それぞれの二年間《上》
——正直、悔しかった。
ここに来た輝秀の目的が、起請文を踏みにじって『望月派』を貶める謀のためであった方が、僕の心は楽だった。
僕の中で「ろくでもない奴」と認識している輝秀へのイメージを、変えなくて済んだから。
だけど輝秀の「あの目」を見た時、その可能性は皆無であると、嫌でも解ってしまった。
——サングラスという暗幕越しにも分かる、その場に静かに定まった北極星を思わせる、厳粛で誠実な眼差し。
以前のあいつなら、あんな目は絶対に出来なかった。
それに、あいつの立ち姿。
……二本足で立っているはずなのに、その歩幅よりも底面の広い小さな金字塔を幻視した。そんな盤石な立ち方。
それを見ただけでも、輝秀が以前までとは全く違うということが解ってしまった。
僕は「眼」が良いことを自認している。であるからこそ、そんな変化から目を背けることが出来なかった。
——確実に、輝秀は変わった。それも良い方向に。
そのことが、僕はショックだった。
既成概念を破壊されたことが。
もう、輝秀を「ろくでもない奴」と認識出来なくなりそうなことが。
螢さんまでもがソレを認め、勝負を受けたことが。
……僕が「螢さんとやり合う前に僕と戦え」と言い出したのは、そんな自分の気持ちがそうさせた、衝動的なものだった。「僕に勝てないなら螢さんにも勝てない」なんて、言った後に考えた急ごしらえの方便だった。
だけど、今更吐いた唾を飲むなんて、それこそ屈辱的だ——僕はそんな気持ちとともに覚悟を決め、今の状況へ意識を戻した。
望月家敷地内にある、小さな稽古場。
出入り口を背にしている僕から見て左側の戸が全開され、温い外気の流れと、強烈な陽光を室内へ招き入れている。
僕と、遠くから向かい合っている輝秀。僕らの両足の間を中心にして、稽古場の日向と日陰が分明されている。左足で踏む木床が熱いと他人事みたいに思う。
「君もこの二年くらいの間、随分と名を上げたようじゃないか」
輝秀は、その手に持った木刀を弄びながらしみじみ言った。
「天覧比剣で優勝したこともそうだが、あの『人斬り錦蔵』と真剣で斬り合って生きていられるなんてね。男子三日会わざれば刮目して見よ、か。あのちっぽけな子供が、よくぞここまで」
まるでステッキを操るように、左右に持ち手を何度も変えながらくるくると木刀を回転させて弄ぶ。しかしそれでいて、刃の部分には全く触れていない。……刀である、という意識を忘れないまま、あそこまで自由自在に。
「昔「お前じゃ望月螢には勝てない」みたいな事を君に吐き捨てたが……俺には見る目が無かったようだ。君には、彼女に勝てる可能性が十分にある。そのまま剣を捨てず、たゆまず歩み続けていけば、きっと『至剣』にたどり着くだろう——己の剣を「必勝」へと導く、あの「金の蜻蛉」に」
そんな技巧と意識の高さに加え、相手への礼と称賛を忘れず、それを慎み深い笑みとともに訴えてくる。
何もかもが、僕がかつてやり合った「嘉戸輝秀」とは、似ても似つかなかった。
……それが悔しく、そして癪に障った。
お前は『望月派』を、僕の好きな人の大切な流派を破壊しようとした、不倶戴天の敵のはずだ。
そんな奴が、かつての不遜さのかけらも見せない君子のごとき振る舞いをしていることが、僕はどうにも納得がいかなかった。
「そんな話はどうでもいい」
だから僕はそう切り捨て、左手に提刀していた木刀を右手に持ち替え、向かい側遠くに立つ輝秀へ剣尖をまっすぐ向けた。
「語りたいことがあるんなら、剣でやろう」
輝秀は少し残念そうにふっと笑うと、おもむろに構えを取った。
「いいだろう。——存分に魅せ合おうか。お互いの二年間を」
右足を後ろにして、上体をやや前傾させた立ち姿勢。前に出た左半身の後方へ、木刀とそれを握る右手を隠している。
……至剣流の『裏剣の構え』に似ていなくもないが、『裏剣の構え』とちがってこの構えは片手で剣を持って構えている。体もこちら側へ傾いているし、腰も深めだ。
