それぞれの二年間《中》
己の敗北を渋々受け入れた様子で立ち上がる光一郎を見てから、螢は輝秀へと視線を移し、問うた。
「先ほどコウ君を吹っ飛ばした「アレ」は、中華武術に伝わるという発勁でしょうか」
輝秀は口端を吊り上げる。
「そうさ。秋津君が吹っ飛んだのは、体当たりに込められた俺の勁を受けたからさ」
「じん?」
「あぁすまない。発勁の「勁」という字を、現地の言葉ではそう発するんだ。——勁とは、研ぎ澄まされた力。姿勢、動作、呼吸、意念……そういったバラバラな身体活動を合一させることで、ただの力とは質の異なる「鋭さ」を持った勁を作り出す。これはただ方法を知れば使えるという代物じゃあない。門派に伝わる練功法によって鍛え、整えられた肉体によってのみ実現可能」
螢とて武芸者だ。武術に関しては、たとえ異国のモノであっても興味を禁じ得なかった。気づけば更なる問いを投げていた。
「あなたのその剣術は、あなたが学んだ『龍行掌』に含まれているモノですか」
中華武術の門派というのは、ほぼ全てが日本武術で言うところの「総合武術」にあたる。
つまり、拳法、剣術、槍術などの各種武術が、一つの派に含まれている。
その中でも拳法は、門派そのものの中核と位置付けられている。その拳法を学べば、それで培った技術や身体能力を他の武器にも応用できるのだ。……日本武術で言えば、柳生心眼流がソレに似ている。
そして輝秀が先ほど使っていた刀術も、『龍行掌』という門派に伝わる武術の一つなのではないか——そのような意図で螢は訊いたのだ。
それに対し、輝秀は頷くでもかぶりを振るでもなく答えた。
「半分正解かな。確かに俺は『龍行掌』の修行の中で刀術も学んだし、いま見せた剣技にもそのエッセンスは含まれている。だけどさっきの剣はその刀術だけでなく、俺が今まで一番長く学んだ至剣流の動きも含めた、俺自身の剣技さ」
「中国の刀術と、日本の剣術とでは、動作が違うはず。それでよく技同士が喧嘩をしませんね」
「まぁ中国刀術といっても、俺が学んだのは苗刀術だからね」
その発言を聞いて、螢は気がつくと口にしていた。「……倭刀術」
「その呼び方、現地の武術家の前じゃ使わない方が良いよ」
輝秀は苦笑気味にそう返してきた。
——苗刀とは、中国化された日本刀、およびそれを用いる刀術のことである。
十五、六世紀、日本でいう室町時代の大陸沿岸では、倭寇という海賊が暴れ回っていた。その名の通り日本人を中心とした集団であったが、時代を経るうちに唐人の割合が増えていき、最終的には唐人だらけとなった。
倭寇の多くは日本刀で武装していた。最高峰の斬れ味を誇る無双の刃と、それを操る術による戦闘力の高さに、明軍の兵は散々悩まされた。
ゆえに当時の明では、日本刀と日本剣術の研究が盛んに行われていた。勘合貿易による日本刀の輸出が活発化して、陰流などの日本剣術の目録も大陸へと流れた。
やがて、日本刀術を深く学んだ少林寺の武僧が、「単刀法選」という武術書を書き記した。そこには倭刀……すなわち日本刀を操る刀術が記されている。
その「単刀法選」は、大陸の武術家たちの間で時代を超えて読み継がれ、近代中国において生み出された「苗刀術」の原型となった。
……ちなみに「倭刀」ではなく「苗刀」という呼称になっているのは、日本を彷彿とさせる名称はナショナリズム的に都合が悪かったからだと言われている。苗刀術の生まれた近代中国は、日本を含む当時の列強国に悩まされていた時代だ。
「面白いよ、この苗刀術は。ところどころに、至剣流を含む他の日本剣術に近しい匂いがある。だから違和感無く組み合わせられたんだろうね。まぁ、俺のような半人前が伝承を改変するなんて邪道だから、この剣は戦う時以外使うつもりは無いけど」
しみじみ語る輝秀の口調に、螢は更なる興味が尽きなかったが、螢はそこで思いとどまった。……光一郎が、螢と輝秀から目を背けるようにして落ち込んでいたからだ。あまり敵に関心を持つと、彼の男としての矜持を逆撫でしてしまうのではないかという配慮である。
螢は大きく息を吸って、吐き……意識を切り替えた。
「次はわたしが相手。休憩が必要なら、時間をあげます」
そんな螢の言葉に、輝秀はかぶりを振った。
「不要だ。むしろ、体がいい感じに温まってきた」
光一郎は無言だったが、その後ろ姿から、切歯する音が聞こえてきた気がした。
†
稽古場の中央に、螢と輝秀は向かい合わせに立った。
光一郎は、そんな二人を両方見渡せる位置で、これから勝負の開始を宣言しようとしている。……一見すると澄ました顔つきだが、その表情は固かった。まるで無理矢理その表情を作っているように。
(こんな事なら、やっぱりわたしが最初から戦っていればよかったのかも……)
そうすれば、彼にこんな悔しい思いをさせずに済んだのかもしれない……螢はそう思った。
