それぞれの二年間《下》
「なん、だ…………「アレ」は……!?」
打ち負かされた敗北感すら吹き飛ぶほどに、光一郎は今の輝秀の姿に対し、胸を驚愕に支配されていた。その驚愕のまま、かすれた声で呟く。
あらゆる剣技のあるがままを見つける事に長けている光一郎の瞳は——稽古場の半分を埋めるほどに巨大な積乱雲という、非現実的な光景を映し出していた。
ぶっくりと巨球状に膨れ上がった胴体。そこから雪室のように丸みをもった頭部が盛り上がり、巨大な注連縄めいた両腕が伸びている。腕の先端には太い五指を開く手が、手ぐすねを引くようにもこもことうごめいている。
その灰色の身体をうねらせ、ときどき威嚇のように雷光の明滅を見せる、雲の巨人の上半身がそこにはあった。
己の片足が半歩退がった事に、光一郎は気づいていなかった。
……非現実的。明らかに、非現実的だ。
しかしどれだけ目を凝らしても、光一郎には輝秀の姿が、雲の巨人の上半身にしか見えなかった。
そして……そのような事をやってのける手段を、輝秀が持っていることを知っていた。
(『級長戸辺ノ太刀』……!)
輝秀の持つ『至剣』。
特殊な体捌きによって、己に対する一時的な認識障害を相手に誘発させる。
その至剣を使っている間、相手には使い手の姿が、輪郭の曖昧な人型の煙のように見えてしまい、次の攻撃が全く読めなくなる。
相手の動きを観察した上で防ぎ反撃する「後の先」を得意とする光一郎にとって、相性の最悪な至剣。
……でも、そうだとしても、すでに既知であるのだから、その『級長戸辺ノ太刀』を今更出されたところで驚きはしない。
今の問題は、そこではない。
(僕が前に戦った時より、明らかに大きい……!!)
そう。巨大なのだ。
かつての『級長戸辺ノ太刀』は、その姿をゆらゆら揺れる人型の煙に変えるだけだった。
だけど今は……使い手の何倍も大きく、その姿が膨れ上がっている。
煙ではなく、雷雲。
それによって、光一郎は否応無く気付かされてしまった。
——あの巨体が埋め尽くす範囲全てが、警戒範囲だ。
雲の巨人はピカピカと明滅を繰り返しながら、黒黒とした口を開け、その食指を伸ばし始めている。
真正面に立つ、一人の美女へ。
まるで一輪花を手折ろうとするように。
光一郎は、今はそれを見ていることしか出来なかった。
(……そう。あの大きな人型の雲が占める範囲のどこかから、彼の攻撃がやってくるということ)
ゆっくり、もうもうと近づいてくる鈍色の雲の巨人を、螢はわずかに心をざわつかせながら見据えていた。
(一昨年のコウ君との勝負で見せた『級長戸辺ノ太刀』も、他人から見た使い手の姿形を煙のような不定形に崩し、本体の姿と剣の軌道を読めないようにするというものだった。一方で……煙の立っている位置から、本体の立ち位置までは誤魔化せなかった)
しかし、冴えた思考で分析もしていた。
(だけど、今のこの『級長戸辺ノ太刀』には、ソレすらも無い。本体の構え、剣の向きや描く太刀筋だけではなく——立ち位置すらも全く分からない。あの大きな雲の中にいる、ということしか、分からない)
剣と身が、自然と構えを作っていく。
ゆっくりと近づき、もはやここが望月家の稽古場だと分からなくなるくらいに視界を占めつつある、積乱雲の巨人を見据えて。
(この雲の中に入ったら、もうわたしは主導権を握れなくなる可能性が高い。相手の動きどころか、その手がかりすら一切把握できないまま、倒れるまで四方八方から斬られ続けることになりかねない。そうなれば、わたしでも勝ち目は無くなる。——だからこそ)
構えを取った。
右足と剣を後方に退いた、「裏剣の構え」。
しかし——そこには神威が宿っていた。
(至剣で、確実に断つ)
『伊都之尾羽張』。
神殺しの剣と同じ名を持つ、螢の至剣。
稲光に等しい剣速と、刃の無い木刀にすら斬れ味を宿らせる、無双の一太刀。
その一太刀の内に抱かれた存在は、ヒトでもモノでも問答無用で「切断」という運命を強いられる、極大化された「一刀両断」の概念。
幼少期のごとき過酷が再び現れようと、それらを斬り開き、己の運命を平らげるための一振り。
(負けない。わたしは、絶対に)
……自分は今まで、自分へ愛を示す多くの男の剣客を、剣で袖にしてきた。
猛者ばかりだったが、いずれも螢は倒してきた。
侮りも、驕りも無く、ただ振るうべくやり方で剣を振るってきた。そうしているだけで相手は地に伏した。
大した感慨も無い。ただ剣を振るうだけ。その事だけを考えていればよかった。
剣を振るって上手くいかなかったのなら、それは自分の力がそこまでだったというだけのこと。
そのように、割り切っていた。
——光一郎と、出会うまでは。
彼と出会ってから、螢にとって負けられない戦いが増えた。
嘉戸派との「三本勝負」、
『呪剣』との死闘、
そして……今のこの戦いを含む、これから先全ての戦い。
光一郎という存在は、自分を弱くしたのかもしれないし、強くしたのかもしれない。
ただ一つだけ確かな事は——負けたくない、という思いが生まれたという事実だけだ。
(だから、これ以上来るというのなら…………わたしは、あなたを斬る!)
