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第3話/通算第63話 「ゼル先生は、勇者を継がなかった」

第7部『勇者継承機構編』




勇者は、選ばれるものではない。




《勇者は、作られる》




第6部の最後、古代施設の石壁に刻まれていた言葉が、勇者の歴史を根底から揺るがしました。




才能も魔力も最低。職業は《無職》。




そんな神谷悠真は、百人の死んだ英雄たちに教わりながら、少しずつ強くなってきました。




けれど、もし勇者の強さが、誰かから受け継がされるものだったとしたら?




受け継ぐのは、剣の技なのか。




戦いの経験なのか。




それとも、他人の記憶や想いまでなのか。




百人の先生たちが一斉に苦しみ、百一人目の勇者ゼルが初めて本気で悠真を止めた理由。




そして、百年前の記録に残された《百二人目》の謎。




その答えを求め、悠真とセレスは《勇者継承機構》の真相へ踏み込んでいきます。




しかし、真実に近づくことが、大切な人を守ることにつながるとは限りません。




先生の答えを信じるのか。




自分自身で答えを選ぶのか。




そして、誰かの過去を受け継いだあとも、自分は自分でいられるのか。




第7部『勇者継承機構編』。




これは、最弱だった少年が、強さの秘密ではなく、**「自分自身であり続ける意味」**を問い始める物語です。




悠真とセレス、そして百一人の先生たちが迎える新たな試練。




ぜひ、最後まで見届けてください。

一番優しい先生が、答えなかった理由

『僕は、勇者になることを拒否したわけじゃない』

ゼル先生が、ようやく口を開いた。

……え?

俺は、目を見開いた。

目の前には、古い《適合者名簿》。

そこには、確かに記されている。

《第百一勇者 ゼル》

そして。

その名前の横に残された、たった四文字。

《継承拒否》

「……じゃあ、先生は」

俺は、思わず身を乗り出した。

「勇者になったあとで、何かを拒んだんですか?」

ゼル先生は、答えなかった。

「……何を拒んだんですか?」

沈黙。

「それって、《勇者継承機構》と関係があるんですか?」

先生は、俺を見つめたまま、動かなかった。

……どうして。

そこまで教えてくれたのに。

一番知りたいことは、教えてくれないんだ?

