第8話 遅すぎた弔問 ― A Late Condolence
西の山で秘密の試掘跡が見つかってから三日目の朝、セレナは執務室で南部三村の役務割当を確認していた。窓の外には薄い雲が広がり、海から届く風が庭の木々をゆっくり揺らしている。暖炉では薪が静かに燃え、乾いた木の香りが古い帳簿の紙とインクの匂いに混ざっていたが、夜の冷えを残した机はまだひんやりとしており、セレナが指先で紙を押さえるたびに木の冷たさが掌へ伝わってきた。
「南の二村については、排水路の浚渫を先に。街道補修はそのあとでいいわ」
「承知しました」
オットーが手元の紙へ書き込み、ミレイユが役務日数と日当の計算を確認する。
山で何が見つかろうと、領内の水路が勝手に深くなるわけでもなければ、傷んだ街道がひとりでに直るわけでもない。セレナ自身、三日前なら西の山のことばかり考えていただろうが、最近は不安なことがある時ほど、目の前の仕事を止めてはいけないと感じるようになっていた。
ローヴェルには、試掘している者へ誰が指示を出しているのか追わせている。
エドガーは山側。
マルクは荷と商人。
まだ答えは出ていない。
だから今は待つ。
その時、扉が静かに叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたハロルドの表情は、普段と大きく変わらなかった。ただ、手に書類を持っていないことにセレナは気づいた。
「どうしたの?」
「ヴァルツ子爵領より使者が参っております」
セレナの指が止まった。
「……ヴァルツ?」
「はい。先代への弔問とのことです」
しばらく言葉が出なかった。
父の葬儀から、すでに相応の日数が経っている。
「……今?」
思わず漏れた声に、ハロルドはほんのわずかに眉を動かした。
「先方にも事情があったのでしょう」
「……そうでしょうね」
セレナはそう答えながら、机の隅に置かれた西部山地の地図へ一瞬だけ目を向けた。
ヴァルツ領。
北街道の向こう側。
「会うわ」
セレナは帳簿を閉じた。
「正式な弔問なら、断る理由はないもの」
◇
使者を迎えたのは、城の小さな応接室だった。
執務室ほど実務的ではなく、壁にはアルヴェイン家の紋章を織り込んだ古い壁掛けがあり、窓際には父の代から使われている重い木製の椅子が並んでいる。暖炉へ新しい薪が足されていたため室内は暖かく、蜜蝋の蝋燭からはほのかに甘い匂いが漂っていた。
やがてハロルドに案内され、一人の男が入ってきた。
四十代半ばほどだろうか。濃い茶色の髪をきちんと整え、旅装ではあるものの外套も上着も上質で、腰には装飾を抑えた剣を下げている。武人というよりは文官か側近に見え、歩き方にも振る舞いにも無駄がなかった。
男はセレナの前まで進むと、深く一礼した。
「ヴァルツ子爵エルンスト様の命を受けて参りました、オズワルドと申します」
「男爵のセレナ・アルヴェインです」
「このたびは先代アルヴェイン男爵のご逝去、心よりお悔やみ申し上げます」
声にも態度にも、不自然なところはなかった。
オズワルドは続けた。
「我が主が先代のご不幸を知るのが遅れましたため、弔意をお伝えするのが今日まで延びましたこと、併せて深くお詫び申し上げます」
「……お気遣いありがとうございます。ヴァルツ子爵にも、そうお伝えください」
セレナは穏やかに答えた。
弔問が遅れた。
そういうこともある。
今は領主同士が頻繁に文を送り合えるほど世の中が安定しているわけではないし、旅人や商人から伝わる情報にも遅れはある。
だから、それだけで疑うべきではない。
セレナはそう自分へ言い聞かせた。
席へ着くと、侍女が茶を運んできた。湯気から乾燥させた香草の匂いが立ち、杯を両手で包むと陶器越しの熱が冷えていた指へゆっくり染み込んでくる。
「先代には、我が主も幾度か助言をいただいております」
オズワルドは茶にはすぐ口をつけず、静かな調子で話し始めた。
「特に数年前、北街道をめぐって商人同士の争いが起きた折には、先代が間に入られたことで大事にならずに済んだと」
「父らしいですね」
セレナは少しだけ表情を緩めた。
父は戦よりも、その前に話をつけることを好んだ。若い頃には剣を取ったこともあるらしいが、セレナが物心ついてからの父は、何か問題が起きればまず人を呼び、帳簿と地図を広げ、相手が何を欲しがっているのかを聞く人だった。
「先代ほどの方を亡くされたこと、アルヴェイン領にとっても大きな損失でございましょう」