剣を引き絞り、螢は決然と目を細めた。
積乱雲の巨人の上半身は、もう視界を端まで埋めていた。もこもこと膨らむ鈍色の胸部を明滅させながら、その胸中に螢を飲み込もうとゆっくり押し迫っていく。
しかし、螢は退きも怯みもしない。
神威を宿した己の剣を振り放つ機を、探すだけ。
雲と螢の間が、残り1メートルを切る。雲は進む。
50センチ、30センチ、25センチ、15センチ、10センチ、5センチ、0センチ——マイナス。
螢は、白い世界に訪れた。
螢の視線が届く範囲は、全て白一色。白意外何も見えない。
己の体さえも、白に包まれていて視認できない。
まるで、自分と世界の境界が曖昧になったような不快感が、胸をざわつかせる。
ホワイトアウトという自然現象を思い出した。猛吹雪や雲の流れなどによって周囲の情景全てが白く染まり、方向や地形といった視覚情報が捉えられなくなる現象を言う。別名「白い闇」。
——この「白い闇」は、輝秀の領域だ。
この領域のどこで、輝秀がどんなふうに剣を構え、どんなふうに剣を振っているのか、螢には判らない。この「白い闇」の中では、視覚は全くの役立たずだ。
ならば足音、いや、歩む振動から輝秀の位置を探ればいい——そんな考えもまた甘い。
龍行掌は歩法が達者な武術なのだ。龍が空を巡るがごとき美しい体捌きと技法を下支えしている要素は、歩法の巧妙さである。その歩法の凄さを物語る達人のエピソードもいくつか知っている。雪の上に足跡を一歩も残さなかった、など。
その龍行掌を体得している輝秀ならば、振動を立てずに歩くなど造作も無いはずだ。
視覚だけでなく、聴覚すら当てになるか怪しい。
いつ、輝秀の剣がやってくるか、分からない。
思考している今この瞬間にも、やって来てもおかしくな————
「————っ!!」
次の瞬間、螢は爪先を左へ九十度切り、「裏剣の構え」の向きを変えた。
そして、右下段後方の剣を、前へ振り放った。
白い闇の世界の中に、両端から引っ張り延ばされた稲妻のごとき、無双の一太刀が走った。
神殺しの剣を振り抜いたまま、螢は止まる。
そして、三秒後——ばららん、という、木材の落ちる音。
その音とともに「白い闇」が晴れる。
望月家の稽古場と、開け放たれた戸からそれを照らす夏の陽光が戻る。
螢が後方へ視線を向けると——そこには刀身の八割が無くなった木刀を握る輝秀の姿。
「……どうして、俺が左側から来ると分かった?」
ずれた丸型サングラスを直すのも忘れて、輝秀はそう訊いてきた。その目は驚愕で固まっていた。
それに対して、螢は剣を振り抜いた姿勢で残心しながら、端的に一言。
「衣擦れの音がしました。方向さえ判れば、わたしの至剣による踏み込みの速さなら一瞬で斬れます」
「…………やれやれ。今度から全裸で戦おうかね。相手への精神的攻撃も兼ねて」
ため息混じりでそう言うと、輝秀は切れ端となった木刀ごと両手を挙げた。
「——まいった、降参だ。相変わらずの腕前で感服したよ」
それを聞いた瞬間、螢は残心を解いた。
輝秀は床に落ちていた己の木刀の片割れを拾い、壁に立てかけてあった刀袋へ木刀をまとめて納めると、それを右肩に担いだ。
「今日は無理を言って悪かったね。帰国したら、どうしても君達とは戦っておきたかったものだからさ。俺なんかがこれ以上ここにいても不快だろうし、もうお暇させていただくよ」
螢と光一郎の両方を視界に収めるように目を向け、輝秀は苦笑気味にそう告げた。
背を向けて稽古場の三和土へ向かおうとしたのを、
「——待って」
螢は思わず呼び止めた。
輝秀は視線だけを向け、目を瞬かせた。「なんだい?」
「さっきの『級長戸辺ノ太刀』が、大陸での修行の「最大の成果」というのは……どういう意味でしょうか」
「んー、説明したいところだけど……いま望月閣下が戻ってきたらゴタゴタしそうだから、また今度話すよ。少し長い話になるからね。それじゃあ」
そう告げて、輝秀は今度こそ稽古場から出て行った。
……その姿が見えなくなってもなお、螢と光一郎は、その場から動く事ができなかった。
今日は、いろいろな意味で、輝秀に驚かされた。
かつての浮薄さが嘘のように実直になっていた人格、
この二年近く、大陸で修行し、中華武術を習得していたという事実、
その修行によって大きく変わった彼の剣技、
そして……先ほど目の当たりにした『級長戸辺ノ太刀』の、あまりの変貌ぶり。
彼がなぜ大陸へ渡って修行したのか、その修行でいったい何があったのか、まだ分からない。
一方で、輝秀は確かに言った。
——君達と戦いたかった、と。
螢だけでなく、光一郎にも。




