第3話 斥候 ― The Scout
斥候に向く人材を探すようハロルドとガレスへ頼んでから、三日が過ぎた。
その間も領地の仕事が減ることはなく、セレナは朝から税収の見込みを確認し、昼にはルーヴ橋の応急修理に必要な木材の手配を決め、夕方には北街道の巡回報告へ目を通していた。街道を利用する商人はまだ以前ほどには戻っていなかったものの、兵を少人数で巡回させ始めたことで急激な悪化は見られず、鉄材の価格もわずかな上昇で踏みとどまっている。
ただ、森へ入った荷車の轍については進展がなかった。
巡回兵には不用意に林へ入らないよう命じ、現場周辺もできるだけ踏み荒らさないようにしてある。だが秋の空は変わりやすく、雨が降れば地面に残った痕跡など簡単に消えてしまう。
だからといって、見方の分からない人間を何人送り込んでも意味はない。
そのことが、セレナには以前よりよく分かるようになっていた。
三日目の朝、執務室の窓から差し込む光は淡く、昨夜の冷気を残した石壁に触れた空気にはまだひんやりとした感触があった。暖炉で燃える薪の匂いに、机の上へ積み上げられた帳簿の古い紙とインクの匂いが混ざる中、セレナが前日の報告書を整理していると、扉が二度叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのはハロルドとガレスだった。二人とも手には何枚かの紙を持っていた、それを見たセレナは羽根ペンを置いた。
「見つかった?」
「候補は何人か」
ガレスが答えながら机の前へ進み、ハロルドもその隣へ紙を置いた。
「三日間で、城兵、村長、宿屋、森番、それから街道沿いの者にも聞いております。腕が良いというだけなら何人も名前は挙がりましたが、閣下がお求めになった条件に近い者となると、かなり限られました」
「どんな人?」
セレナが身を乗り出すと、ハロルドが一枚目の紙を示した。
「まず、北西部の村に住む猟師です。四十前後の男で、この辺りの森なら獣道までほとんど把握しているとのこと。足跡を追うこと、獣の種類や数を見分けること、それに水場や野営に適した場所を探すことについては、森番からも腕を保証されています」
「かなり良さそうね」
「森を見るだけなら、城兵より上でしょうな」
ガレスも認めたが、そのまま続けた。
「ただし、人を追った経験はほとんどない。戦場も知らんそうです。敵兵を見て数を数えろ、陣地を見て意図を読め、と言われれば難しいでしょう」
セレナは小さく頷き、一枚目の紙を自分の方へ引き寄せた。
「次は?」
「荷運びをしている男です」
今度はハロルドが二枚目を差し出した。
「長く北街道を使っており、宿場や商人には顔が広いようです。荷車の流れや街道の状態にも詳しく、どこで何が売れているか、どの道が使われなくなったかといった話にはかなり強いとのことです」
「私が市場で知りたかったことに近いわね」
「はい。ただ、こちらは森や追跡に関しては専門外です」
ガレスが紙へ視線を落とす。
「戦が始まった時に敵の様子を見に行かせる人間ではありませんな」
セレナは二枚の紙を並べた。どちらも使えないわけではない。むしろ、自分が欲しかった仕事の一部分については、兵士より適している可能性すらある。
「この二人は覚えておいて」
ハロルドが顔を上げた。
「候補として?」
「ええ。今回の仕事とは少し違うかもしれないけど、役に立たないとは思わないわ」
街道を知る人間と、森を知る人間。領地を知るための目は、一人だけで足りるものではないのかもしれない。そんな考えが頭をよぎったが、今は目の前の問題を優先することにした。
「それで?」
セレナが三枚目の紙を見る。
ガレスがその上へ太い指を置いた。
「条件に一番近いのは、この男です」
「名前は?」
「ローヴェル。元傭兵斥候です」