見慣れない構えに気を取られまいと己を律しつつ、僕が取った構えは『裏剣の構え』。右足を退いて、前に出された左半身の真後ろに剣を隠す構え。
双方ともに、右下段後方。
その状態で、互いを見据え合う。気勢を放ち合う。
輝秀はなおもサングラス。しかしその真っ黒なレンズの奥にある眼差しがよく見える。さっきと同じ眼差し。己の進む方向を見定めているような、穏やかに据わった眼光。……視線がかち合った瞬間、額の汗の滴が増えた。
開け放たれた引き戸から、でかいスズメバチが太い羽音を立てて入ってくる。しかしハチは僕らの間に入ろうとして、しかしすぐに弧を描いて引き返し去っていった。……これから起ころうとしている事を察したように。
勝負に割り込んでおいて今更だけど——僕にはそのハチの気持ちが解ってしまった。
輝秀の下段後方構え。重厚さも気負いも無い、ゆったりとした構え。
軽そうなのに……どことなく危険な匂いがする。
まるで、稲妻をたくわえながら宙を漂う黒雲のような、危うさを蔵する軽さ。
木刀を握る僕の掌中が、湿り気を帯びる。
呼吸と気を整え、圧迫されぬようにと気持ちを整える。
「——準備はいい?」
螢さんがそう尋ねてくる。彼女は僕から見て右側、つまり開け放たれた戸の向かい側の壁に立っていた。僕と輝秀を同時に見据えている。
「はい」「無論」……僕と輝秀がほぼ同時に答えた。ピッタリなタイミングだったので、少し自分に腹が立った。
螢さんはソレを聞き届けたようにまばたきを二回すると、しばらく沈黙。
そして、やがて口を開いた。
「では————始め」
瞬間、二人同時に動いた。
僕が大きく後退し、
輝秀がそんな僕の歩幅より大きく、伸び伸びと踏み込んできた。
我が立ち位置が輝秀の間合いの中にすっぽり喰われるのと同時に、視界の右側から輝秀の刀身が流星のごとくやって来た。……右手に持っていた木刀を左上段まで振り上げ、そして袈裟懸けに放ってきたのだ。右下段後方からなので結構遠回りな振り方だが、木刀の操作が俊敏であったためほとんど問題にはなっていなかった。
「——っ」
左側から来た攻撃なら、「裏剣の構え」から左へ向かって放つ『白虹貫日』で防げたのに、その狙いを潰された。しかし僕は焦ることなく、無音の気合とともに別の動きを取る。後退するのに付随して、右下段後方にあった己の剣を、下から上へ反り上げるような円弧で振った。
その『法輪剣』の一太刀は、視界右から急迫してきた輝秀の袈裟斬りにどうにか追いつき、その刀身を上へ弾いた。僕の木刀の刃部分が、輝秀の木刀の鎬部分に上手いこと当たったからだ。進む刃は横からの力で比較的容易く軌道を変えられる。
そして、右上段まで来た我が剣を「稲魂の構え」へと変え、そのまま足を進めて輝秀へ突きかかる。右こめかみから稲穂のように剣尖を並行に伸ばした構え。僕と輝秀はかなり身長差があるため、刺突は的の大きい胴体へおのずと向かう。
だが、輝秀がこれで終わるほど甘い剣客ではないことは、僕もよく知っている。——案の定、輝秀がふわりと軽やかに飛び退いたことで胴体が急激に遠ざかり、僕の刺突は届かなかった。
虚空へ突き出された僕の剣を、右脚で大きく深く踏み込みながら発せられた輝秀の剣が、右から狙う。
僕は後退しながら剣を引っ込める。
空を斬った輝秀の刀身は、しかし止まらないどころかさらに加速。空振った流れそのままに輝秀の頭上を円転して一周する形で、再び僕の右から袈裟懸けに迫る。
右へ木刀の刃を張り出して防御する僕。木材同士のぶつかる快音が稽古場に響く。
我が剣と打ち合った輝秀の剣が、輝秀本人の後退に引っ張られる形で滑って逃れた——かと思えば、今度は右手持ちで僕の手元を狙って突いて来た。片手なのでその分刺突のリーチも伸び、僕の指を突けて余りある射程だった。当たる寸前でどうにか後退と回避が間に合ったが。
突き伸ばされた己の剣へ引き寄せられるようにして、輝秀が一瞬で距離を詰める。同時に剣が再び奴の懐へ戻り、もう一度右手持ちで伸び伸びと刺突。
