けなければ。
治さなければ。
……いや。
俺は、治療の魔法なんて使えない。
なのに。
何をすればいいのか、分かる気がした。
……おかしい。
俺は、こんなことを知らない。
また、景色が変わる。
高い場所。
強い風。
遠くに見える大地。
……空?
俺は、どこにいる?
何を見ている?
分からない。
でも。
懐かしい。
……え?
俺は、こんな場所に来たことがない。
なのに。
帰ってきたような気がする。
……待て。
誰の感情だ?
俺のものじゃない。
知らない記憶。
知らない感情。
知らない人生。
それが。
次々と、俺の中に入ってくる。
『悠真!』
遠くで、声がした。
ガルディオ先生。
……先生?
俺は、振り返ろうとした。
でも。
身体が、動かない。
いや。
目の前の身体は、動いている。
剣を振っている。
走っている。
誰かを守っている。
……誰が?
俺が?
違う。
これは、俺の記憶じゃない。
……本当に?
その瞬間。
頭の中に、別の声が響いた。
『俺は、逃げない』
……え?
『命令を待つ』
……違う。
『恐れる必要はない』
……待て。
一つだった声が、二つになる。
三つ。
四つ。
いくつもの声が、重なっていく。
誰かの怒り。
誰かの後悔。
誰かの恐怖。
誰かの決意。
……やめろ。
俺は、頭を押さえようとした。
でも。
右手が動かない。
石の扉に触れたまま。
その感覚さえ、遠くなっていく。
……まずい。
俺は。
今。
何を考えていた?
答えを知りたかった。
……何の答え?
勇者になるため?
……違う。
強くなるため?
……違う。
世界を守るため?
……それも、理由の一つだ。
でも。
一番知りたかったのは。
……何だ?
思い出せない。
……おかしい。
さっきまで、分かっていたはずなのに。
『悠真!』
また、声が聞こえた。
……悠真。
誰だ?
……あれ?
俺の名前だ。
神谷悠真。
日本から来た。
勇者学院に入った。
《無職》と笑われた。
それから。
百人の先生たちに出会った。
……そうだ。
俺は、悠真だ。
でも。
その記憶に。
別の記憶が重なってくる。
守れなかった仲間。
従った命令。
拒んだ命令。
倒した敵。
助けられなかった人。
……待て。
どれが、俺の経験だ?
俺は、こんなことをしたのか?
……違う。
俺じゃない。
そのはずなのに。
すべてが、自分の過去のように感じられる。
『……私は』
不意に。
そんな言葉が、頭に浮かんだ。
……え?
『私は、仲間を守るために戦った』
違う。
『俺は、命令に従った』
違う。
『私は、逃げなかった』
……違う!
一人称が変わる。
言葉遣いが変わる。
恐怖が変わる。
考え方まで変わっていく。
……あ。
俺は、思い出した。
古い日記。
勇者認定後に変わっていった候補者。
『昨日まで好きだったものが、気持ち悪い』
『自分の言葉で話している気がしない』
そして。
『私は、本当に私なのか』
……これか。
これが。
《人格境界の希薄化》。
……なのか?
いや。
まだ、確かめられない。
でも。
今。
確かに。
自分の記憶と、誰かの記憶の境目が。
分からなくなり始めていた。
俺は、誰の答えで戦ってきた?
……怖い。
身体が動かない。
自分の考えさえ、分からない。
それなのに。
頭の中に流れ込む記憶は、止まらなかった。
……すごい。
思わず、そう感じた。
こんな戦い方がある。
こんな判断ができる。
こんなふうに仲間を守れる。
もし。
この経験を、全部受け継げたら。
俺は、もっと強くなれるんじゃないか?
……え?
その考えに。
俺自身が、驚いた。
強くなる。
誰かを守る。
そのために、過去の英雄たちの経験を受け継ぐ。
……それは。
本当に、悪いことなのか?
勇者制度が、誰かを守るために作られたのだとしたら。
この仕組みにも、意味があるのかもしれない。
失われた経験。
繰り返された失敗。
次の世代が、同じ犠牲を出さないために。
……でも。
待て。
俺は、何をしようとしている?
先生たちの経験を。
全部、自分の中へ入れようとしている。
それが。
本当に強くなることなのか?
……先生たち。
俺は、何を教わった?