セレナは初めて聞く名前を心の中で繰り返した。
「斥候そのものなのね」
「ええ。傭兵仲介をしていた男から話を聞きました。戦場での偵察、行軍路の確認、地形を見る仕事、それから宿場や村で話を拾うこともしていたそうです」
「今は?」
「どこにも所属していません」
「城下から半日ほどの宿場に滞在していたところまで確認しています。使いを出したところ、仕事の話なら聞くとのことで、昼にはこちらへ来る予定です」
セレナは三枚の紙をもう一度見比べた。
「じゃあ、まず会ってみるわ」
◇
昼を少し過ぎたころ、ローヴェルは城へやってきた。
元傭兵斥候。
その言葉を聞いた時から、セレナは何となく人物像を想像していた。痩せた顔に鋭い目を持ち、周囲を絶えず警戒しているような、近寄るだけでこちらまで緊張する男である。
だから、ハロルドに案内されて執務室へ入ってきた人物を見た瞬間、セレナはほんのわずかに目を瞬かせた。
三十代半ばほどだろうか。
日に焼けた顔には旅暮らしの長さを感じさせる細かな皺があり、短く切られた茶色の髪も、少し伸びた顎髭も特別目立つものではない。使い込まれた外套の下には革の上着を着込み、腰には剣と短剣、背には弓を負っているが、どれも装飾より実用を優先したものばかりだった。
体つきも大柄ではない。
目つきも別に鋭くない。
市場を歩いていれば、旅慣れた護衛か傭兵の一人として、そのまま人混みに紛れてしまいそうだった。
ローヴェルは部屋の中央まで進むと、セレナへ頭を下げた。
「ローヴェルです。仕事の話だと聞きました」
「セレナ・アルヴェインよ。急に呼び出して悪かったわね」
「いえ。今は決まった仕事もありませんので」
受け答えも普通だった。セレナは思わず彼の顔をもう一度見てしまう。それに気づいたローヴェルが少し首を傾げた。
「何か?」
「……もっと目つきが鋭くて、近寄りがたい人を想像していたの」
口にしてから少し失礼だったかと思ったが、ローヴェルは怒る様子もなく数秒黙り、それから眉をわずかに上げた。
「それは斥候というより、見るからに怪しい男では?」
隣にいたガレスの口元が歪み、ハロルドは咳払いをしながら顔を少し背けた。セレナも頬がわずかに熱くなるのを感じる。
「……言われてみればそうね」
「斥候にも色々おります。私は普通の方でしょう」
その言葉が本当なのかどうか、今の段階ではまだ分からなかった。
◇
四人が大机を囲むと、セレナはローヴェルの前歴から聞くことにした。
「傭兵団では斥候をしていたの?」
「はい」
「どのくらい?」
「十年ほどです」
そこで初めて年数を聞き、セレナは少し眉を上げた。
「かなり長いのね」
「生き残っているうちに長くなりました」
冗談なのか本気なのか判断しにくい言い方だった。
「どんな仕事を?」
「行軍路の確認、敵兵の位置や数、野営できる場所、川の深さ、渡河点、橋の状態、地形を見ること。それと、敵の補給がどこから来ているかを見る仕事もありました」
ローヴェルは少し考え、さらに続けた。
「戦がない時なら、宿場や村で話を聞くこともあります。商人は色々な場所を行き来しますから、下手な兵士より周辺のことを知っています」
その答えに、セレナは少し身を乗り出した。
「敵陣に忍び込んだりは?」
「必要なら近くまでは行きますが、中へ入ること自体が仕事ではありません」
ローヴェルは淡々と答えた。
「斥候は見て、戻って、伝える仕事です。戻れなければ、見たことも意味がありません」
セレナには、その言葉が妙に納得できた。
「今は傭兵をしていないの?」
「所属する団がなくなりました」
「解散したの?」
それまでほとんど変わらなかったローヴェルの表情が、わずかに硬くなる。
「その前に、ほとんど死にました」
部屋に小さな沈黙が落ちた。暖炉から漂う薪の焦げた匂いの中で、セレナは彼の顔を見つめた。
