第6話 見ている者 ― The Watcher
北街道の異変についてローヴェルから六日分の報告を受けた翌朝、セレナは執務室の大机に領内地図を広げたまま、しばらく何も書かずにその上を眺めていた。
窓の外には薄い雲が広がり、海から吹き込む湿った風が古い窓枠をかすかに鳴らしている。暖炉の火はすでに十分な熱を放っていたが、夜の冷気を吸った石壁はまだ完全には温まっておらず、机へ置いた指先には木の硬さと一緒に冷たさがじわりと伝わってきた。
北街道。
西の森。
古い林道。
移動する荷置き場。
増えている鉄材の仕入れ。
実際に襲われた者がいないのに広がり続ける、盗賊と戦の噂。
どれも一つだけなら、それほど不思議ではない。
だが並べてみれば、あまりに都合がよすぎた。
「兵を入れるべきです」
向かい側に立っていたガレスが、地図上の西の森へ太い指を置いた。
「昨日も申し上げましたが、相手が七人か十人程度なら、こちらから十五も出せば押さえられるでしょう。捕らえて吐かせる方が早い」
「……早いでしょうね」
セレナは地図から顔を上げなかった。
「でも、その十五人はどこから出すの?」
「城兵からです」
「北街道の巡回を減らす?」
ガレスがわずかに口を閉じる。
「それとも、村の収穫が終わったばかりなのに領民兵を招集する?」
「……そこまでの話ではありません」
「だったら、今いる兵を別の仕事から外すことになるし、他の兵の負担が増えるわ。」
セレナは椅子へ深く腰を下ろし、指先で地図の端を軽く押さえた。
「それに、十五人出して七人捕まえたとして、その七人が一番上とは思えない」
部屋の隅に立っていたローヴェルが、小さく頷いた。
「荷を運んでいる者が命令を出しているとは思えません」
「でしょう?」
セレナは西の森に置いた木片を見た。
「私が知りたいのは、森で荷を運んでる人の名前だけじゃない。誰がその人たちを使って、何のために人を街道から遠ざけてるのかよ」
ガレスは腕を組み、しばらく黙った。
「では、このまま見ているだけですか」
「いいえ」
セレナはそこで初めて顔を上げた。
「嫌がらせの方を先に潰す」
◇
「北街道を普通に戻します」
セレナの言葉に、ハロルドとミレイユも視線を向けた。
「普通に?」
ミレイユが聞く。
「ええ。危ないって噂で人が減ってるなら、実際に荷車を通せばいい」
セレナは街道沿いに指を滑らせた。
「毎日じゃなくていい。二日に一度、通常巡回の時間を商人にも知らせる。その時間に通りたい荷車があれば、巡回兵と同じ道を進んでもらう」
ガレスがすぐに意図を理解した。
「護送隊というほど大げさにはしない?」
「しない。兵を増やしたら、それこそ『何かある』って自分で宣伝するようなものでしょう」
ハロルドが顎に手を当てる。
「通常巡回へ商人が同行するだけなら、兵の追加もほぼ必要ありませんな」
「それに、通った人が宿で喋ってくれる」
セレナはマルクの役割を思い出しながら続けた。
「『昨日普通に通れた』『兵もいつも通りだった』って話が広がれば、領主が安全だと言い張るより信用されるでしょう?」
ローヴェルの口元が、ごくわずかに動いた。
「噂を、事実で潰すわけですか」
「そのつもり」
ミレイユが帳簿を開く。
「通行税や市場税は?」
「今まで通り。ただし、北から来る荷について、しばらく品目と量と行き先をちゃんと記録して」
「特定の商人だけ?」
「全員」
セレナは即答した。
「怪しい人だけ調べたら、調べてるって教えることになるもの」
ミレイユは少し考えてから頷いた。
「……では、市場管理の確認を厳密にする、という形にしましょう」
「それでお願い」
ガレスが低く唸る。
「表では街道を戻す。裏では荷の流れを追う、と」
「そう」
セレナはローヴェルへ視線を向けた。
「森の方は?」
「エドガーと交代で見ます。荷置き場を動かすなら、動かした先を追う」