剣の振り方。
敵の見方。
逃げる方法。
魔法の考え方。
……それだけじゃない。
先生たちは。
いつだって、違うことを言っていた。
ガルディオ先生は、勝てと言った。
クロウ先生は、逃げろと言った。
エレノア先生は、考えろと言った。
リリア先生は、命を守れと言った。
……そして。
ゼル先生は。
何度も、俺に問いかけた。
『悠真。君はどうしたい?』
……そうだ。
先生たちは。
一つの正解を教えてくれたわけじゃない。
俺に。
考えるための材料をくれたんだ。
……なのに。
今。
頭の中で、いくつもの答えが響いている。
『勝て』
『守れ』
『迷うな』
『命令に従え』
……全部。
正しいように聞こえる。
でも。
どれが。
俺の答えだ?
……分からない。
それが。
一番、怖かった。
自分で考えたと思っていたこと。
自分で選んだと思っていたこと。
そのすべてが。
誰かの記憶に引っ張られていたとしたら。
……俺は。
今まで。
何を選んできたんだ?
その時。
不意に、一つの光景が浮かんだ。
資料室。
机の上の警告文。
そして。
セレス。
『世界を救うためなら、自分を壊してもいいなんて言わないで』
……セレス。
彼女の声が、胸に響いた。
……そうだ。
セレスは、止めてくれた。
俺が、自分を失うかもしれないことを。
本気で、怖がってくれた。
……だから。
彼女の言う通りに。
……いや。
待て。
俺は、そこで考えるのを止めた。
……違う。
それだけじゃない。
セレスが止めたから。
先生たちが止めたから。
だから、やめる。
……それじゃ。
また、誰かの答えを選んでいるだけじゃないか。
俺は。
自分で考えなければいけない。
今。
ここで。
……何のために。
俺は、この扉に触れた?
知りたかったから。
真実を。
勇者制度のことを。
先生たちの記憶を。
俺自身のことを。
……そうだ。
でも。
今の俺は。
何が誰の記憶なのか。
何が本当の感情なのか。
分からなくなっている。
このまま情報が増えても。
俺は、それを正しく考えられるのか?
……無理だ。
少なくとも。
今の俺には、無理だ。
なら。
続ける意味がない。
答えを知るために。
答えを選ぶ自分自身を失ったら。
何の意味がある?
……俺がしたかったのは。
先生たちの記憶を、そのまま自分のものにすることじゃない。
先生たちが何を経験したのかを知って。
セレスと一緒に考えて。
その上で。
俺自身が、答えを選ぶことだ。
……だったら。
今、するべきことは。
一つしかない。
「……これ、は……」
俺は、声を出そうとした。
喉が、うまく動かない。
「……これは……」
頭の中では。
まだ、いくつもの声が響いている。
進め。
継げ。
守れ。
勝て。
……違う。
俺は。
その声に、従わない。
セレスが止めたからじゃない。
先生たちが止めたからでもない。
俺が。
自分で考えたからだ。
「……これは違う」
ようやく。
声が出た。
その瞬間。
俺は、右手に意識を向けた。
……手。
そうだ。
俺の右手。
石の扉に触れている。
……離せ。
自分で。
離すんだ。
指が、わずかに動いた。
……もう少し。
まだ、石の感覚がある。
身体は、戻ってきている。
……大丈夫。
俺は、必死に指を曲げた。
自分で。
自分の意思で。
この接続を切る。
『……悠真!』
遠くで、先生たちの声が聞こえた。
でも。
今は、返事をしなかった。
俺は。
自分で。
右手を。
石から引き離そうとした。
その時だった。
最後に見えた文字
石壁の奥で。
何かが、光った。
……え?
指先が、石から離れかけた瞬間。
目の前に、古い文字が浮かび上がった。
《照合》
……照合?
続いて。
別の文字。
《職業》
……職業?
俺は、息を止めた。
その言葉には、覚えがあった。
異世界に来た、最初の日。
王立アストリア勇者学院。
入学試験。
剣術。
惨敗。
魔法。
一発も出ない。
魔力測定。
最低。
そして。
最後の職業鑑定。
教官が、固まった。
教室が、静まり返った。
俺の名前。
その下に表示された言葉。
《無職》
……あの日。
みんなに笑われた。
異世界まで来て、無職。
勇者になんて、なれるはずがない。
そう思った。
……でも。
何で。
今。
職業という言葉が?
石壁の光が、強くなった。
新しい文字が、現れる。
《職業照合不能》
……え?
照合。
不能。
……どういう意味だ?
さらに。
その下に、もう一行。
《既存分類外》
……分類外?