一方で、光一郎には申し訳ないが、彼のおかげで輝秀の剣の全体像が大まかながら把握できた。
中華武術にはそれほど明るくない螢でも『龍行掌』という武術の事は知っていた。
中国北方にて発祥した、いわゆる北方武術。北方武術は足技や歩法が巧みで、動きが大きいモノが多い。
『龍行掌』は他の北方武術に比べると歴史は比較的浅めだが、大陸でも有数の門人数を誇る、れっきとした大門派だ。
「掌」という語が付いている通り、門派の主軸たる武術は拳法ではなく掌法だ。
円運動を動作の基調としており、なおかつその動作の中の「円」を自在に拡大、縮小させることで、攻防一体を高度に成し、広い場所でも狭い場所でも自在に戦える。
まさしく悠々と天を巡る龍のごとく変幻自在で途切れが無い技から、『龍行掌』と名が付いた。
さらに、その掌法の動きによって振るわれる苗刀。
軽快でありつつも重厚。自由でありつつも実直。
まさしく陰陽を高度に兼備した剣だ。
(中華武術は、日本武術以上に習得が面倒だと聞くけれど……)
中華武術は、武技と気功によって、肉体の内外を鍛える。
熟達すれば、小柄な者ですら敵を打撃一発で打倒出来るようになる。達人と呼べる領域に達すれば、一撃で敵を殺傷出来る。
しかしながら、実戦で使えるようになるまで時間がかかる上、気功などの鍛錬にはリスクがつきまとう。師から教わった正しい方法でやらないと、幻覚を見たり体調を崩したりといった心身の不調をきたしてしまう。禅病とか魔境とか呼ぶらしい。
(どんな修行を積んだのかはまだ訊いてないけど……たった二年ほどで、あそこまで身につけるなんて)
先ほど光一郎を吹っ飛ばした輝秀の発勁を思い出しながら、螢は内心で感嘆を禁じ得なかった。
学んだ師がよほど優れていたのか、本人の持つ才能か、あるいは両方か。
いずれにせよ、今の彼は決して侮ってはいけない相手だ。かつて自分に挑んできて敗北した時と同じと思ってはいけない。
螢はいま一度気を整え、おもむろに構えた。右足を退き、右耳隣で剣を垂直に構えた「陰の構え」。
輝秀もまた構えを見せた。
右足を大きく後ろへ引き、左足重心のやや前傾気味な体勢となる。
右手のみで握った木刀を体の後ろ側に隠し、左肩を前へ張ってそこを強調するような構え。
(あの構え……「単刀法選」に載ってる「提撩刀勢」によく似てる)
いわゆる下段後方。
「単刀法選」を書いた少林寺武僧の程宗猷は、この下段後方を「倭の絶技なり」と明記した。
体を前面に晒した捨て身の構えだが、これを操れる胆力を得られれば、戦いにおいて絶大な威力を発揮する。……至剣流の「裏剣の構え」を含む、多くの日本剣術に存在する構えだ。
螢は「陰の構え」にいっそうの剣気を込める。
輝秀もまた、林の奥で身を潜める鷂のように、今にも飛びかからん静かな気勢を構えに宿らせる。
周囲を包み込む暑気すら他人事に思えるほど、体感温度が下がる。
セミの声すら遠ざかり、場が無音に感じたその瞬間。
「————始めっ!」
無音の中に光一郎の声が投じられ、その声が終わった時には双方動き出していた。
輝秀の気勢が、虎と同質に感じた。それほどの俊敏さと勢いによる急迫。それに伴い、下段後方から掬い上げるように放たれた木刀。明らかに光一郎の時とは迫力が違う。おそらく本気だ。
しかし螢は「陰の構え」から少しも動かなかった。螢にギリギリ届かず虚空を素通りした木刀が、その判断を正しいモノだと裏づけた。……強い気位によって相手を圧迫し、届かない剣に対して無理やり防御の姿勢へ誘導させようとするハッタリだ。
螢は「陰の構え」のまま足を進める。
輝秀の胴体の位置がグンッ、と急激に後退。後ろ足へ深々と重心を移したからだ。上体が動いたことで剣の位置も当然引っ込む。さらにその後退の流れで、左手で柄を握り、右手を切っ尖付近の峰に添えた中取りの持ち方に変えた。
螢が「陰の構え」から、閃くように切っ尖を前へ放つ。至剣流『石火』。
輝秀が重心を前足へ鋭く蹴り送り、それに伴って横一文字となった木刀が前へ押し出される。
それら二技が同じ拍子の上で放たれ——バァン!! という落雷じみた轟音とともに噛み合った。
中段で伸ばされた螢の切っ尖と、横一文字となった輝秀の木刀の半ばが、硬く触れ合っていた。
稽古場全体に響く轟音の余韻を聴きながら、双方は思考する。
‘(……「単刀法選」の『入洞刀勢』に似ている)
一文字状に持った剣を重心とともに前へ大きく延ばした輝秀の構えを見て、螢はそう感じた。
相手の剣を受けてから、両剣の接触点を支点に梃子の原理で刃を相手へ届かせる技法。受けから反撃へ移るのが速く、「単刀法選」でもそれを指摘していた。
輝秀はきっと、こちらの『石火』を受け流して、そのまま剣をとどかせようとしたのだろうが——
(相変わらず重い……! 女の出していい『石火』じゃあないぞ……!)