「捕まえないで」
「そのつもりです」
「できれば接触もしないで」
「分かっています」
あまりに淡々と返され、セレナは少しだけ眉を上げた。
「……あなた、本当に戦わない方が好きね」
「斥候ですから」
ローヴェルは平然としていた。
「戦わずに済むなら、その方が仕事は楽です」
ガレスが鼻を鳴らしたが、反論はしなかった。
◇
三日後、北街道には少しずつ人が戻り始めた。
最初の巡回に合わせて進んだ荷車は四台だけだったが、その日の夕方にはすべて無事に城下へ入り、翌々日には六台、その次には旅商人まで混じった。
セレナは報告書の数字だけでなく、自分の目でも確かめるため、午後に城下の市場へ出た。
空は高く晴れ、海から吹く風は冷たかったものの、広場には荷車の軋む音や商人の呼び声が戻りつつあった。干した魚の塩辛い匂い、革製品から漂う獣脂の匂い、鍛冶場の方から流れてくる煤と熱した鉄の臭いが混ざり合い、数日前より市場全体に人の気配が濃くなっている。
「昨日、北から来たの?」
セレナが一台の荷車のそばで声をかけると、中年の商人が一瞬驚いたように目を見開き、慌てて頭を下げた。
「は、はい、閣下」
「何かあった?」
「いえ。兵の方々と途中まで同じでしたが、何も」
「盗賊は?」
「見てません」
少し離れた場所にいた別の荷運び人も会話を聞いていたらしく、横から笑った。
「俺も三日前に通りましたが、鹿しか出ませんでしたよ」
「鹿は盗賊じゃないわね」
セレナがそう返すと、周囲から小さな笑いが起きた。
それを聞きながら、セレナは胸の奥にあった固さがほんの少しだけ緩むのを感じた。
これでいい。
安全だと布告する必要はない。
通った人間が無事だったという事実そのものが、次の荷車を呼ぶ。
その日の夕方には、北街道沿いの宿の客も少し戻ったという報告がマルクから届いた。
◇
表の街道が少しずつ息を吹き返す一方で、西の森では別の動きが続いていた。
ローヴェルは二日おきに短い報告を持ち帰った。
「荷置き場がまた移りました」
「方向は?」
「南西です」
別の日には、
「昨日の夜、三人が荷を運びました。戻ったのは二人です」
「一人は?」
「別の道へ」
セレナがすぐに尋ねる。
「追えた?」
「途中までです。森を出て西へ向かっています」
「どこまで?」
「まだ分かりません」
相変わらずだった。しかし、そうした小さな情報が積み重なるにつれ、相手の動きにも輪郭が出始めていた。
荷は一度に大量には運ばれない。
同じ場所へ長く置かない。
人の出入りも固定されていない。
誰かがかなり慎重に動かしている。
そして、北街道に人が戻るにつれて、森側の動きが少しだけ増えていた。
「嫌がってる?」
セレナが地図を見ながら聞くと、ローヴェルは肩をわずかに動かした。
「そう見えなくもありません」
「……またそれ」
「断定できませんから」
セレナは口元を曲げたものの、もうその返答には慣れていた。
◇
さらに二日後。
セレナはローヴェルを執務室へ呼んだ。
窓の外では細い雨が降り始め、石造りの窓台には冷たい水滴が幾筋も流れている。室内には濡れた外套から漂う湿った革の匂いと、暖炉で燃える薪の香りが混ざっていた。
「一つ、試したいことがあるの」
セレナは机の上へ小さな木札を置いた。
掌より少し小さい、何の変哲もない木片である。
ただし中央には、アルヴェイン男爵家の紋章が焼き印で刻まれていた。
ローヴェルは木札を見て、しばらく黙る。
「荷置き場に?」
「置ける?」
「できます」
「何も取らない。誰も捕まえない。ただ置くだけ」
「文章は?」
「いらない」
セレナは木札を指先で押した。
「これだけで分かるでしょう」
ローヴェルは木札を手に取り、表裏を確認した。
「こちらが場所を知っている、と」
「そう」
「相手が逃げる可能性があります」
「逃げてもいい」
セレナは地図へ視線を落とした。