「……ゼル先生」

声が、少し震えた。

「それなら、なぜ俺には教えてくれないんですか?」

先生の目が、わずかに揺れた。

俺は、言葉を止められなかった。

「俺、先生を信じてるんです」

いつも穏やかに笑って。

剣も魔法も使えなかった俺に、何度も問いかけてくれた人。

『悠真は、どう思う?』

先生は、いつだってそう言った。

答えを押しつけず。

俺自身に、考えさせてくれた。

だから。

俺は、少しずつ変われた。

でも。

「……先生が何か知っているのに、黙っているなら」

俺は、拳を握った。

「俺は、何を信じて調べればいいんですか?」

ゼル先生は、何も言わなかった。

その沈黙が、腹立たしかった。

……違う。

怒っているだけじゃない。

怖いんだ。

一番信じていた先生が。

俺の知らない何かを、抱えていることが。

そして。

その何かが、俺自身に関係しているかもしれないことが。

俺は、もう一度名簿を見た。

《継承拒否》

先生は、勇者になることを拒まなかった。

なら。

拒んだのは、その先にある何かだ。

……でも。

それが何なのかは、まだ分からない。

俺は、ゆっくりと息を吸った。

昨日。

《勇者継承機構》の扉に触れたあと。

俺は、決めた。

先生が答えを知っていたとしても。

まず、自分たちで調べようと。

あの決意を、今ここで捨てるわけにはいかない。

「……分かりました」

俺は、顔を上げた。

「先生が教えてくれないなら、俺たちで調べます」

ゼル先生は、俺を見つめていた。

「でも」

俺は、続けた。

「何もなかったことには、しませんから」

先生の表情が、ほんの少し変わった。

悲しそうな。

それでいて。

どこか、安心したような顔だった。

……何なんだよ。

そんな顔をされたら。

余計に、聞けなくなるじゃないか。

「……悠真?」

隣から、セレスの声がした。

俺は、振り返った。

「……何?」

「さっきから、ずいぶん難しい顔をしているわ」

「あ……うん」

「先生と話していたの?」

俺は、頷いた。

セレスには、ゼル先生の姿も声も、直接は分からない。

だから。

俺が聞いたことを、できるだけ正確に伝えた。

「……ゼル先生が言ったんだ」

「何て?」

「勇者になることを拒否したわけじゃない、って」

彼女の表情が引き締まった。

「……それだけ?」

「……うん」

「ほかには?」

俺は、首を横に振った。

「……何も」

セレスは、机の上に置かれた名簿へ視線を戻した。

「なら、一つだけ分かったわね」

「……一つ?」

「《継承拒否》は、勇者になること自体を拒んだという意味ではない」

俺は、名簿を見た。

「……じゃあ」

「勇者として認定されたあとで、別の何かを継ぐ段階があった可能性があるわ」

……そうか。

勇者になること。

勇者として、何かを受け継ぐこと。

その二つが、別のものだったとしたら。

ゼル先生は。

勇者になったあとで。

何かを拒んだのかもしれない。

「……セレス」

「何?」

「それって、危険なものだったのかな」

彼女は、すぐには答えなかった。

「分からないわ」

「……でも」

「危険だったから拒んだのかもしれない。でも、本人が望まなかっただけかもしれないでしょう?」

……あ。

そうだ。

拒否する理由は、危険だからとは限らない。

俺が、誰かの答えに従いたくないと思ったことがあるように。

ゼル先生にも。

自分で選びたかった何かが、あったのかもしれない。

セレスは、紙に三つの項目を書いた。

《確認できたこと》

《推測できること》

《まだ分からないこと》

そして。

一番上へ、書き加えた。

《ゼルは勇者になることを拒否していない》

……たった一行。

でも。

昨日までには、なかった答えだ。

「……一つだけ、進んだな」

俺が呟くと。

セレスは、小さく頷いた。

「ええ」

それから、俺を見た。

「でも、ここから先は慎重に調べましょう」

「……うん」

「あなた、分からないことがあると、すぐ確かめに行こうとするから」

「……そんなことないぞ?」

セレスが、無言で俺を見た。

……昨日。

古代施設で。

自分から、あの石扉に触れた。

その結果。

百人の先生たちが、一斉に苦しみ始めた。

俺も、知らない戦場の記憶を見て倒れかけた。

……うん。

何も言い返せない。

「……すみません」

「分かればいいのよ」

彼女は、静かに資料を閉じた。

俺は、もう一度ゼル先生を見た。

先生は、少し離れたところに立っていた。

昔と同じ。

穏やかな、黒髪の青年。

だけど。

今の俺には。

その優しさが、少しだけ怖かった。


勇者になった、その先にあるもの

「……認定と継承は、別の記録になっているのね」

夕方。

俺とセレスは、学院の資料室で調査を続けていた。

机の上には、王国の勇者認定に関する資料と、古い《適合者名簿》の写し。

学院長と王国の担当官が、閲覧できる範囲を確認してくれたものだ。

《勇者継承機構》への再接触は、まだ許可されていない。

当然だと思う。

昨日の異変が、何だったのか。

まだ分かっていないのだから。

「……悠真」

セレスが、資料を指さした。

「ここを見て」

「……どこ?」

「勇者として認定された記録と、《適合者名簿》の項目が違うでしょう?」

俺は、二枚を見比べた。

……確かに。

勇者認定の記録には、勇者としての立場が記されている。

でも。

《適合者名簿》には、別の情報が並んでいた。

その中に。

ゼル先生の《継承拒否》がある。

「……勇者になった人が、全員継承したわけじゃないってこと?」

「そうだった可能性はあるわ。ただ、まだ確定できない」

セレスは、記録の一部を指でなぞった。

「昨日見つけた《記録》《適合》《継承》という三つの言葉も、関係しているのかもしれない」

……三段階。

昨日。

俺たちは、その仕組みがあったらしい痕跡を見つけた。

でも。

それぞれが何をする段階なのか。

どうつながっているのか。

まだ、全部は分かっていない。

「……なあ、セレス」

「何?」

「勇者ってさ」

俺は、少し考えてから聞いた。

「勇者になったら、それで終わりじゃないのか?」

彼女は、顔を上げた。

「……どういう意味?」

「いや、俺さ。ずっと、勇者になることが目標だと思ってたんだ」

魔法も使えない。

