第4話 目と耳 ― Eyes and Ears
ローヴェルが西の森へ入ってから、城の窓に差していた午後の日差しは少しずつ弱まり、やがて海の方角から押し寄せてきた灰色の雲に隠された。
セレナは執務室の机に向かい、北街道の巡回記録やルーヴ橋の修理状況へ順番に目を通していたが、羽根ペンを動かす手は何度か止まり、そのたびに窓の外へ視線が向いた。海から吹き上げてくる風には昼間より強い湿り気が混じり、古い窓枠が低く鳴るたび、冷え始めた石壁から伝わる寒さが足元へじわじわと広がってくる。
森へ送り込んだ、という言い方は正しくない。本人が続きを調べたいと言い、自分はそれを許可しただけだ。それでも、雇うと決めたばかりの人間が一人で武装した者の痕跡を追っていると考えると、どうしても落ち着かなかった。
もう一度読み終えたはずの巡回報告へ目を落としたところで、机の向こう側から紙を揃える音が止まった。
「男爵閣下」
ハロルドの声に顔を上げると、老家令がわずかに目を細めてこちらを見ていた。
「何?」
「その報告書は、先ほどから三度ほどお読みになっております」
セレナは手元へ視線を戻した。
北街道を通過した荷車の数、旅人数、巡回兵からの簡単な報告が並んでいる。確かに内容には見覚えがあったが……。
「……気のせいでは?」
「少なくとも私が数えた限りでは」
ハロルドの声にからかう調子はなかったが、それがかえって恥ずかしく、セレナは羽根ペンを置いて椅子の背へ体を預けた。昼から座り続けていたせいで肩の付け根が重く、指で軽く押すと凝った筋肉に鈍い痛みが走る。
「まだ給金の額すら決めてないのよ。それなのに最初の仕事が、武装した人間がいるかもしれない森の追跡って……」
「ローヴェル本人が希望したことです」
「分かってるわ」
机の脇で燃える暖炉から、薪の乾いた香りとわずかな煙の匂いが漂ってくる。その暖かさとは反対に、日が傾くにつれて部屋の石壁は冷え、室内には夜の気配が少しずつ入り始めていた。
「斥候は見て帰るのが仕事だって、自分で言ってたものね」
「その言葉を信じるしかございますまい」
セレナが小さく息を吐いた、そのときだった。廊下の向こうから靴音が近づいてきた。
走ってはいない。
焦っている様子もない一定の歩調が扉の前で止まり、二度、控えめな音が響く。
「どうぞ」
扉が開くと、冷たい夜気とともに湿った土や落ち葉の匂いが室内へ入り込んだ。
ローヴェルだった。
外套の肩や裾には細かな枯れ葉が付着し、丈夫そうな革靴はくるぶし近くまで黒い泥に汚れている。額には乾いた汗の跡が残り、頬にも細い枝で擦ったらしい赤い線が一本あったが、呼吸は落ち着いており、怪我をしている様子もない。
その姿を確認した途端、セレナは自分でも気づかないうちに肩から力を抜いていた。
「無事だったのね」
「危なくなる前に戻りました」
ローヴェルは当然のことのように答え、扉を閉めてから部屋の中へ進んだ。その言葉を聞き、セレナは昼間の面談で聞いた話を思い出した。
逃げるべき時に逃げたから生き残った。
あの言葉は、臆病さを意味していたわけではないのだろう。
「それならいいわ。座って」
「その前に、一つ」
ローヴェルは腰の脇に付けていた小さな革袋を外し、机の上へ置いた。口を開くと、中から短く切れた麻紐が一本出てくる。
「何?」
「荷を縛っていたものだと思います」
セレナが指先でつまみ上げると、麻紐はまだ少し湿っており、粗い繊維が皮膚へざらりと引っかかった。鼻先へ近づけると、土の匂いに混じって微かに油のような臭いが残っている。
「森の奥に?」
「はい。少し説明した方が早いでしょう」
セレナはすぐにガレスを呼ばせた。
◇
四人が机を囲むと、ローヴェルは結論から話すのではなく、地図の上で自分が辿った順番をなぞりながら報告を始めた。
「昨日確認した分岐から西へ追いました。三日経っていますので細かい足跡はかなり崩れていますが、少なくとも五人、多ければ七人ほどが同じ場所を何度か往復しています」
「一度荷を運んだだけじゃないの?」
セレナが身を乗り出すと、ローヴェルは地図の西側に描かれた森へ指を置いた。
「一度なら、ここまで地面は踏み固まりません。何度か同じ道を使っています」
