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第23話 老兵が託すもの

 どんよりとした薄暗い雲が果てしなく続いている空を眺めながら、朝倉はゆっくりとブレーキを踏んだ。人どころか車が一台も見当たらない交差点で、律儀に青信号に変わるのを待つ。

「全く人いないですね」

 東京ではまず見られない風景に朝倉は笑った。助手席のシートに深く寄りかかっていた、藤倉は、そうだな、と相槌を打つ。紅葉シーズンの山を横目に、この道を何度も通った日々を思い出した。

 藤倉が仕事で初めてこの道を車で通ったのは社会人二年目の夏。何度か転職はしたが、あれから四十年以上経った。来年の六月には定年退職だ。

 新卒で入社した仕事は医療、介護施設向けにシーツやタオル等を納品し、回収、クリーニングする仕事。そこを三年で退職して、福祉用具を取り扱う会社へ転職し、支店長を務めた。今の会社の立ち上げに誘われたのが三十九歳の時。妻の反対を押し切って、支店長という地位を捨て、ゼロから会社を立ち上げた経験は一言では語れない。  

 営業統括部長という肩書でこの道を通るのもこれが最後になるだろう。定年退職後は業務委託契約で今の仕事を続けるが、前線を退き援護射撃に回るつもりだ。

 藤倉はすっかりぬるくなってしまった缶コーヒーを一口、口に含んだ。

 充実した会社員時代だった。しかし、老兵は若い世代に場を譲り渡すものとはいえ、一抹の寂しさを感じることは否めない。

 ちらりと運転している朝倉に目線を投げれば、藤倉の心境に全く気付く様子もなく小さく鼻歌を歌っている。いい意味で犬のように、実直に仕事に取り組む姿勢がありながらも、朝シバの愛称で部下たちに可愛がられる程の愛嬌がある。この人柄が気に入って、自分の手持ちの中でも重要な案件を朝倉に引き継ぐ決心をした。

 地方の介護施設に勤務するスタッフは若い人が少ない。熟達した経験値から仕事を行うことは決して悪いことではないが、これからICT化はどんどん進む。若く、介護業界に染まり切っていない人の意見は重宝されるだろう。

 長年この業界に浸かっていると、疑問視していたことがいつの間にか当たり前になってしまい、疑問そのものを感じなくなる。それではいけない。常に疑問点を見つけられる目を開けていなければ、介護を取り巻く環境は改善されない。

 朝倉が入社したての頃は、二歳児の子どものように何に対しても「なんで?」と聞いてくる彼の質問攻撃に、朝倉の直属の上司である郷田も辟易していたが、朝倉は今でも変わらずに「なんで?」と疑問に思ったことを口にする。それを鬱陶しいと思う人もいるだろうが、藤倉は常に疑問を抱く心がけを重要視していたので、この若い社員を気に入っている。

 目的地に到着すると、広々とした駐車場の端に朝倉は車を止めた。腕時計で時間を確認した朝倉は「ちょっと早いけど、もう行きます?」と聞いてきた。

 同じように腕時計を確認した藤倉が「そうだな」と頷くと、朝倉は車のエンジンを切り、お互いマスクをつけて車を降りる。豪雪地帯なだけに、早くも冬の到来を感じさせる風に、マスクの中の寒暖差を感じながら二人は施設の入口をくぐった。

 やたらと広い玄関ホールには大きな絵が飾られており、所々に民芸品が置かれている。朝倉は朝日が差し込む山村の風景を描いた絵を見つめながら、手の消毒を済まして体温を測り、受付に置かれている来客シートに名前を記載した。


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