何だ。
それ。
俺は、目を凝らした。
その瞬間。
頭の奥で、また誰かの記憶が動き始めた。
……まずい。
これ以上は、駄目だ。
文字を読もうとすれば。
また、接続が深くなるかもしれない。
……でも。
あの言葉だけは。
覚えておかなければ。
《職業照合不能》
《既存分類外》
……覚えた。
俺は、奥歯を噛みしめた。
そして。
「……離れろ!」
右手を、思いきり引いた。
その瞬間。
頭の中で響いていた無数の声が、一斉に遠ざかった。
視界が揺れる。
床が近づく。
……あ。
倒れる。
俺は、反射的に左手をついた。
冷たい石床。
……触れる。
ちゃんと、分かる。
俺の手だ。
俺の身体だ。
「……はあ……っ」
荒い息が漏れた。
頭が痛い。
足が震えている。
でも。
考えられる。
……俺は。
「……神谷、悠真……」
自分の名前を口にした。
日本から来た。
勇者学院に入った。
百人の先生たちに出会った。
セレスと一緒に戦った。
……覚えている。
少なくとも。
今は。
自分の名前も。
自分が何を選んだのかも。
覚えている。
『……馬鹿野郎』
声がした。
ガルディオ先生だった。
『本当に、お前は……』
そこで、言葉が止まった。
先生は、俺を見下ろしていた。
怒っている。
……当然だ。
でも。
その表情には、怒りだけではないものがあった。
「……すみません」
俺は、小さく言った。
『謝る相手が違うだろ』
……あ。
セレス。
俺は、目を閉じた。
……そうだ。
俺は。
彼女との約束を破った。
一人で決めない。
そう言ったのに。
一人で、ここへ来た。
そして。
本当に、自分を失いかけた。
……何をしているんだ、俺は。
『……悠真』
今度は、ゼル先生だった。
「……はい」
『どうして、手を離したんだい?』
……え?
俺は、先生を見た。
いつもの穏やかな顔。
でも。
その目は、真剣だった。
「……自分で」
俺は、ゆっくり答えた。
「自分で、決めたかったからです」
先生は、黙っていた。
「……あのまま続けたら、俺、何が自分の考えなのか分からなくなる気がしたんです」
俺は、震える右手を見つめた。
「それじゃ、答えを見つけても意味がないと思った」
ゼル先生は、しばらく俺を見ていた。
そして。
『……そうか』
小さく答えた。
その声は。
少しだけ、安心したように聞こえた。
……先生。
でも。
俺の頭からは、別のことが離れなかった。
さっき。
最後に見えた文字。
《職業照合不能》
《既存分類外》
……何だ?
あれは。
俺のことなのか?
それとも。
機構の中に残された、誰か別の記録なのか?
分からない。
まだ、何も分からない。
でも。
一つだけ。
どうしても、思い出してしまうことがあった。
あの日。
教官が、固まった。
教室が、笑いに包まれた。
俺は、何の才能もないと思った。
剣も使えない。
魔法も出せない。
特別な能力もない。
だから。
《無職》。
……そう信じていた。
でも。
もし。
あの鑑定が。
俺の能力をすべて説明していたわけではなかったとしたら。
……いや。
まだ、決めつけるな。
似ていることと。
同じことであることは、違う。
セレスにも。
クロウ先生にも。
何度も言われた。
《職業照合不能》と《無職》。
この二つが、同じ意味だという証拠はない。
それでも。
胸の奥で。
一つの疑問が、消えなかった。
俺が、学院で笑われた理由。
勇者になれないと思った理由。
何もできない自分を、嫌いになった理由。
そのすべての始まり。
《無職》。
俺は、震える手を握りしめた。
そして。
誰にともなく、呟いた。
「……待て」
俺の声が、静かな空間に響いた。
「俺の《無職》って、本当は何だったんだ?」
第65話 完
次回予告
第7部『勇者継承機構編』
次回 第6話/通算第66話
「俺が《無職》だったのは、本当に外れだったんですか?」
勇者継承機構への再接続。
百英雄の記憶に、自分自身を失いかけた悠真。
最後に見たのは、二つの文字だった。
《職業照合不能》
《既存分類外》
学院で《無職》と判定された、あの日。
その結果には、まだ知らない意味があったのだろうか。
しかし。
悠真が向き合わなければならないのは、勇者制度の謎だけではない。
「……心配してくれたのに、怒って悪かった」
セレスとの約束を破った悠真。
二人の間には、今までにない距離が生まれていた。
そして。
古い勇者候補の記録から、新たな事実が浮かび上がる。
《異界出身・職業照合不能》
……俺だけじゃなかった?
次回。
最初の絶望だった《無職》が、勇者制度の新たな謎へとつながっていく。
悠真は、自分を失いかけてまで知ろうとした答えを、これからどう探すのでしょうか。
そして、セレスとの関係はどうなると思いますか?
ぜひ、感想や考察をコメントで教えてください。
この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。
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