剣も下手。

職業鑑定では、《無職》。

そんな俺が。

百人の先生たちに教えてもらって。

少しずつ強くなって。

いつか。

誰かを守れる勇者になる。

それが、俺の目指していた未来だった。

でも。

もし。

勇者になったあとに。

何かを継承する段階があるのだとしたら。

「……勇者って、何なんだろうな」

思わず、呟いた。

セレスは、しばらく黙っていた。

それから。

「少なくとも、王国が認定する勇者と、人々が英雄と呼ぶ存在は、同じ意味とは限らないわ」

……そうだ。

それは、これまでの調査でも分かってきた。

百人の先生たち全員が。

正式に勇者と認定されていたとは限らない。

それでも。

俺にとっては、間違いなく英雄だ。

「……じゃあ」

俺は、資料へ目を落とした。

「勇者として認められたあと、別の何かを受け取る人もいたのかもしれないんだな」

「ええ。その可能性はあるわ」

セレスが頷いた。

その時。

王国の担当官が、古い資料を一冊持ち上げた。

「神谷殿、セレス殿。この時代の用語には、現在と意味が異なるものもあります」

「……はい」

「ですから、まだ確認できていない解釈は、確定した事実として扱わないようお願いします」

セレスは、すぐに頷いた。

「もちろんです」

俺も、頭を下げた。

「……ありがとうございます」

担当官は、少し意外そうな顔をした。

「……何がでしょう?」

「調べさせてもらっていることです」

俺は、正直に答えた。

「王国にとって、都合の悪いことが出てくるかもしれないのに」

担当官は、しばらく俺を見ていた。

それから。

「古い記録を正しく残すことと、都合のよい答えを作ることは違いますから」

そう答えた。

……あ。

俺は、少しだけ驚いた。

王国の人間なら。

みんな、勇者制度を守りたいと思っている。

どこかで、そんなふうに考えていた。

でも。

この人は、この人で。

記録を守ろうとしている。

俺たちと、立場は違う。

それでも。

本当のことを知りたい気持ちは、同じなのかもしれない。

「……分かりました」

俺は、頷いた。

王国が全部悪い。

勇者制度が全部間違っている。

そんな簡単な話じゃない。

だからこそ。

俺たちは、確かめなければならない。

誰かが決めた正解ではなく。

自分たちが納得できる答えを。

その時だった。

『……悠真』

背後から、低い声がした。

ガルディオ先生だった。

いつもなら、豪快に笑っている剣聖。

その先生が。

古い資料を、じっと見つめていた。

『……妙だな』

「……何が?」

『その《継承》って言葉だ』

先生は、腕を組んだ。

『どこかで、聞いた気がする』

俺は、息を止めた。

「……先生?」

ガルディオ先生は、眉を寄せた。

『……いや』

その声は。

いつもの先生とは、少し違っていた。

『聞いたっていうより……』

先生が、言葉を探す。

『……俺も、そこにいた気がするんだ』

……そこ?

いったい。

どこに?


百人の先生が、思い出せない部屋

『……石の壁だった』

ガルディオ先生が、ぽつりと言った。

俺は、思わず顔を上げた。

「……石の壁?」

『ああ』

先生は、目を閉じた。

『窓がなかった。たぶん、地下だ』

「……地下?」

『そこまでは分からねえ。だが、外の景色は見えなかった』

……待て。

石の壁。

窓のない部屋。

それって。

《勇者継承機構》の内部に、似ていないか?

「……先生!」

俺は、身を乗り出した。

「そこに、何があったんですか?」

『……分からねえ』

「……え?」

『何をしに入ったのか、思い出せねえんだ』

先生は、苦々しそうに笑った。

『情けねえ話だろ?』

……情けない?

あのガルディオ先生が?

無数の戦場を生き抜いた剣聖が。

自分の経験を、思い出せない?

「……誰かと一緒だったんですか?」

先生は、しばらく黙った。

『……いた気がする』

「……誰が?」

『分からねえ』

『名前は?』

『それもだ』

先生は、拳を握った。

『誰かが隣にいた。その感じだけが残ってる』

俺は、言葉を失った。

人の顔も。

名前も。

何をしたのかも。

思い出せない。

それなのに。

誰かがいたことだけ、覚えている。

『……ガルディオ』

静かな声がした。

エレノア先生だった。

『その部屋のこと、もう少し話して』

『……何だよ』

『私にも、覚えがあるかもしれない』

……え?

俺は、振り返った。

「……エレノア先生も?」

『ええ』

先生は、少し考え込んだ。

『石の壁。窓のない部屋。そして……』

言葉が止まる。

『……床に、線があった』

「……線?」

『何かの模様だったと思うわ』

……模様。

俺は、昨日見た光景を思い出した。

《勇者継承機構》の内部。

床に刻まれた古い魔法陣。

壁に並んだ百一個の紋章。

そして、刻印のない席。

「……先生、それって魔法陣ですか?」

『分からないわ』

エレノア先生は、首を横に振った。

『似たものだったかもしれない。でも、何の線だったのかまでは思い出せない』

……まただ。

ガルディオ先生も。

エレノア先生も。

何かを覚えている。

でも。

肝心な部分だけが、抜け落ちている。

その時。

『……扉だ』

短い声がした。

クロウ先生だった。

「……クロウ先生?」

暗殺王は、腕を組んだまま答えた。

『重い扉が閉まる音を覚えている』

俺は、息を呑んだ。

「……どこの扉ですか?」

『知らん』

「……誰が閉めたんですか?」

『覚えていない』

「……そのあと、どうなったんですか?」

沈黙。

クロウ先生は、少しだけ目を伏せた。

『……分からん』

……あのクロウ先生が。

逃げ道を見つけることなら、誰よりも冷静な先生が。

何も答えられない。

『ただ』

先生が、静かに続けた。

『あの音は……嫌いだ』

俺は、顔を上げた。

「……怖かったんですか?」

クロウ先生は、答えなかった。

でも。

否定もしなかった。

俺は、三人を見つめた。

ガルディオ先生。

エレノア先生。

クロウ先生。

三人が、石で囲まれた部屋を思い出している。

けれど。

本当に同じ部屋だったのか。

同じ時に入ったのか。

そこで何をしたのか。

それは、分からない。

……でも。

偶然にしては、似すぎていないか?

