第5話 秋支度 ― Preparing for Winter
ローヴェルがエドガーとマルクを加え、領内の森や街道を見始めてから六日が過ぎた。
その間、西の森に運び込まれていた荷の正体が分かったという知らせも、不審な者を捕らえたという報告も届いていない。ローヴェルからはハロルドを通じて、その日にどの辺りを見る予定なのかという簡単な連絡だけが入り、セレナも詳しい報告を催促しなかった。
もちろん、気にならないわけではない。
執務室に広げた領内地図へ目を向ければ、西の森林と北街道の間に自分ではまだ説明できない空白があることを思い出すし、市場から上がってくる鉄材価格の記録を見るたび、森へ運び込まれていた細長い荷物のことも頭に浮かぶ。
それでも、情報が揃わないうちに答えだけを欲しがるのは、結局のところ自分たちで都合のいい話を作るのと変わらない。何より、ローヴェルたちが領内を歩いている間にも、領主の仕事は待ってくれなかった。
収穫が終わり始めたアルヴェイン領には、冬を迎える前に片づけなければならない仕事が山ほど残っていた。
◇
「南の三村ですが、今年はやはり平年よりかなり落ちます」
朝の執務室で、ミレイユが開いた帳簿をセレナの方へ向けた。
窓の外では朝靄が低い畑に薄く残り、刈り取られた麦畑の向こうで農民たちが束ねた藁を荷車へ積み込んでいる。暖炉には火が入っていたものの、夜の冷気を吸った石壁はまだ冷たく、机へ置いたセレナの手にも木肌を通じてひんやりとした感触が伝わってきた。
「どれくらい?」
「村によって差はありますが、一割から二割ほど。低い場所の畑ほど悪いです」
「長雨のせい?」
「それだけではありません」
今度はオットーが、机上に広げた簡単な村周辺図へ指を置いた。
「この辺りです。雨が多かったこと自体は確かですが、水が抜けるのに時間がかかりました。排水路の一部が浅くなっています」
「土が溜まった?」
「土砂と草、それに枝です。何年か浚っていなかった場所もあります」
セレナは地図へ身を寄せた。
小川から分かれた水路と、その周辺に並ぶ畑が簡単な線で描かれている。
「つまり、川が大きく溢れたから全部やられたんじゃなくて、畑に入った水がなかなか抜けなかったのね」
「その通りです」
「来年も同じくらい雨が降れば?」
オットーは少しだけ肩をすくめた。
「何もしなければ、同じ場所がまたやられる可能性は高いでしょう」
セレナは椅子へ背を預け、少し考えた。
「先に税の話をしよう。今年、南三村から去年と同じだけ取ったらどうなる?」
ミレイユが帳簿を確認する。
「取れないことはありません。ただし、種麦か冬越し分を削る家が出ます」
「……それはしない。種を取ったら来年の収穫まで減るもの」
「では減免しますか?」
「一部は」
そう答えてから、セレナはもう一度オットーの図面へ目を落とした。
「今年、まだ残ってる役務は?」
ハロルドが記憶を確かめるように少し目を細めた。
「村によりますが、多くの家で数日分は残っております」
「なら、麦で納めてもらう分の一部を役務に振り替えられない?」
ミレイユが顔を上げた。
「排水路の浚渫に?」
「それだけじゃない。道も橋もあるでしょう」
セレナは指を折りながら続けた。
「南の三村は収穫が少ない。だったら種麦や冬越しの分まで取るより、その一部を人手で納めてもらう。その人手で排水路を直せば、来年の収穫を守れるかもしれない」
ハロルドが静かに頷いた。
「前例はございます。税の一部を労役に換えること自体は珍しくありません」
「ただし」
セレナはそこで三人を見た。
「何日でも働かせていいことにはしないで。決めた役務の日数を超えるなら、そこから先は給金を払う」
ミレイユが少しだけ眉を上げる。
「支出は増えます」
「分かってる。でも、税が払えないからって冬の間ずっとただ働きさせたら、麦を全部取るのと大して変わらないでしょう」
少しの沈黙のあと、ミレイユが羽根ペンを取った。
「では、南三村については現物税を一部減らし、残存役務を治水と道路整備へ。規定日数を超えた作業は日当を支給する形で試算します」
「お願い」
「また帳簿が面倒になりますね」
「……ごめん」
「仕事ですから」
淡々とした返事だったが、ミレイユの口元にはわずかな笑みがあった。