指がさらに西へ動く。
「この辺りに、古い林道があります。今は木こりくらいしか使わないそうですが、足跡はそこへ出ています」
「荷車も?」
「途中までです。奥は狭すぎるので、荷車を置いて人力で運んでいます」
ガレスが腕を組んだ。
「何を運んでいた?」
「分かりません」
ローヴェルは迷いなく答えた。
「ただし、箱や樽のような形ではなさそうです。地面に残った跡と、この紐から考えると、細長い物を何本かまとめて運んだ可能性があります」
セレナは手元の麻紐へ目を落とした。
「……武器?」
「可能性はあります」
そこでローヴェルは言葉を切り、すぐに付け加えた。
「ですが、農具や工具でも似た跡になります。今のところ、武器だと言える材料はありません」
ガレスが何か言いかけたが、セレナは先に小さく頷いた。
「続けて」
「林道の先に、小さな荷置き場らしい場所があります」
「野営地ではないの?」
「違うでしょう」
ローヴェルは地図の脇に置かれていた小さな木片を取り、一か所へ置いた。
「長く人がいるなら、生活の跡がもっと残ります。焚き火の灰、食べ物の残り、寝床、排泄場所。それらがほとんどありませんでした。荷を一時的に置き、休んだらまた動くための場所だと思います」
セレナは地図を見つめながら、森の中に人が荷を運び込んでいる光景を頭の中で組み立てた。
「人数は五人から七人?」
「荷を運んでいるのは、そのくらいだと思います。ただ、別に二か所、不自然な跡がありました」
「不自然?」
「人が何度も同じ場所に立っています」
ローヴェルは木片を二つ追加し、一つを林道が見下ろせる場所へ、もう一つを谷への入口付近へ置いた。
「ここなら林道を見られる。こちらからは谷へ入る道が見えます」
ガレスの目が細くなる。
「見張りか」
「可能性が高いでしょう」
セレナは二つの木片を交互に見た。
「盗賊でも見張りくらい置くんじゃない?」
「置きます。ただ、少し動きが整い過ぎています」
ローヴェルは腕を組むこともなく、淡々と地図を見ながら続けた。
「荷を運ぶ人間が勝手に歩き回った跡が少ない。通る場所がある程度決まっていて、見張りらしい場所も一定しています。少なくとも一人か二人は、こういう動きに慣れた者が混じっていると思います」
「兵士?」
「兵士か、以前兵士だった者か。それ以上は分かりません」
ガレスが低く息を吐いた。
「確認できたのが五から七、それに見張りがいる可能性か」
「はい」
「他にもいる可能性は?」
「あります」
ローヴェルの返事は短かった。
それだけで十分だった。
◇
「兵を出すか」
ガレスはしばらく地図を見たあと、太い指で林道の辺りを叩いた。
「十二人ほどあれば、様子を確認しながら押さえられる。相手が七人程度なら十分です」
セレナはすぐには答えず、地図に置かれた木片へ視線を向けた。
「七人なら?」
「問題ないです」
「十五人いたら?」
「増援が必要になります」
「もっと奥に仲間がいたら?」
ガレスの指が止まった。
セレナは机へ両手を置き、冷えた木の感触を掌に感じながら考えた。ローヴェルが確認したものだけでも不審ではあるが、それが敵対行為なのか、密輸なのか、それともまったく別の事情なのかは分からない。
「それに、まだ相手が何者かも分かってない」
「見張りを立てて、森へ荷を隠すような連中です」
「だから調べる必要があるの。でも今兵を入れたら、向こうは私たちが気づいたと知るでしょう」
ガレスは黙って、横で聞いていたローヴェルが静かに頷く。
「私も、まだ触らない方がいいと思います」
「理由は?」
ガレスが彼へ顔を向けた。
「捕まえることだけが目的なら、今でも可能かもしれません。ただ、誰が荷を持ち込み、どこから来て、どこへ運ぶのかは分からなくなる」
セレナはその言葉を聞きながら、地図の上の小さな木片を見つめた。数人を捕らえることより、その後ろにあるものを知る。
今は、その方が価値がある。
「もう少し見るわ」
セレナは顔を上げた。
「通常の巡回はそのまま。兵は森へ入れない」
「承知しました」
ガレスが頷く。
「ローヴェルは引き続き――」
そこまで言いかけたところで、ローヴェルが少し手を上げた。