「戦で?」
「はい。味方側の別の部隊が予想より早く崩れて、その穴から敵騎兵が入りました。隊長も副長も死んで、団として戦える人数ではなくなった。残った者も散って、その後に解散です」
ガレスが腕を組んだ。
「お前は、なぜ生き残った?」
軍人らしい重い問いに、ローヴェルは視線を逸らさなかった。
「逃げるべき時に逃げたからです」
短い言葉だった。セレナが気になったのは、逃げたことそのものではない。
「いつ、逃げるべきだと思ったの?」
ローヴェルが少しだけ意外そうな顔をした。
「右翼が崩れる前です」
「どうして?」
「正面の敵が急に押してこなくなりました。その少し前に、敵騎兵が何騎か側面へ消えています。右翼にいた味方は元々あまり持ちそうになかったので、そちらへ回ったと思いました」
「それだけで?」
「後ろに橋が一本しかありませんでしたから。右翼が崩れて騎兵に橋を押さえられれば、退路がなくなります」
ローヴェルは隊長にも伝えたが、まだ持つと判断されたという。
「結果は?」
ガレスが聞く。
「伝えた通りです。持ちませんでした」
声には自慢も恨みもなかった。ただ、起きたことをそのまま話している。セレナは机の下で指を軽く組み直した。危険が起きてから気づいたのではない。
その前に、小さな変化を拾っていた。
「一つ、実際に見てもらいたいものがあるの」
セレナは机上に置いていた地図をローヴェルの方へ向けた。
「三日前、北街道で荷車の轍を見つけた。街道から森へ入って、戻った跡がない」
「争った跡は?」
「ない。血も死体も見つかっていないわ」
「その後、雨は?」
「降ってない」
ローヴェルは地図をしばらく眺めた。
「なら、まだ多少は残っているでしょう」
「見れば分かる?」
「見ないうちから分かるとは言えません」
セレナは一瞬黙ったあと、わずかに笑った。
「その答え、嫌いじゃないわ」
◇
午後、セレナたちは北街道へ向かった。
同行するのはセレナ、ローヴェル、ガレス、それに護衛二人だけである。街道には「戦が近い」という噂がまだ残っているため、大勢の兵を連れ歩けば自分たちで噂を補強することになりかねない。
城を離れて北へ進むにつれ、収穫を終えつつある畑が緩やかな丘に沿って広がり、刈られた麦と乾いた藁の匂いが風に乗って流れてきた。遠くには海が青灰色の細い帯となって見え、潮気を含んだ冷たい風が頬へ触れるたび、秋が少しずつ深まっているのを肌で感じる。
ローヴェルは、道中も特別な動きをしなかった。
農民とすれ違えば普通に挨拶し、荷車が来れば道を譲る。地面ばかり見ているわけでもなければ、森へ鋭い視線を送り続けているわけでもない。セレナが少し拍子抜けしていると、ルーヴ橋の手前でローヴェルが何気なく口を開いた。
「昨日、この辺りを荷車が何台か南へ通っていますね」
セレナは思わず足元を見た。
街道には何本もの轍や蹄跡が重なっているが、自分にはどれが新しいのかほとんど分からない。
「分かるの?」
「大体は。こっちは縁がまだ崩れていませんし、そちらは乾いて固くなっています。馬糞も完全には乾いていない」
ガレスが鼻を鳴らした。
「そんなものまで見るのか」
「見るというより、あれば目に入ります」
その答えを聞いた時、セレナはようやく少し理解した。
この男は普通に歩いている。
ただ、見ているものが違う。
◇
問題の林へ着くと、湿った腐葉土と落ち葉の匂いが街道まで流れてきていた。木々の影に入っただけで空気は少し冷たくなり、柔らかな地面へ靴底を置くたび、湿った土がわずかに沈む。
巡回兵が残した目印の先には、荷車の轍がまだ残っていた。ローヴェルはしゃがみ込み、革手袋を外すと泥へ指を押し当てた。湿った土が指先へまとわりつくのも気にせず、車輪跡とその横に残る蹄跡を交互に確認する。