「……セレス」

俺は、すぐに彼女へ伝えた。

三人の先生が思い出したこと。

覚えているもの。

覚えていないもの。

そして。

ガルディオ先生が、誰かと一緒だった気がすると言っていること。

セレスは、何も言わずに聞いていた。

俺が話し終えると。

彼女は、新しい紙を広げた。

「……別々に記録しましょう」

「……別々?」

「ええ」

彼女は、三つの欄を作った。

《ガルディオ》

《石壁・窓のない部屋・同席者の感覚》

《エレノア》

《石壁・床の模様》

《クロウ》

《重い扉が閉まる音》

俺は、その文字を見た。

「……これ、同じ部屋じゃないのか?」

セレスは、首を横に振った。

「まだ、そうとは言えないわ」

「……でも、似てるだろ?」

「ええ。だから、調べる価値がある」

彼女は、一番下に書き加えた。

《共通する場所の記憶である可能性》

《同一の出来事かは未確認》

……あ。

そうだった。

似ていることと。

同じであることは、違う。

俺は、もう一度先生たちを見た。

ガルディオ先生は、まだ腕を組んでいる。

エレノア先生は、何かを思い出そうとしていた。

クロウ先生は、黙って目を閉じていた。

……何だろう。

今まで。

先生たちは、俺より何でも知っていると思っていた。

剣も。

魔法も。

戦い方も。

生き方も。

でも。

今は。

先生たち自身が、分からないことを抱えている。

それも。

自分の過去について。

「……ガルディオ先生」

俺は、静かに呼んだ。

『……何だ?』

「無理に思い出さなくてもいいです」

先生は、俺を見た。

「思い出せないなら、今はそれでいいです」

『……お前』

「でも、調べます」

俺は、続けた。

「先生たちが何を経験したのか。俺たちも、一緒に考えます」

ガルディオ先生は、しばらく俺を見つめていた。

それから。

『……はっ』

小さく笑った。

『弟子に心配されるとはな』

「……いつも心配させられてますから」

『言うようになったじゃねえか』

いつもの豪快な笑い声。

……よかった。

俺も、少しだけ笑った。

でも。

先生が笑い終えたあと。

ほんの一瞬だけ。

自分の手を見つめていたことに、俺は気づいていた。

まるで。

その手が何をしてきたのか。

確かめるように。


消されたのではなく、与えられた記憶

……おかしい。

資料室を出る前。

俺は、もう一度セレスの記録を見ていた。

三人の先生。

三つの断片。

それぞれが、何かを覚えている。

でも。

何かが、抜けている。

最初。

俺は、記憶を消されたのかもしれないと思った。

誰かが。

先生たちの過去の一部を。

意図的に、消した。

だけど。

……本当に、それだけなのか?

俺は、自分の右手を見た。

昨日。

知らない戦場を夢に見た。

泥。

血。

壊れた石橋。

剣を握る手。

そして。

目の前で倒れた、名前も知らない誰か。

あの人を。

どうしても助けたかった。

失いたくなかった。

自分の経験ではないはずなのに。

その恐怖だけは、間違いなく本物だった。

……待て。

俺は、顔を上げた。

「……セレス」

「何?」

「一つ、変なことを考えた」

「あなたがそう言う時は、大抵、本当に変なことね」

「……ひどくない?」

「聞くだけは聞くわ」

……聞くだけかよ。

俺は、苦笑した。

でも。

すぐに真顔へ戻った。

「……先生たちの記憶なんだけど」

「……ええ」

「消されたんじゃないのかもしれない」

セレスが、手を止めた。

「……どういう意味?」

俺は、ゆっくりと言った。

「……別の記憶を、入れられたんじゃないか?」

彼女の表情が変わった。

俺は、続けた。

「俺は、知らない戦場を見た」

「……ええ」

「戦ったこともない場所なのに、剣の重さが分かった」

……もちろん。

剣技を再現しようとして、見事に転んだけど。

それでも。

記憶の中では。

確かに、自分が戦っているように感じた。

「……誰かの経験が、自分のものみたいに感じられることがあるなら」

俺は、先生たちを見た。

「……先生たちにも、同じことが起きた可能性があるんじゃないか?」

沈黙。

ガルディオ先生が、笑うのをやめた。

エレノア先生も。

クロウ先生も。

何も言わなかった。

俺は、言葉を続けた。

「もし、誰かの記憶を受け取っていたら」

喉が、少し乾いた。

「……自分の経験と、区別できるのかな」

言ってから。

背中が冷たくなった。

……何を言ってるんだ、俺は。

先生たちは。

百人の英雄だ。

自分の人生を生きて。

戦って。

失敗して。

誰かを守ってきた人たちだ。

その経験を。

俺に教えてくれている。

なのに。

もし。

先生たちが覚えている過去の一部さえ。

本当は、別の誰かのものだったとしたら。

……先生たちは。

いったい、何を信じればいいんだ?

『……悠真』

ガルディオ先生が、低い声で呼んだ。

俺は、振り返った。

『お前は、どう思う?』

……え?

先生が、続けた。

『俺が教えた剣は、誰の剣だ?』

……誰の?