「そうですね」
「お若い身でのご継承となれば、ご苦労も多いことと存じます」
その言葉自体は普通だった。
セレナもそう思った。
「まだ分からないことばかりです」
「ご謙遜を。北街道の件も、早くも落ち着きを取り戻していると聞き及んでおります」
セレナは茶杯を口元へ運びかけて、ほんの少しだけ止めた。
「北街道?」
「盗賊が出るとの噂があったとか」
「……耳がお早いですね。たしかに、噂はありました」
セレナは一口だけ茶を飲んだ。少し苦みのある香草の味が舌へ残る。
「ただ、不思議なことに、実際に襲われた人は今のところ見つかっていません」
「それは何よりです」
オズワルドの表情は変わらなかった、むしろ笑顔を見せていた。
「商人の行き来も戻りつつありますし、ひとまずは安心しています」
「さすがはアルヴェイン男爵。ご継承早々、見事なことでございます」
褒められている。
それなのに、セレナの中では小さな違和感が消えなかった。
父の死を知るのは遅れた。
北街道の噂は知っている。
もちろん、商人から聞いたのかもしれない。
そう思ったところで、オズワルドが茶杯を置いた。
「西の方も調べておられるとか」
今度こそ、セレナは完全に意識を切り替えた。
「西?」
「山林の方です。近頃、人を入れておられると聞きまして」
ローヴェルとエドガーの姿が頭に浮かぶ。
城兵は入れていない。
大人数も動かしていない。
「ずいぶん詳しいのね」
声だけは変えなかった。
オズワルドは穏やかな笑みを浮かべる。
「商人や旅人というものは、よく話しますので」
「そうね」
セレナも微笑んだ。
「……最近は、山の中のことまで商人が知っているのね」
ごく短い沈黙が落ちた。
暖炉の薪が小さく爆ぜ、乾いた音が室内に響く。
オズワルドは表情を崩さなかったが、茶杯を持ち上げるまでに、ほんのわずかな間があった。
「人の口というものは、それだけ広いのでしょう」
「怖いわね」
「まことに」
二人とも笑った。
だがセレナには、もうこの会話が弔問だけではないことが分かっていた。
◇
しばらく父の話へ戻ったあと、オズワルドは何気ない調子で西部の話題へ戻してきた。
「もっとも、西の山は昔から人も少なく、さほど価値のある土地ではないと聞いております。ご領主になられたばかりで仕事も多い折、あまり人手を割かれる必要もないのではありませんか」
セレナは茶杯を持ったまま、オズワルドを見た。
「そうなの?」
「少なくとも、我が領ではそのように聞いております」
「……へえ」
指先に少し力が入った。
温かかったはずの茶杯の縁が、妙に硬く感じられる。
「……うちの山なのに、そちらの方が詳しいのね」
一瞬だけ、室内が静まった。
オズワルドの笑みは消えなかった。
「隣り合う土地ですので、昔から伝わる話もございましょう」
「そういうもの?」
「ええ」
セレナは小さく頷いた。
「父も、あの辺りのことは気にしていたみたいだけど」
実際に父が鉱石について何か知っていたとは聞いていない。
だから嘘になりすぎないよう、言葉を曖昧にした。
オズワルドの目が、ほんの一瞬だけセレナへ強く向いた。
「……先代が?」
「ええ。私は詳しくは知らないのだけど、家臣からそう聞いております」
「なるほど」
それ以上、オズワルドは尋ねなかった。
だが、聞きたかったのだろう。
どこまで知っている。
何を見つけた。
山へ誰を入れた。
セレナも同じように、目の前の男が何を知っているのか測っていた。
言葉にしなければ、互いに確かめようがない。
それが不思議に楽しくもあり、同時に腹立たしくもあった。
やがてオズワルドが立ち上がり、改めて父への弔意を述べた。
セレナも最後まで礼を崩さなかった。
「遠いところをありがとうございました」
「エルンスト様にも、アルヴェイン男爵がお元気であったとお伝えいたします」
「お願いします」
そしてオズワルドが扉へ向かったところで、セレナはふと思い出したように声をかけた。
「ああ、オズワルド殿」
男が振り返る。
「はい」
「最近、うちの領地をずいぶん熱心に見て回っている人がいるみたいなの」
オズワルドは黙った。
セレナは笑顔のまま続ける。
「そちらの領境近くでも、不審な人がいたら気をつけてくださいね」
「……承知いたしました」
「ヴァルツ子爵にもよろしくお伝えください」
「……必ず」
オズワルドは深く一礼し、部屋を出た。
◇