◇
昼前、セレナはオットーとともに南側の村へ出た。
収穫を終えた畑の間を通る道には、何度も荷車が通った深い轍が残っており、前日に少し雨が降った場所では車輪跡の底にまだ薄く水が溜まっている。馬がそこへ蹄を踏み入れるたびに湿った土が柔らかく沈み、冷たい泥と刈った藁の匂いが風に混じって流れてきた。
「ここの道もひどいわね」
馬を降りたセレナが轍の横へしゃがみ込むと、オットーも隣で地面を見る。
「水の逃げ場がありません」
街道の脇には浅い溝らしきものが残っていたが、落ち葉や土でほとんど埋まり、雨水が道へ戻っている。
「石を入れれば直る?」
「石だけ入れても、また水で崩れます。先に溝を掘り直して、水を逃がした方がいいでしょう」
セレナは少し泥の付いた指先を布で拭いながら立ち上がった。
「道を直すって、地面に石を敷けばいいわけじゃないのね」
「水は道を壊しますからな」
「畑も道も同じか」
「大体は」
オットーが何でもないように答えたので、セレナは少し笑った。
そのまま畑沿いを歩いていくと、問題の排水路へ着いた。
水路と呼ぶには浅く、底には黒い泥と枯れ草が積もり、一部には折れた枝まで引っかかっている。近くへ寄ると湿った土と腐りかけた植物の重い匂いが鼻につき、セレナが長靴の先で泥を軽く押すと、柔らかな地面がぬるりと沈んだ。
「これじゃ流れないわね」
「夏はもう少し水があります。その分、余計に詰まります」
オットーは上流を指した。
「ここを浚い、その先の小川へ抜ける部分を広げるだけでも違います。ただし、下流側まで見なければなりません。こちらだけ流れを良くしても、先で詰まれば意味がない」
「……上から下まで?」
「はい」
セレナは思わず水路の先を目で追った。
地図の上では短い一本の線だったが、実際には畑と畑の間を曲がりながら、ずっと先まで続いている。
「……思ったより長いわね」
「水は地図みるより面倒です」
また淡々と返され、セレナは苦笑した。
◇
午後はルーヴ橋へ回った。
橋では大工たちが傷んだ床板を外し、下から新しい支材を組み込んでいた。木槌を打ちつける乾いた音が川面へ響き、削ったばかりの木材からは新鮮な樹脂の香りが漂っている。
「大工は給金?」
「もちろんです」
オットーが答えた。
「橋の支材を組む作業を素人へ任せるわけにはいきません。ただし、木材を運ぶ、土砂を退ける、古い板を片づける程度なら村の役務でもできます」
「なるほど」
セレナは作業中の橋へ近づき、手すり代わりの木材へ触れた。表面にはまだ鉋の跡が残り、乾いた木のざらつきが掌へ伝わってくる。
「全部を役務にするんじゃなくて、できる仕事だけ任せるのね」
「農民に橋を設計させる領主はいません」
「……それはそうだけど」
川を覗き込むと、前日の雨で少し増えた水が橋脚へ当たり、白い泡を作って流れていた。
「橋脚の周りは大丈夫?」
「今のところ。ただ、春になったら一度よく見た方がいいでしょう。水が当たり続ければ根元が削られます」
「それも仕事が増える話?」
「はい」
セレナはしばらく川を眺めてから、静かに息を吐いた。
「……領地って、放っておくと壊れるものばかりね」
オットーは少し考えたあと、
「壊れる前に直すのが我々の仕事です」
と答えた。
その言葉は妙に納得できたが。
「……時には、何も考えずに動き回りたい……」
◇
帰り道、村外れの荒れ地でセレナは馬を止めて、周りを見た。低い灌木と背の高い草が広がり、ところどころに古い畝の跡らしい起伏が残っている。
「ここ、昔は畑だった?」
「二十年ほど前までは」
「なんで使わなくなったの?」
「村の家が減った時期がありまして。耕す者が足りなくなったそうです」
セレナは馬上から土地を見渡した。
広くはない。
ただ、村にも近く、用水も少し延ばせば届きそうだった。
「戻せない?」
「戻せます。ただし、草を刈り、根を抜き、石を拾い、土を起こさなければなりません」
「また人手ね」
「また人手です」
セレナは笑いながらも、すぐには開拓を命じなかった。
「今すぐ全部やるのはやめよう」
「よろしいので?」
「畑だけ増やしても、耕す人がいなければ荒れるでしょう?」
オットーが頷く。
「では、来年使えそうな部分だけ調べておきます」