「……先生の剣ですよ」

俺は、答えた。

でも。

先生は、首を傾げた。

『俺が覚えてることが、全部俺の経験だとは限らねえんだろ?』

……あ。

俺は、言葉に詰まった。

自分で考えた仮説。

なのに。

先生から問い返されると。

何も答えられない。

『だったら、俺がお前に教えたことも』

ガルディオ先生は、少しだけ笑った。

『本当に、俺の教えだったのか分からねえな』

……先生。

その言葉が。

胸に刺さった。

俺は、拳を握った。

「……違います」

思わず、声が出た。

先生が、俺を見た。

「俺が教わったのは、先生からです」

『……お前』

「最初に剣を握った時も」

俺は、続けた。

「十秒生きろって言われた時も」

学院の模擬戦。

勝つことばかり考えていた俺に。

先生は、教えてくれた。

『勝とうとするな』

『十秒生きろ』

あの言葉がなかったら。

俺は、最初の一撃で倒れていたかもしれない。

「先生が、俺に教えてくれたんです」

俺は、まっすぐ先生を見た。

「そのことは、変わりません」

ガルディオ先生は、黙っていた。

「先生の記憶が、どこから来たものだったとしても」

一度、息を吸った。

「俺を助けてくれたのは、先生です」

……そうだ。

先生たちの過去が、どうなっていたとしても。

俺が教わった時間まで。

なかったことにはならない。

ガルディオ先生は、しばらく俺を見つめていた。

そして。

『……馬鹿弟子が』

小さく笑った。

『まだ、俺の記憶が変だと決まったわけじゃねえだろ』

「……あ」

……そうだった。

また、先走った。

『だが』

先生が、続けた。

『今の言葉は、悪くなかったぜ』

……先生。

胸の奥が、少しだけ熱くなった。

その時。

「……悠真」

セレスが、声をかけた。

俺は、振り返った。

「……何?」

「今の考え、記録しておきましょう」

「……うん」

彼女は、紙に書き込んだ。

《記憶が失われた可能性》

《別の記憶が与えられた可能性》

そして。

その下に。

《いずれも証拠不足》

「……まだ仮説よ」

セレスは、はっきりと言った。

俺は、頷いた。

「……分かってる」

「でも、調べる価値はあるわ」

彼女は、続けた。

「その二つは、両立するもの」

……あ。

俺は、少しだけ笑った。

……そうだな。

全部分かったふりをしなくていい。

全部間違っていると決めつけなくてもいい。

証拠を集めて。

考えて。

必要なら、自分の考えを変える。

それでいいんだ。

……でも。

一つだけ。

気になっていることがあった。

俺は、部屋の奥を見た。

そこには。

ゼル先生がいた。

先生は、ずっと黙っていた。

ガルディオ先生が記憶を思い出しかけても。

エレノア先生が戸惑っても。

クロウ先生が恐怖を口にしても。

何も言わなかった。

……ゼル先生。

先生は。

みんなの記憶についても。

何か知っているんですか?

俺は、聞かなかった。

聞けば。

また、先生に答えを求めてしまう。

そして。

先生が黙ったら。

きっと、また腹が立つ。

……そんな自分が。

少しだけ、嫌だった。


「セレスには、全部知っていてほしい」

「……まだ続けるの?」

深夜。

学院の資料室には、俺とセレスが残っていた。

担当官から閲覧を許された資料の写しを整理し、明日調べる項目をまとめている。

机の上には、紙の山。

俺の読みにくいメモ。

そして。

セレスが作った、きれいな一覧表。

……同じ作業をしているはずなのに。

どうして、こうも差がつくんだろう。

「……あと少し」

俺が答えると。

セレスは、手を止めた。

「それ、さっきも言っていたわ」

「……そうだっけ?」

「ええ」

「……じゃあ、あと少しの、あと少し」

「増えているじゃない」

……確かに。

彼女は、小さくため息をついた。

「悠真。昨日、あなたは倒れかけたのよ」

「……うん」

「今日だって、まだ無理をしないほうがいいでしょう?」

「……分かってる」

「本当に?」

「……たぶん」

「たぶんじゃ駄目」

……厳しい。

でも。

その声には、昨日より少しだけ。

心配する気持ちが、はっきり表れていた。

俺は、彼女を見た。

窓から差し込む月明かり。

机の上に置かれた資料。

そして。

その向こうにいるセレス。

昨日。

俺が悪夢から目を覚ました時。

彼女は、医務室の椅子に座っていた。

一晩中。

俺が一人にならないように。

そばにいてくれた。

『一人にしないって決めたから』

あの言葉が。

まだ、胸に残っている。

「……セレス」

「何?」

俺は、少し迷ってから口を開いた。

「……俺、最近ずっと怖いんだ」

彼女が、顔を上げた。

「……何が?」

「自分のことが、分からなくなるのが」

……あ。

口に出してから。

初めて気づいた。

俺は、そんなことを怖がっていたのか。

勇者になれないことじゃない。

強くなれないことでもない。

自分が。

何者なのか。

分からなくなること。

俺は、右手を見た。

「昨日、知らない戦場を見た時さ」

「……ええ」

「俺、あの兵士を助けたかった」

セレスは、静かに聞いていた。

「顔も知らない。名前も知らない。会ったこともない」

俺は、拳を握った。

「それなのに、本当に失いたくなかったんだ」

……あの恐怖。

思い出すだけで、胸が苦しくなる。

「……自分の気持ちなのか、誰かの気持ちなのか」

俺は、呟いた。

「分からなくなった」

セレスは、すぐには答えなかった。

それから。

「……怖かったでしょうね」

静かに言った。

俺は、頷いた。

「……うん」

「でも、今はここにいるわ」

彼女は、俺を見つめた。

「あなたは、神谷悠真よ」

……神谷悠真。

日本から、異世界へ来た。

剣も魔法も使えない。

学院史上最低の《無職》。

先生が百人もいるのに。

いつも、失敗ばかりしている勇者候補。

……それが、俺だ。

「……そうだな」

俺は、小さく笑った。

でも。

すぐに、笑えなくなった。

「……セレス」

「何?」

俺は、彼女をまっすぐ見た。

「俺、セレスには、全部知っていてほしい」

彼女の手が止まった。

「……全部?」

「……うん」

俺は、頷いた。

「俺が何を見たのか。何を考えたのか。何が怖かったのか」

言葉が、少しずつ出てきた。

「先生たちのことも。俺がこれから、何を調べるのかも」

セレスは、何も言わなかった。

「……隠したくないんだ」

俺は、続けた。

「セレスだけには」

……あ。

言ってから。

急に、顔が熱くなった。

……待て。

今の言い方。

何か、変じゃなかったか?

