35. 決戦前夜のぬくもり
35. 決戦前夜のぬくもり
深夜。タワーマンションの広すぎるゲストルームで、オレはベッドに横たわりながら、暗い天井をぼんやりと見つめていた。
明日はついに、柚葉のすべてを懸けた『Frontline Cup』の当日だ。
目を閉じれば、この数ヶ月の彼女の軌跡が脳裏に蘇る。エイムが合わずに泣きべそをかいていた日。オレの理不尽な座学に、文句を言いながらも必死に食らいついてきた日。
野良の味方を自分の声で動かし、初めてIGLとして盤面を支配した時の、あの誇らしげな笑顔。
「……よくやった来たよ、あいつは」
暗闇の中で、誰に言うでもなく呟く。どん底で震えていた小鳥遊柚葉という一人の少女は、もう立派な指揮官へと成長している。
だが、同時に胸の奥をよぎるのは、指導者としての拭いきれない不安だった。
(オレは……あいつを、ちゃんと導けているんだろうか。あいつの努力を100%の勝利に変換できるだけの『完璧なコーチング』が、オレにはできているのか……)
『円卓』時代、自分のプレイに後悔したことは一度もない。だが、「誰かの人生を背負って教える」というプレッシャーは、オレの図太い神経すらもジワジワと削り取っていた。
そんな風に、柄にもなく自問自答を繰り返していた、その時だった。
コンコン、と。
控えめなノックの音が、静かな部屋に響いた。
「……センセ。起きてる……?」
ドアが少しだけ開き、廊下の薄明かりと一緒に顔を出したのは、パジャマ姿の柚葉だった。その両腕には、自分の部屋から持ってきたらしい大きな枕が、ギュッと抱きしめられている。
「どうした。明日は早いんだぞ、さっさと寝ろ」
「……眠れないの」
柚葉はうつむいたまま、ぽつりと言った。
いつもの、大人をからかうような小悪魔な笑みは一切ない。そこにあるのは、明日の本番を前にして、プレッシャーに押し潰されそうになっている『16歳の等身大の少女』の姿だった。
「どうしよう、センセ。……怖いよ。もし明日、私が初歩的なミスをして、味方の足を引っ張っちゃったら。せっかくセンセが教えてくれたこと、全部無駄にしちゃったらどうしようって……考えたら、胸がドキドキして、苦しくて……」
ギュッと枕を抱きしめる手に、力が入る。彼女は強くなった。だが、本気で努力したからこそ、本気で勝ちたいと願うからこそ……逃げ出したくなるほどの『恐怖』が襲ってくるのだ。それは、本物の戦場に立つ者にしか分からない、重圧の証だった。
「……センセ。今日だけ、一緒に寝てほしい」
柚葉はすがるような目で、オレを見上げた。
「ばっ……お前な」
「安心して、変なことしないから!」
慌てて身の潔白を主張する柚葉に、オレは思わず呆れたようなため息をついた。
「それは男側のセリフだが?」
「……だっダメ?センセ?」
上目遣いで、泣きそうな声で名前を呼ばれる。普段のあざといハニートラップなら鼻で笑ってあしらえるが……今の彼女が、本当に限界ギリギリのところで不安と戦っていることは、痛いほど伝わってきた。
「……ハァ。このベッド、無駄に広いからな。端っこなら貸してやる」
「……っ!うんっ!我慢できなかったら……シてもいいからね」
「黙れ。寝るなら早く寝ろ」
オレが寝返りを打ってスペースを空けると、柚葉はホッとしたように息を吐き、小走りでベッドに潜り込んできた。
再び部屋の明かりを消す。
広いキングサイズのベッド。オレたちは互いに背中を向けるようにして、少しの距離を空けて横になった。
静寂の中、柚葉の微かな寝息と、まだ少し落ち着かない様子の衣擦れの音が聞こえる。
しばらくして。
「……センセ」
暗闇の中で、柚葉の小さな声が響いた。
「ん?」
「手……握ってていい?」
オレは無言のまま、仰向けになり、柚葉のいる方へ右手を少しだけ伸ばした。すると、暗闇の中から柚葉の小さな手が伸びてきて、オレの右手を、両手で包み込むようにギュッと握りしめた。
……冷たい手だった。
この2ヶ月、マウスを握り続けて少しだけ硬くなったその手が、微かに震えているのが伝わってくる。オレは振り払うことはせず、ただ静かに、彼女の体温を受け入れた。
「……大丈夫だ」
「え?」
「お前がこの2ヶ月、どれだけ地獄の特訓を越えてきたか、オレが一番よく知ってる。お前の頭の中には、オレの最強のロジックが詰まってる。……だから、自分と、オレの教えを信じろ」
「……うん」