輝秀は静かな表情の裏側で、苦渋を吐いた。
——受け流すつもりだったのに、できなかった。
螢の切っ尖に乗った鋭い勢いは、輝秀の剣の奥深くまで食い込むように作用し続け、逸らすことが出来なかった。中華武術の練功であれだけ鍛え上げた下半身が、その衝撃の波及を受けて苦痛を訴えていた。
さらに、触れ合っているのは螢の切っ尖だ。すぐ剣を引っ込め、刺突できる。
「っ!」
輝秀は腰を落としたまま急旋回。その一瞬後に、螢の剣尖が輝秀の残像の頭を穿った。
そのまま地を這うつむじ風のごとく俊敏に螢の左へ回り込み、同時にその下半身へ向けて弧状の太刀筋を描く。だが螢は大して気負う様子も無く剣尖を左斜め下へ向け、輝秀の一太刀を容易く受け止めた。
輝秀が更なる攻め手へ出ようとするよりも速く、螢が輝秀の左隣へ滑らかに進みながら、剣を左下段から右へ向かって横一文字に薙いできた。
輝秀はそれを己の剣で防ぎ、すれ違いざま背と左肩を晒した螢へ向かって反撃を仕掛けようと斬りかかるが——螢は剣を振り抜いたその拍子にぎゅるり! とこちらへ振り向き、右下段後方に剣を置いた「裏剣の構え」へと転じる。
次の瞬間、バキュィン!! という木音とは思えない金属的な音を立てて、双方の木刀がぶつかり合った。
「ぐっ……!!」
螢の剣を受けた輝秀は、鬼の大鉈に殴られたような強大な鋭さに体勢を大きく崩した。——至剣流『白虹貫日』。「裏剣の構え」から急激に体を展開させて左へ放つ、重々しい大振りの一太刀。
体勢は確かに崩したが、しかし無理に立て直そうとはせず、その崩れる勢いに任せて倒れた。そこからゴロリと柔らかく床を転がり、一転すると同時にしゃがみ姿勢で剣を構えた。螢は遠間に立っている。なので輝秀も腰を上げる。
(……やっぱり、化け物みたいな剣の腕だな)
輝秀は額を伝う冷や汗を実感しながら、そう思った。
ある時は柔。ある時は剛。それらを状況に応じて高度に使い分けている。
太刀筋にもブレや焦りが全く見られない。あるがままの現実に対し、淡々と剣を振るっているような太刀筋が常に続く。剣が緩であれ急であれ、そのような無感情さを基軸としている。
……かつて戦った時と同じ、否、それよりもさらに研ぎ澄まされている。
自分が大陸での修行で成長したのと同じように、彼女もまた弛むことなく剣を練り続けているということだ。
異国の異質な技を身につけた程度で埋められるほど、彼女との力の差は小さくなかった。
まさしく稀代の剣士。
輝秀にとって今なお最も美しく、そして最も畏るるべき女性であった。
(…………やはり、彼女に対しては、出し惜しみはできかねるな)
改めてそのことを確信した輝秀は、自分の中にある枷を全て外す決意を固めた。
あからさまな構えを解きほぐし、剣とともに両腕を垂らす。
構えよう、という意念すら解く。
目の前に立つ女人の形をした剣精を、空に浮かぶ雲のような気持ちで静かに見据える。
「望月螢。貴女の剣に敬意を表して、お見せしよう。——俺が大陸での修行で得た、最大の成果を」
そして、輝秀は雲となった。
自分でも言語化して説明が出来ない、しかし自分の身体が確かに知っている、他人から見る自分への認識を撹乱できる特殊な体術と太刀捌きを用いて。
自分の姿を、大きな、大きな、雲に変えていく。
——『級長戸辺ノ太刀』。