「……どうして?」

セレスが、静かに聞いた。

俺は、言葉に詰まった。

どうして?

そんなの。

分かっているような気がした。

でも。

言葉にしようとすると。

急に、難しくなる。

「……うまく言えない」

正直に答えた。

「……そう」

彼女は、視線を落とした。

……まずい。

変なことを言ったか?

俺は、慌てて続けた。

「いや、変な意味じゃなくて!」

「……変な意味?」

「……いや、その」

……墓穴を掘った。

完全に。

『……黙れ、悠真』

クロウ先生の声がした。

……先生。

今だけは、正しいと思います。

俺は、深く息を吸った。

それから。

もう一度、セレスを見た。

「……何かあった時」

「……ええ」

「セレスだけは、知らなかったってことにしたくない」

彼女が、顔を上げた。

「……俺が何を考えて、何を選んだのか」

俺は、続けた。

「ちゃんと、知っていてほしいんだ」

静かな資料室。

窓の外では、風が鳴っていた。

セレスは、しばらく何も言わなかった。

そして。

「……悠真」

小さく、俺の名前を呼んだ。

「……何?」

彼女は、机の上に置かれた自分の手を見た。

指先が、少しだけ動いた。

「……それは」

言葉が止まる。

いつも。

どんな難しい資料でも。

迷わず読み解く彼女が。

今は、答えを探していた。

「……嬉しいわ」

ようやく、そう言った。

……え?

俺は、息を止めた。

「……本当?」

「ええ」

彼女は、小さく頷いた。

でも。

次の瞬間。

その表情が変わった。

「……ただし」

……ただし?

嫌な予感がした。

「……何?」

セレスは、まっすぐ俺を見た。

「だったら、勝手に一人で決めないで」

……え?