「その前に、一つお願いがあります」
「何?」
「人が欲しいです」
思いもしなかった言葉に、セレナは目を瞬かせた。
「昨日は一人の方がいいって言わなかった?」
「追跡だけなら一人の方がいいです」
ローヴェルは地図の西の森から北街道へ指を滑らせ、その距離を示すようにゆっくり動かした。
「ですが私一人で領地全部を見るのは無理です。森に入っている間は街道を見られない。北へ行けば西は見られない。宿場と市場を毎日回っていたら、追跡に出る時間がなくなります」
あまりにも当然の話だった。
セレナは、自分がどこかで「腕のいい斥候を一人雇えば、それで目が増える」と考えていたことに気づき、少し恥ずかしくなった。
「……何人くらい?」
「とりあえず、最初は二人いれば十分でしょう。それからは状況見て増やしていくかと」
「わかったわ。どんな人がいい?」
「私と同じことができる必要はありません」
ローヴェルは森を指した。
「森を知っている者」
続いて北街道へ指を置く。
「街道を知っている者」
セレナはその指先を見たあと、ふと思い出してハロルドへ顔を向けた。
「……三日前に候補に挙がっていた二人」
「猟師と荷運び人ですな」
「名前は?」
「猟師のエドガーと、荷運び人のマルクです」
ローヴェルが二人の名前を小さく繰り返す。
「どんな人です?」
ガレスが答えた。
「エドガーは森と獣道に詳しい。足跡も読める。マルクは長く北街道で荷を運んでいて、宿屋や商人に顔が利く」
「使ってみないとわからないとこもありますが、それなら十分かと」
あまりにも即答だったので、セレナは眉を上げた。
「でも、二人ともあなたみたいに全部できるわけじゃないでしょう?」
「全部できる必要はありません」
ローヴェルは何でもないことのように答えた。
「森のことは森を知る者に見てもらい、街道のことは街道を知る者に見てもらえばいい。私が欲しいのは、自分の代わりではなく、自分では見られない場所を見る人間です」
その言葉を聞き、セレナは地図へ目を落とした。
同じ目を増やすのではない。
違うものを見る目を集める。
それなら、領地を見る範囲は一気に広がる。
「ハロルド」
「はい」
「二人に声をかけて。仕事内容と給金を説明して、やる気があるか聞いてみて」
「正式に雇いますか?」
「まだ。まずローヴェルと一緒に動いてもらってから決めたい」
ローヴェルも頷いた。
「その方がいいでしょう」
「あなたが判断する?」
「私と共にで働くなら、最低限は」
セレナは思わず少し笑った。
「もうすっかり責任者ね」
「いや、男爵閣下直属の斥候として雇われる話だったと思いますが……」
「そうだったわ」
と苦笑まじりでセレナは答えた。
◇
話が終わったあと、セレナは地図の前に一人残っていた。
窓の外では日が完全に落ち、見えていた海も黒い闇へ溶け込んでいる。潮気を含んだ風が窓枠を低く鳴らし、暖炉の火が小さく揺れるたび、乾いた薪と焦げた木の匂いが室内へ広がった。
机の上には、北街道、西の森林、領境、城下町が描かれている。昨日まで、それらはただの場所だった。
今は違う。
西の森にはローヴェルが見る痕跡がある。森や獣道には、エドガーが知っているものがある。北街道には、マルクが知る人と荷の流れがある。
セレナは机の隅に転がっていた小さな木片を三つ取り、地図の上へ一つずつ置いた。硬い木片が紙へ触れるたび、小さな乾いた音が室内に響く。
西の森。
北街道。
そして領境へつながる道。
「これで少しは、見えるようになるかしら」
書類を片付けていたハロルドが、その言葉に手を止めた。
「目が増えれば、見えるものも増えましょう」
「そうね」
セレナは頷きながら、昼間にローヴェルが何気なく口にした言葉を思い出した。
『見えるものが増えれば、嫌なものも増えますよ』
地図の上に置かれた三つの木片を眺めていると、その言葉が妙に現実味を帯びて感じられた。
「……それは、あまり嬉しくないわね」
ハロルドが小さく笑う。
セレナも口元をわずかに緩めたものの、視線は西の森から離さなかった。
見えないままでいるよりは、ずっといい。
……たとえ、そこで見つけるものが嫌なものであったとしても。