「その時にどこへ行くか見ればいい」
「荷を全部移すかもしれません」
「それも見ればいい」
「上へ報告しに行くかもしれない」
セレナはそこで顔を上げた。
「それが一番ありがたいわね」
ローヴェルはほんの少し笑った。
「かなり嫌なやり方をしますね」
「戦うよりいいでしょう?」
「それはそうです」
セレナは一度息を吐き、声を少し低くした。
「ただし、絶対に無理はしないで。木札を置くために見つかったら意味がないから」
「分かっています」
ローヴェルは木札を懐へ入れた。
「見て、戻って、伝えます」
初めて会った日に聞いた言葉だった。
セレナは静かに頷いた。
◇
翌日の夕方。
雨は昼過ぎに止んでいたが、西の森にはまだ水気が濃く残っていた。空を覆う雲のせいで日暮れはいつもより早く、木々の隙間から差し込む薄い光も、森の奥へ入るほど灰色に沈んでいく。
三人の男が、ぬかるんだ古い林道を一列になって進んでいた。先頭の男は何度か立ち止まり、そのたびに後ろの二人も足を止めた。雨上がりの森には湿った土と腐葉土の匂いが濃く漂い、濡れた外套の裾が脚へ張りつくたび、冷たい感触が布越しに肌へ伝わってくる。
聞こえるのは、枝先から落ちる水滴の音と、自分たちが踏む落ち葉の湿った音くらいだった。
鳥の声が少ない。それ自体は雨上がりなら珍しくもない。
それでも先頭の男は、一度足を止めて周囲を見回した。
「どうした?」
後ろから低い声が飛ぶ。
「……いや」
男は短く答えたものの、すぐには歩き出さなかった。
木々の間に人影はない。
足音もしない。
誰かが枝を踏んだような音も聞こえない。
それでも、いつも通っている森が妙に広く感じられた。
「行くぞ」
やがて男は再び歩き出した。荷置き場までは、もう遠くない。斜面を回り込み、苔の付いた大きな岩を越えると、見慣れた倒木が見えてくる。その先にある太い樹の根元へ、荷をまとめて置いてあるはずだった。
先頭の男が倒木をまたいだと思ったらいきなり止まった。後ろを歩いていた男が、その背へ危うくぶつかりそうになる。
「何だ」
返事がない。
先頭の男はただ、前を見ていた。
二人もその視線を追う。
荷はあった。
油布で包んだ細長い荷は昨日置いたまま木の根元に並び、縄も解かれていない。荒らされた形跡もなければ、持ち去られた物も見当たらなかった。
一見すれば、何も変わっていない。
だが三人の間に、言葉のない緊張が走った。
荷の中央。
油布の上に、本来あるはずのない物が置かれていた。
小さな木札。
先頭の男の右手が、ゆっくり腰の剣へ近づいた。
「触るな」
背後の男が囁くように言った。
誰も木札へ近づかなかった。
三人はまず周囲を見た。
右の藪。
左手の斜面。
背後の林道。
頭上の枝。
何もない。
風で葉が擦れる音すら弱く、森はただ静かだった。
だからこそ、怖かった。
もし荷を奪われていたなら、盗賊かもしれない。
仲間が捕らえられていたなら、兵が来たと分かる。
足跡が荒々しく残っていれば、何人来たかを考えることもできた。
だが、何もされていない。
誰かがここへ入り、荷へ触れず、中央へ木札だけを置き、そして消えた。
それがいつだったのかさえ分からない。
「……誰かいるか?」
一人が声を押し殺しながら問うた。
もちろん返事はない。
先頭の男は唇を舐めた。口の中が妙に乾いているのに、首筋には冷たい汗が浮かび、濡れた襟が肌へ張りついていた。しばらく待っても何も起こらない。男は剣の柄から手を離さないまま、ゆっくり木札へ近づいた。
一歩。
また一歩。
湿った落ち葉が靴の下で小さく沈むたび、その音だけがひどく大きく聞こえる。男は荷の手前で再び止まり、木札へ目を凝らした。
表側に何か焼きつけられている。
文字ではない。
紋章だった。
男の表情が固まった。
「……まさか」
後ろの二人も近づてきたが、一人が木札を拾い上げた瞬間、三人とも完全に動きを止めた。