俺は、言葉を失った。

彼女は、続けた。

「全部知っていてほしいと言うなら」

「……うん」

「決めたあとじゃなくて、決める前に話して」

その声は、静かだった。

でも。

いつもより、ずっと強かった。

「危険なことをしたあとで、説明されても」

彼女は、一度言葉を止めた。

「……私は、何もできないでしょう?」

……あ。

胸の奥が、痛くなった。

昨日。

俺は、一人で決めた。

《勇者継承機構》の扉に触れることを。

何が起きるか分からないまま。

自分なら、何かを確かめられると思って。

その結果。

百人の先生たちが苦しんだ。

俺も、倒れかけた。

そして。

セレスは、一晩中そばにいてくれた。

……そうだ。

彼女は。

俺が何を考えていたのか、全部知っていたわけじゃない。

何が起きるか分からないまま。

俺が倒れかけるところを、見ていたんだ。

「……ごめん」

俺は、静かに言った。

セレスは、首を横に振った。

「謝ってほしいわけじゃないの」

「……うん」

「あなたが知りたいと思う気持ちは、分かる」

彼女は、続けた。

「私だって、知りたいもの」

……セレス。

「でも」

彼女の声が、少しだけ震えた。

「あなたが危険なことをするたびに、私は何もできずに見ているしかないの?」

……あ。

俺は、顔を上げた。

セレスは、すぐに視線を逸らした。

でも。

もう、遅かった。

彼女が。

本当に怖がっていることに。

気づいてしまった。

幼い頃。

大切な姉を、魔物に奪われた人。

強くなれば。

もう誰も失わずに済むと、信じてきた人。

その彼女に。

俺は、また。

誰かを失うかもしれない恐怖を、味わわせている。

「……セレス」

俺は、ゆっくりと言った。

「次からは、ちゃんと話す」

彼女が、こちらを見た。

「……本当に?」

「……うん」

「危険だと思った時も?」

俺は、少しだけ黙った。

……危険だと思った時。

もし。

俺にしかできないことがあったら。

その時は。

どうするんだろう。

先生たちが苦しんでいて。

誰かが助けを求めていて。

俺だけが、何かを確かめられるとしたら。

……その時も。

ちゃんと相談できるだろうか。

俺は、すぐには答えられなかった。

セレスは、そんな俺を見ていた。

「……悠真」

「……うん」

「約束して」

彼女は、静かに言った。

「一人で全部背負おうとしないって」

俺は、彼女を見つめた。

その目は、真剣だった。

……分かった。

俺は、頷いた。

「……約束する」

セレスは、しばらく俺を見ていた。

それから。

ようやく、小さく笑った。

「……なら、いいわ」

……よかった。

俺も、少しだけ笑った。

でも。

その約束をした瞬間。

胸の奥に、小さな不安が残った。

……もし。

本当に俺にしかできないことがあったら。

その時。

俺は、どうするんだろう。

……いや。

今は、考えすぎだ。

俺は、首を振った。

「……セレス」

「何?」

「……ありがとう」

彼女が、少し驚いた顔をした。

「……昨日も言っていたわね」

「……そうだっけ?」

「ええ」

彼女は、小さく笑った。

「でも、何度聞いても悪くないわ」

……あ。

胸が、跳ねた。

その時。

『……ほう』

ガルディオ先生の声がした。

……嫌な予感。

『いい雰囲気じゃねえか』

「先生!?」

『今なら言えるぞ、悠真!』

「何を!?」

『そりゃお前……』

『ガルディオ』

エレノア先生が、冷たい声を出した。

『余計なことを言うのはやめなさい』

……助かった。

さすが、エレノア先生。

『こういう場面は、本人に考えさせるべきでしょう』

「先生もそっち!?」

セレスが、首を傾げた。

「……悠真?」

「……何でもない」

『青春だなあ!』

「ガルディオ先生、黙って!」

「……誰と話しているの?」

「……人生の先輩たちと!」

セレスは、困ったように笑った。

俺も、つられて笑った。

……よかった。

まだ。

こんなふうに笑える。

分からないことは、山ほどある。

怖いことも。

不安なことも。

全部、残っている。

でも。

今。

俺の隣には、セレスがいる。

そのことだけは。

誰かから受け継いだ記憶じゃない。

俺自身が、知っていることだった。


名前のない継承候補

「……これで、最後ね」

セレスが、資料をまとめた。

机の上には、明日調べる項目を記した紙と、古い記録の写しが並んでいる。

俺は、椅子から立ち上がった。

「……やっと終わった」

「あなたが途中で余計なことを考えるからでしょう?」

「……余計なことって」

「古代施設へもう一度行くこととか」

……ばれてる。

「……顔に書いてあった?」

「ええ」

……俺の顔。

そんなに分かりやすいのか。

俺は、苦笑した。

その時。

机の端に、薄い紙が一枚残っていることに気づいた。

「……あれ?」

「どうしたの?」

「これ、まだ見てないんじゃないか?」

俺は、紙を持ち上げた。

《適合者名簿》と一緒に渡された、古い記録の写し。

ほかの資料に挟まれていて、まだ内容を確認していなかった。

「……セレス」

「何?」

「これ、読める?」

彼女は、紙を受け取った。

古い文字。

かすれた線。

一部は、ほとんど読めなくなっている。

セレスは、目を細めた。

「……ここは」

指先が、一つの文字の上で止まった。

「《継承》と読めるわ」

……継承。

俺は、身を乗り出した。

「……その下は?」

「少し待って」

彼女は、慎重に文字を追った。

「……《候補》」

……候補?

「……《継承候補》?」

セレスは、頷いた。

「ええ。そう読めるわ」

俺は、紙を見つめた。

《継承候補》

……勇者候補じゃない。

継承候補。

「……セレス」

「何?」

「これって、勇者候補とは違うのかな」

彼女は、少し考えた。

「まだ分からないわ。表現が違う理由も、確認が必要ね」

……そうだな。

でも。

気になる。

勇者として認められること。

そして。

何かを継承すること。

もし。

その二つが別なら。

継承候補という言葉には。

別の意味があるのかもしれない。

俺は、もう一度資料を見た。

「……ほかには?」

セレスは、下の文字を追った。

そして。

小さく息を呑んだ。

「……悠真」

「……何?」

「ここにも、《適合》という言葉がある」

……適合。

昨日。

《勇者継承機構》の仕組みを調べる中で、見つけた言葉。

《記録》

《適合》

《継承》

その一つだ。

「……次は?」

俺が聞くと。

セレスは、指先を止めた。

「……《確認中》」

……え?

俺は、聞き返した。

「……確認中?」

「ええ」

彼女は、ゆっくりと頷いた。

「この部分は、そう読めると思う」

俺は、紙を見た。

《継承候補》

《適合確認中》

……どういうことだ?

何かを継承する候補。

その適合を、確認している。

……誰の?

俺は、紙の下へ目を移した。

そこには。

もう一つ、欄があった。

「……セレス」

「何?」

「ここ、名前を書くところじゃないか?」

彼女は、紙を近づけた。

「……そう見えるわね」

「……じゃあ、名前は?」

セレスは、黙った。

俺も、目を凝らした。

古い文字。

かすれた線。

でも。

その欄だけは。

何も書かれていなかった。

「……空欄?」

俺が呟くと。

セレスは、小さく頷いた。

「ええ」

……何で?

継承候補。

適合確認中。

なのに。

対象者の名前がない。

「……消されたのかな」

俺が言うと。

セレスは、首を横に振った。

「まだ、そうとは言えないわ」

「……でも」

「最初から空欄だった可能性もあるし、記入前の資料だったのかもしれない」

……そうか。

名前がないからといって。

誰かが消したとは限らない。

そもそも。

これが、いつの記録なのかも分からない。

今も何かを確認しているという意味とは限らない。

ただ。

俺は。

一つの光景を思い出していた。

昨日。

《勇者継承機構》の内部で見たもの。

百一個の古い紋章。

そして。

刻印のない席が一つ。

……あの席。

俺が見つけた時。

誰のものなのか、分からなかった。

今も、分からない。

なのに。

目の前の紙にも。

名前のない欄がある。

……偶然なのか?