柚葉の震えが、少しずつ、少しずつ収まっていく。やがて、オレの右手を胸元に抱き抱えたまま、彼女の呼吸は規則的で穏やかなものへと変わっていった。
(……変なことしないから、ねぇ)
腕をホールドされたまま身動きが取れなくなったオレは、天井に向かって苦笑する。
だが、その安らかな寝息を聞いていると、オレの胸の奥にあった「指導者としての不安」も、不思議とスッと消えていくような気がした。
◇
チュン、チュン、と。
カーテンの隙間から差し込む朝日と、遠くで鳴く鳥の声で目を覚ます。
「……ん」
オレがゆっくりと目を開けると。目の前には、スースーと規則的な寝息を立てる柚葉の顔があった。
寝返りを打ったのか、昨夜の距離感はどこへやら、オレの腕を抱き枕のようにしてぴったりと身を寄せている。
(……近いな)
至近距離で、カーテンの隙間から差し込む朝日に照らされたその寝顔を見て、オレは思わず息を呑んだ。
当然ながら、完全なすっぴんである。だが、透き通るような白い肌や、少しあどけなさを残した長いまつ毛は、メイクで飾らない分だけ、16歳の少女の純粋な可憐さを際立たせていた。
少し寝癖のついた髪や、無防備に開いた小さな唇すらも、妙に心臓に悪い。
(……よく考えなくても、コイツ、普通にめちゃくちゃ可愛い女の子なんだよな……)
普段の小悪魔な態度に騙されがちだが、こうして黙って寝ている姿は、ただの天使にしか見えない。オレが柄にもなく見惚れてしまい、動けずにいたその時。
「……んんゅ……あ、」
やがて柚葉もゆっくりとまぶたを開け、至近距離にいるオレとバチッと目が合った。寝起きの潤んだ瞳が、トロンとオレを見つめる。昨夜の不安はすっかり消え去ったようで、その瞳は澄み切っていた。
「……おはよ、センセ」
「お、おう。おはよう」
少しハスキーで、無防備な寝起きの声。柚葉はオレの腕をギュッと抱きしめ直すと、シーツに半分顔を埋めて、ふにゃりと柔らかく、年相応の最高に可愛い笑顔を向けた。
そして、その天使のような顔のまま、とんでもない爆弾を落とした。
「……なんか、事後みたいだねw」
その言葉を聞いた瞬間、オレの頭の中で理性の糸がブチッと音を立てて切れた。
「バッ……!お前なぁ、朝からどんなトロールしてんだ!オレとお前の間にエンゲージなんて一切発生してないだろ!」
「えへへ。センセ。まぁ、この先の『本番』に向けた、スクリム(練習試合)みたいなものでしょ?」
「そんなクソみたいなマッチング、未来永劫起きないから安心しろ」
オレが呆れたように言い捨てると、柚葉はシーツにくるまったまま、ニヤニヤと小悪魔な笑みを深めた。
「えー?でも昨日の夜、私のベッドへの『エントリー(突入)』、あっさり通してくれたじゃん。おまけに朝までずっと手まで繋いじゃってさ。センセのサイト(拠点)、ガバガバじゃない?」
「あれはお前がメンタルブレイクしそうだったから、緊急の『カバー(援護)』に入っただけだ!勘違いすんな!」
「ふふっ。カバーのついでに、私のこと優しく『キャリー』してくれてもよかったんだよ?」
「黙れ、早く起きて準備しろ!」
オレが本気で胃を押さえて怒鳴ると、柚葉はこらえきれないように吹き出した。
「あはははっ! センセ、朝から顔真っ赤!」
「笑い事か!今日は大会当日だぞ!」
オレが慌てて腕を引き抜いてベッドから追い出そうとすると、柚葉はケラケラと笑いながらベッドの上を転げ回った。
昨夜の、プレッシャーに怯えて震えていた少女はもういない。
そこにあるのは、完全にメンタルを回復し、オレをからかう余裕を取り戻した『小悪魔な指揮官』の姿だった。
「あーよく寝た!センセのベッド、すっごく落ち着いたよ!」
「2度と入れねえかんな!」
「はいはい。センセ。今日、絶対に私が勝つところ、特等席で見せてあげるからね!」
柚葉は弾けるような笑顔で立ち上がり、自分の部屋へと駆けていった。
バタン、とドアが閉まる音。
オレは一人残されたベッドで、大きくため息をつきながら、乱れた前髪をガシガシと掻き毟った。
「……心臓に悪い」
だが、オレの口元は、無意識のうちに微かに緩んでいた。
泣いても笑っても、今日が本番。あの不敵な笑顔と、オレの教えたロジックがあれば、どんな予測不能な盤面が待っていようと、きっと大丈夫だ。
オレはベッドから降り、決戦の地へ向かうための『軍師』の顔へと、静かに表情を引き締めた。