アルヴェイン家。
見間違えようがなかった。
この土地の領主の紋章である。
男の手の中で、濡れた木札がわずかに震えた。
「いつからだ……」
誰かが呟いた。
答えられる者はいなかった。
今日見つかったのか。
昨日か。
最初の荷置き場から、すでに見られていたのか。
自分たちの顔を知られているのか。
荷を運んだ人数まで把握されているのか。
それどころか、今この瞬間もどこかから見られているのか。
三人の視線が、再び同時に森へ向いた。
木の幹。
濡れた藪。
夕闇の溜まり始めた斜面。
どこにも人はいない。
だが、今度はそれを安心材料にはできなかった。
荷は奪われていない。
仲間も捕まっていない。
兵士の姿もない。
ただ一枚の木札だけが、ここまで入ってきた者がいることを証明していた。
そして、それ以上のことは何も教えてくれない。
先頭の男はしばらく紋章を見つめていたが、やがて顔を上げた。
「荷には触るな」
「どうする?」
「戻る」
「全部置いたままか?」
「今動かしたら、どこへ持っていくかまで見られるかもしれん」
その言葉に、残る二人が黙った。
自分で口にした男自身も、最後の言葉にぞっとしたように森を見た。
すでに見られている。
そう考え始めれば、どの方向へ歩くことすら危険に思えてくる。
「……戻るぞ」
今度の声は低く、しかし明確だった。三人は荷に一度も触れず、来た道を引き返した。
歩調は来た時より速かったが、走る者はいない。走れば何かから逃げているように見えるとでも思ったのか、それとも森のどこかにいるかもしれない目を、余計に刺激したくなかったのか。
誰も振り返らなかった。
だが三人とも、背中に視線を感じていた。
その感覚だけは、森を出るまで消えなかった。
荷置き場から少し離れた斜面の上で、ローヴェルは濡れた幹の陰に身を置き、三人が林道を外れるまで動かなかった。冷たい雨水が枝から落ち、首筋を伝って外套の中へ入り込んだが、拭おうとはしない。
それだけを確認すると、ローヴェルは彼らを追ってすぐに動くこともせず、しばらくその場で待った。追われていると思わせる必要はない。
どこまで見られているのか分からない。
その方が、よほど効く。
◇
翌朝。
セレナが朝食を終えるより先に、ローヴェルは城へ戻った。執務室へ入ってきた彼の外套は朝露で湿り、革靴には森の黒い泥が厚く付いていたが、その表情にはいつもとほとんど変わらない落ち着きがある。
「動きました」
その一言で、セレナは手にしていた書類を置いた。
「どう動いたの?」
ローヴェルは地図の前へ進み、荷置き場から西へ指を動かした。
「三人とも荷には触れませんでした。一度森を出て、その後二手に分かれています」
「一人は?」
「南西へ」
「残りは?」
ローヴェルの指が、さらに西へ進めて森を抜け、領境へ近づいていく。
「こちらです」
セレナはその先を見た。
アルヴェイン領の西端。
さらにその向こう。
今まで地図上のただの線だった領境が、急に意味を持って見えた。
「追える?」
「もうエドガーが見ています」
「マルクは?」
「西へ向かう道沿いの宿を当たっています」
セレナは地図へ置かれた木片を指先でゆっくり動かした。
誰も捕まえていない。
剣も抜いていない。
兵も増やしていない。
それでも、相手は動いた。
「これで、少し近づいた?」
セレナが聞くと、ローヴェルは地図を見たまま答えた。
「少なくとも、昨日までよりは」
セレナは小さく頷いた。
戦わなくても、相手を動かすことはできる。
追いかけなくても、逃げ道を選ばせることはできる。
そして選んだ道には、その人間が隠したかったものが残る。
セレナは西へ伸びる街道と領境をしばらく見つめたあと、静かに息を吐いた。
こちらが見ていることを、向こうはもう知った。
次は、向こうがどこを見るのか。
それを見ればいい。