使者一行が城門を出たとの報告が届くまで、セレナは何も言わなかった。
ハロルドもガレスも、急かすことなく待っている。
やがて廊下から戻った兵が、
「ヴァルツ領の使者一行、城門を出ました」
と報告し、扉が閉じた。
その瞬間だった。
「……父の不幸を知ったのは遅れた」
セレナは使者が座っていた椅子を見ながら、低い声で言った。
「はい」
ハロルドが答える。
「……でも北街道の噂は知ってる」
誰も何も言わない。
「……西の山を調べてることまで知ってる」
茶杯へ伸ばした手が止まった。
先ほどまで温かかった茶はすっかり冷め、指先に触れた陶器も冷たくなっていた。
「私が継いだばかりで大変だろうってことまで、ずいぶんよくご存じだったわ」
胸の奥で、会談中ずっと押さえ込んでいたものがゆっくり熱を持ち始める。
父が死んだ。
自分が継いだ。
その時を狙ったのだとしたら。
「……馬鹿にしてる」
セレナは吐き出すように言った。
ガレスが黙っている。
「もう兵を出して――」
「閣下」
低い声に止められ、セレナは振り返った。
「……何?」
ガレスは真面目な顔で言った。
「その役は、いつも私の役です」
セレナは数秒、何を言われたのか分からなかった。
そして、これまで何度もガレスが「兵を出しましょう」と言い、そのたびに自分が止めてきたことを思い出す。
怒っているのに、思わず口元が緩んだ。
「……確かにそうね」
「ですので今日は、私が止める側に回ります」
「いつも兵を出せって言うあなたに止められるとは思わなかったわ」
「私もです」
ハロルドが横を向き、咳払いをした。
セレナは笑いそうになったが、ガレスはそこで表情を戻した。
「ですが、閣下」
「何?」
「私が腹を立てて兵を出したいと言うのと、閣下が怒って命じるのでは、重さが違います」
セレナの笑みが消えた。
「私なら腹を立てても、せいぜい剣を抜こうとするだけで済みます」
「……それも困るけど」
「閣下が腹を立てれば、領全体が動きます」
その言葉が胸へ落ちた。
兵。
金。
食料。
農民。
街道。
自分が一言命じれば、それらが動く。
もう自分の怒りは、自分一人だけのものではない。
セレナは長く息を吐き、椅子へ座り直した。
「……ずるいわね、その言い方」
「止めるのも臣下の仕事です」
「いつも止められてるのはあなたでしょう?」
「それはそれです」
今度こそ、セレナは小さく笑った。
胸の奥の怒りが消えたわけではない。
ただ、その熱を何に使うべきか考えられる程度には、頭が冷えていた。
◇
その日の夕方、ローヴェルが城へ戻った。
陽はすでに西の山へ沈み始め、窓の外には薄い紫色の夕闇が降りている。ローヴェルの外套には細かな土埃が付き、歩き続けたせいか革靴の縁も白く乾いていた。
「一つ、繋がりました」
セレナはすぐに机の上へ地図を広げた。
「誰が山を掘らせてるの?」
「そこまでは、まだ」
いつもの答えだった。
しかしローヴェルは、西の山から北西へ指を動かした。
「現場へ道具や食料を流している人間を追いました。途中で人を替えていますが、この先へ繋がっています」
指が領境を越える。
「ヴァルツ子爵領です」
セレナは何も言わなかった。
昼間、同じ場所からやってきた男が座っていた椅子へ、ゆっくり視線を移す。
「そう……確かなの?」
「少なくとも、現場へ金か物資を流している人間はヴァルツ側です。ただし、エルンスト・ヴァルツ子爵本人が命じているかまでは分かりません」
「……そう」
ハロルドが静かに口を開いた。
「証拠も、まだございません」
「分かってる……それでも限りなく黒いわね……」
誰も肯定しなかった。
誰も否定もしなかった。
セレナは地図へ視線を戻した。
分かっている。
証拠のないものを事実にしてはいけない。
ローヴェルから何度も聞いたし、自分でもそう決めてきた。
それでも、昼間の会話が頭の中で一つずつ蘇る。
父の不幸を知ったのは遅れた。
北街道の噂は知っていた。
西の山を気にしていた。
価値のない山だと言った。
こちらがどれほど調べているのか、何度も探ろうとしていた。
セレナは、昼間オズワルドが座っていた椅子をもう一度見た。
そこで男は父への弔意を述べ、丁寧に頭を下げていた。
それまで嘘だったとは思わない。
だが、それだけでもなかったのだろう。
セレナは指先でヴァルツ子爵領を示す地図の線へ触れ、そのまま静かに呟いた。
「……遅すぎた弔問、ね」