「お願い。排水も見てね。せっかく開いた畑が水浸しになったら笑えないもの」
海から吹いてきた風が草原を渡り、乾いた草をざわざわと揺らしていく。
道路を少し直す。
水路を少し掘る。
橋を使える状態に保つ。
使われなくなった畑を少しずつ戻す。
領主になる前に想像していた「領地を豊かにする」という言葉は、もっと大きく華やかなものだと思っていた。
実際は、こういう小さな仕事を途切れさせないことなのかもしれない。
◇
城へ戻った頃には、夕日が西の空を赤く染めていた。
執務室へ入ったセレナは外套を脱ぎ、冷えた両手を暖炉へかざした。火の熱が指先へ戻ってくると、午前から歩き続けていた脚にも急に疲労を感じ、椅子へ座った瞬間、思わず小さく息が漏れる。
机の上には、出発した時より書類が増えていた。
冬用の薪。
城兵の勤務。
市場の鉄価格。
修理用木材。
それを呆然と眺めていると、扉が叩かれた。
「……どうぞ」
入ってきたローヴェルは、手に何枚かの紙を持っていた。
「まとまりました」
セレナは疲れを忘れて顔を上げた。
「六日分?」
「話せる程度には」
ハロルド、ガレス、ミレイユも呼ばれ、机の上には再び領内地図が広げられた。
「まずマルクです」
ローヴェルが一枚目を置く。
「北街道沿いの宿を四つ回っています。商人、荷運び、馬屋にも聞いたそうですが、街道を避ける者は確かに増えています」
「襲われた人は?」
「本人は一人も見つかっていません」
ガレスが眉を寄せる。
「それだけ噂が広がってるのにか?」
「はい」
ローヴェルは次の紙へ指を移した。
「ただし、北から来る荷そのものが全部止まっているわけではありません。鉄材、工具、馬具を扱う者の中には、以前と変わらず通っている商人もいます」
ミレイユが身を乗り出した。
「鉄は値上がりしています」
「そこが妙です」
「何が?」
「ある商人が、普段より多く鉄材を仕入れています」
セレナは先ほどまで眺めていた市場報告を思い出した。
「でも市場には出てない?」
「少なくとも城下には」
セレナの表情が変わった。
「次はエドガーです」
ローヴェルは西の森を指した。
「三日かけて周囲を見ています。例の古い林道だけではなく、獣道や木こり道にも、人が繰り返し通った跡がありました」
「どのくらい広い?」
セレナが聞くと、ローヴェルの指が森の中を数か所移動する。
「ここから、沢沿いを通ってこの辺りまで」
予想していたより広かった。
「同じ人たち?」
「分かりません。ただ、普段より人の出入りが増えているのは確かです」
ガレスが腕を組む。
「お前が見ていた荷置き場は?」
「移っています」
その言葉で、全員の視線がローヴェルへ集まった。
「気づかれた?」
「そうは思いません」
「どうして?」
「逃げるように片づけた跡がない。最初から、一か所へ長く置かないつもりだったように見えます」
ローヴェルは地図上の別の場所へ指を置いた。
「荷を置いて、また移す。そういう使い方でしょう」
暖炉で薪が小さく爆ぜた。
セレナは椅子へ背を預け、六日間で集まった情報を頭の中へ並べていった。
北街道を避ける者は増えている。
だが、実際の被害者は出てこない。
鉄材は入ってきている。
なのに市場へ出ない分がある。
西の森では、人が複数の道を使っている。
荷置き場は移動している。
セレナはゆっくりと地図へ視線を落とした。
「……街道から人を遠ざけてる?」
ローヴェルが答えるまで、わずかな間があった。
「可能性はあります」
「その間に、別の道で荷を動かしてる」
「それも可能性です」
セレナは顔を上げ、少しだけ不満そうにローヴェルを見る。
「……あなた、本当に断定しないわね」
「間違った断定は、知らないより危ないので」
いつもの調子だった。
セレナは苦笑しそうになったが、すぐに地図へ視線を戻した。少し前まで、北街道の静けさは、何が起きているのか分からないから不気味だった。
だが今は違う。
静かなこと自体が、不自然だった。
何も起きていないから、人がいないのではない。
誰かが人を近づけたくない理由がある。
その可能性が、ようやく輪郭を持ち始めていた。
セレナは西の森へ置かれた小さな木片へ指を添え、その硬い感触を確かめるように、しばらく動かなかった。