僕は体の内側から全身を振るい、それによって己の剣もブルリと震わせた。その剣『鴫震』によって、伸びてきた輝秀の刺突をしたたかに左へ弾き飛ばした。……本来ならそこから即座に足を進めて刺突へ移るところだが、剣が弾かれるや輝秀が大きく軽やかに飛び退いたため、それは出来なかった。
輝秀はまたも急迫。
次々と剣を繰り出してくる。
攻める時は、俊敏かつ活発に。
防ぎ躱す時は、柔和かつ臨機応変に。
色々な剣術を見てきたつもりだったが、こんな剣術は初めてだ——僕は必死に応戦しながらそう漠然と思った。
剣術というより棒術を思わせる、大きく軽快な円運動を主体とした太刀筋。
軽やかかつしなやかで、起伏に富み、変化の激しい体捌き。
そのような剣と体の動きは、一見すると、一種の舞踊のようにも見える。
しかし、受け取る一太刀一太刀には、いずれも鋭く硬い「芯」がこもっていた。
——どう見ても、至剣流の動きではない。
目や雰囲気だけではない。
輝秀は、その剣までもが、大きく変貌を遂げていた。
そう認識した途端……またも悔しい気持ちが湧いてきた。その変化に。その成長に。
——気がつくと、僕は「高級剣技」を使っていた。
『蛟ノ太刀』。前へ剣を伸ばした状態から、渦状の太刀筋を手前へ描きながら引き寄せる。その渦の太刀筋に宿る術理は、触れ合っていた剣を問答無用でこちらの剣に吸着させて引っ張り込む。まるで湯船の排水口のように。
しかしながら、やはり至剣流の皆伝者だ。僕の大技の気をいち早く察知したのか、体ごと剣を大きく後退させた。僕と輝秀の間に遠間が出来上がる。
「……驚いたな。一太刀合わせただけで成長したとは解ったけど、まさか「高級剣技」までモノにしているとは」
輝秀は丸型サングラスを整えながらそう言う。その口端は少し吊り上がっていた。
その余裕そうな態度にムッとする僕だが、その苛立ちを自覚し、気を鎮める。
……さっきの『蛟ノ太刀』は、自分の技を誇示するような真似をして発してしまった。
輝秀ばかりが成長の証を見せつけてくる事が悔しく感じ、僕も成長の証として「高級剣技」を見せびらかしたくなったのだ。
だけど、そういう虚栄心は勝負において隙になる。いくら輝秀が気に入らないからといって、自分から隙を作ってやる必要は無い。
僕は「正眼の構え」を取る。臍から斜め上へ伸びる剣尖を通して見える輝秀を「敵」としてだけ認識する。ソレ以外の感情は捨て去る。
そんな輝秀は、僕の警戒など気にしていない様子で、木刀を右手で握りながら両腕をゆったり下ろした。そのまま、まるで当たり前のように告げた。
「それじゃあ、今度は少し本気でいこうかな」
まだ本気じゃなかったのか——僕がそう思うのと同時に、輝秀は大きく前へ出た。円弧軌道の太刀筋を伴わせて。
視界の左からやってきたその一太刀を、僕は木刀の刃部分を左へ張って防御。カッ、という木同士がぶつかる快音が響くのと同時に、輝秀の木刀は時計回りに瞬時に円転。今度は僕の右から迫る。それも刃を右へ張って防いだ途端、輝秀は半歩ほど後退。
「——っ」
その後退からほとんど間を置かずに発せられた左手持ちの刺突を、僕は左後方へ後退しながらどうにか回避。
だが輝秀は距離を作ることを許さない。僕へ勢いよく迫りながら木刀を両手持ちにし、二度目の刺突を繰り出す。僕はその刺突に向けて右から剣を振り放った。
直進する輝秀の木刀は、僕の一太刀に当たる寸前、縦に回転した。下向きに弧を描いて輝秀のもとへ戻り、さらに上弧を描いて上から戻ってくる。まるで『法輪剣』をコンパクトに、かつ俊敏に用いたような軽やかな一周。
「くっ!」
僕は素早く「稲魂の構え」を取る。左上段から並行に伸びた我が剣に、輝秀の刃が衝突。
だが輝秀は瞬時に、僕の視界の右端へ深く滑り込む。同時に右下から伸び上がってきた切っ尖が、脇腹へ迫る。
(この斜めへ滑り込んでからの刺突、至剣流の『麒麟』に似てる——!)