「二頭立てですね」
「分かるの?」
「蹄跡が二組あります。それと荷はかなり重かった」
ガレスが森の奥を見た。
「襲われて連れ込まれた可能性は?」
「低いでしょう」
「なぜ?」
「急に曲がっていない。車輪も滑っていませんし、馬が暴れた跡も、人間が慌てて動いた跡もない」
ローヴェルは森へ続く轍を示した。
「自分から入った可能性が高いです」
五人は轍を追って林へ進んだ。
三日が経過しているため、細かな足跡はかなり崩れ始めていたが、ローヴェルは何度か立ち止まりながら、草の倒れ方や落ち葉の沈み方を確認していく。
やがて太い木のそばで足を止めた。
「ここで荷を下ろしています」
セレナが近づくと、落ち葉が不自然に押し潰された場所がいくつか残り、近くの木の幹には何か硬いものを擦ったような傷があった。
「荷車はこのまま奥へ進んでいますが、荷の一部は人が持っていったようです」
「どっちへ?」
ローヴェルが示した先をガレスが見て、顔を険しくした。
「西か」
西の森林では、武装した者を見たという報告がある。セレナの頭にも同じ情報が浮かんだが、すぐにそれを押し戻した。
「まだ、同じ人たちだとは決めない」
ローヴェルが横からセレナを見る。
「そうですね」
その返事には、初めてわずかな興味が混じっていた。
「今分かるのは、誰かが自分から荷車を森へ入れ、ここで荷の一部を下ろした。それから、人が西へ運んだらしいということだけです」
「何を運んだの?」
「分かりません」
迷いのない答えだった。
分からないものを、分かったとは言わない。
セレナが三日前にハロルドとガレスへ求めた条件を、この男は知らないうちに満たしていた。
◇
街道へ戻ったところで、セレナはローヴェルへ向き直った。
「この先も追える?」
「跡が残っていれば」
「何人必要?」
「一人で十分です」
「護衛は?」
ガレスが聞く。
「戦いに行くわけではありません。人数が増えれば跡も潰れます」
セレナは少しだけ考え、それからローヴェルを真っ直ぐ見た。
「その前に、私のために働かない?」
ローヴェルが少し目を見開いた。
「今回だけではなく?」
「平時から」
セレナは北街道と、その脇に広がる森を見渡した。
「街道、森、領境、盗賊、周辺領主の兵の動き。それだけじゃなく、宿場の客が減ったとか、商人が道を変え始めたとか、市場の値段が動いたとか、何かがおかしくなり始めた時に、それを私に持ってきてほしい」
「ずいぶん広い仕事ですね」
「だから、軍の斥候じゃなくて私の直属にしたいの」
ローヴェルはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「細かい条件を聞いてからになりますが、それでよければ」
「もちろん。給金や任務経費はハロルドと詰めて。必要な馬や装備も相談していいわ」
「分かりました」
それからローヴェルは西の森を見た。
「では、その前に続きを見てきても?」
「今から?」
「三日経っています。これ以上時間を置くと、雨が降らなくても跡が消えます」
セレナは西の空へ目を向けた。薄い灰色の雲が海の方からゆっくりと広がり始めている。
「危ないと思ったら戻って」
ローヴェルは迷わず頷いた。
「もちろんです」
勇敢だから行くのではない。生きて帰り、見たものを伝えるつもりで行く。ローヴェルは再び森へ向かって歩き出した。特別に姿を隠そうとするでもなく、足音を消すでもなく、先ほど見つけた痕跡の先を確認すると、その方向へ迷わず進んでいく。
やがて木々の間へ背中が隠れた。
セレナはしばらくその場所を見つめ、静かに息を吐いた。
「……なるほど」
隣にいたガレスが顔を向ける。
「何がです?」
セレナは森から視線を戻し、少しだけ笑った。
「見た目じゃ分からないものね」