俺は、右手を握った。

あの扉に触れた時。

百人の先生たちが苦しみ始めた。

そして。

俺は、知らない戦場の記憶を見た。

自分のものではないはずの恐怖。

自分のものではないはずの剣。

それなのに。

あの時。

俺は、確かに誰かを守ろうとしていた。

「……悠真?」

セレスが、俺を呼んだ。

「……何?」

「大丈夫?」

俺は、彼女を見た。

心配そうな顔。

でも。

今は。

隠したくなかった。

さっき、約束したから。

「……セレス」

「……ええ」

「俺、怖い」

彼女の表情が変わった。

「……何が?」

俺は、紙を見た。

「……もし、この候補っていうのが」

言葉が、途中で止まった。

……違う。

証拠はない。

俺の名前なんか、どこにも書かれていない。

でも。

どうしても。

考えてしまう。

「……俺だったら」

セレスは、何も言わなかった。

俺は、続けた。

「もちろん、まだ何も分からない」

「……ええ」

「でも、あの機構が俺に反応したのは、本当だ」

「……そうね」

「知らない戦場も見た」

俺は、右手を見た。

「……もし、俺が何かを継承する候補だったら」

その先を。

言えなかった。

何を受け継ぐのか。

誰の記憶なのか。

それを受け取った時。

自分が、どうなるのか。

何も分からない。

セレスは、しばらく俺を見つめていた。

それから。

「……悠真」

静かに、呼んだ。

「……うん」

「まだ、あなたが候補だと決まったわけじゃないわ」

「……分かってる」

「だから、今は答えを急がなくていい」

……そうだ。

俺たちは、まだ何も知らない。

それでも。

俺は、紙から目を離せなかった。

その時。

ふと、視線を感じた。

部屋の奥。

ゼル先生が、こちらを見ていた。

百一人目の勇者。

《継承拒否》と記録された先生。

先生は、何も言わなかった。

俺も、聞かなかった。

……聞けば。

きっと、また答えを求めてしまう。

だから。

俺は、セレスへ向き直った。

「……この資料、明日もう一度調べよう」

彼女は、頷いた。

「ええ」

「ほかの記録と照らし合わせれば、何か分かるかもしれない」

「そうね」

俺は、紙を机へ戻した。

……これでいい。

今は、これでいい。

分からないことを。

分からないまま記録する。

そこから、調べる。

勝手に答えを決めない。

俺は、そう決めた。

でも。

最後に。

どうしても、もう一度だけ。

その空欄を見てしまった。

《継承候補 適合確認中》

対象者の名前を書く欄。

そこには、何も書かれていなかった。

なのに俺は、考えてしまった。

……もし、ここに俺の名前が入ったら。

その時、俺はまだ、俺のままでいられるのか?

第63話 完


次回予告

第7部『勇者継承機構編』

次回 第4話/通算第64話

「勇者になると、自分じゃなくなるんですか?」

百一人目の勇者ゼルが拒んだ《継承》。

一部の記憶を思い出せない百英雄。

そして。

名前のない《継承候補》。

悠真とセレスは、古い勇者候補の記録をさらに調べ始める。

そこで見つけた、一冊の日記。

記されていたのは。

勇者として認定されたあとに起きた、奇妙な変化だった。

言葉遣い。

好み。

そして、恐怖。

その人が、その人でなくなっていくような記録。

「……俺が選んでると思ってたことまで、先生たちの記憶だったら?」

悠真の問いに、セレスはどう答えるのか。

誰かの経験を受け継ぐことは、強くなることなのか。

それとも。

自分自身を失うことなのか。

次回、勇者の強さの裏側に隠された、新たな疑問へ。



あなたなら、歴代勇者の経験と記憶を受け継げるとしたら、その力を選びますか?

それとも、自分自身が変わってしまうかもしれないなら、拒みますか?

ぜひ、感想や今後の展開予想をコメントで教えてください。


作者より

第63話をお読みいただき、ありがとうございます。

今回は、ゼル先生の《継承拒否》をきっかけに、勇者として認められることと、何かを受け継ぐことの違いへ踏み込む物語でした。

百人の先生たちは、これまで悠真に多くのことを教えてきました。

しかし今回、先生たち自身が、自分の過去について疑問を抱き始めます。

自分が覚えていることは、本当に自分の経験なのか。

もし、それが誰かから与えられた記憶だったとしたら。

自分自身の人生は、どこにあるのでしょうか。

一方、悠真とセレスの関係も、少しだけ進みました。

「セレスには、全部知っていてほしい」

その言葉は、秘密を共有するだけではなく、これからの選択にも相手に関わってほしいという、悠真の気持ちの変化を表しています。

そして、セレスの言葉。

「だったら、勝手に一人で決めないで」

その約束が、今後の二人に何をもたらすのか。

次回、第64話では、受け継いだ記憶が自分自身に与える影響へ、さらに踏み込んでいきます。

次回もよろしくお願いいたします。

この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。

Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524

Momokun Official https://momokun.jp/

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