僕は後方へ逃がれながら剣を左上段から下げ、中段に戻すと同時に輝秀の次の一太刀を受けた。
両剣がぶつかると、輝秀の姿が今度は左端へ移動。木刀が軽快に弧を描きながら迫る——!
(なんなんだ、このハッキリしない剣はっ……!?)
連綿と続く輝秀の剣撃に対し、薄氷を履むような防御に徹しながら、僕は苛立ちめいた当惑を覚えた。
水と戯れている気分だった。
硬いモノにぶつかると、自在にその流れと形を変化させる水のように。少しでも双方の剣がぶつかると、たちまち太刀筋と体捌きを目まぐるしく激変させてくる。
その剣技の基盤となっているのは、緩急と起伏に富んだしなやかな体捌き。
明らかに日本剣術の動きではない。
異国の匂いが強い。
日本剣術との戦いに慣れきっている僕は、そんな輝秀の異質な動きに調子を狂わされていた。
これが中国の剣術、いや、刀術だっていうのか。
(でも、間近まで距離を詰めてしまえば——!)
考えるや否や、僕はその考えを実行していた。
右手を切っ尖裏の峰に添え、左手で柄を握った中取りの持ち方にする。振り放たれた輝秀の一太刀を、中取りにした木刀の半ばで受け止めながら強引に進み、鍔迫り合いと同じような至近距離まで間合いを潰す。
……輝秀の剣が垂直に、僕の剣が並行になった状態で触れ合った、十文字状の両剣。もしも輝秀の剣が動きだしたら、即座に僕も剣を動かして仕掛けられる状態。
視界を占める輝秀の姿を見据えながら、その丸型サングラスの奥に光る眼へ睥睨を送る。
輝秀はフッと一笑し、
「漆膠の入身ってやつかい? やるじゃないか。ここまで食らいついてくるとはね。とても二年程度とは思えない腕前だ」
「うるさいなもうっ……!!」
皮肉抜きの称賛なのかもしれないが、この男に言われてもイライラするだけだ。そういう心理作戦なのかとも疑いたくなる。少しヒネくれてるかもと我ながら思わなくもないが、こいつに対してはそれだけの遺恨がある。
丸型サングラスの下にある唇が、弧を描く。戦意を帯びた微笑。
「だけど——世界にはもっと多くの武術がある。日本のみが武の国だと思うと、足元を掬われるよ」
「何言って——」
んだ、と続けるよりも先に、「ソレ」は起こった。
僕の体が、飛んでいた。
比喩にあらず。
僕の身は今、本当に虚空を舞っている。
強く当たられたわけでも、投げられたわけでもない。
気がついたら、宙に浮かんでいた。
それほど高い位置を舞っているわけではない。輝秀の胸くらいの高さだ。
しかし、後ろ向きに働く勢いが、否応なしに僕を輝秀から引き離しにかかっている。
人は地に足を付けてこそ自由でいられる。
虚空に浮かび上がった今の僕は、全身にかかるこの勢いに身を任せる以外に何もできなかった。
背中から床に着くと同時に、なおも余剰した勢いのまま床を滑る。
壁に達する前に勢いは減退しきり、滑りが止まる。
素早く立ち上がろうとした僕を——喉元に突きつけられた木刀の剣尖が妨げた。
「これが真剣なら、君死んでるんだけど、勝敗はどうする?」
剣尖から木刀を視線でたどった先にある、輝秀の顔。嘲笑でも、憤怒でもない、あるがままをあるがまま受け入れているような真顔。
僕はそんな表情を見まいと顔を逸らし、悔しさで軋んだ声で告げた。
「…………僕の、負けだ」




