第2話 街道の沈黙 ― The Silent Road
北街道へ出していた騎兵が執務室へ戻ってきたのは、夜もかなり深くなってからだった。
扉が開くと同時に、冷えた夜気と湿った土の匂いが室内へ入り込み、暖炉の薪が放つ乾いた香りや、長く灯していた蝋燭のわずかに甘い匂いへ混じった。騎兵の外套は夜露を吸って肩から裾まで色が濃くなり、革靴には乾ききらない泥がこびりついている。
城へ戻って馬を預け、そのまま階段を駆け上がってきたのだろう、額には薄く汗が浮かび、息を整えようとするたび胸元が大きく上下していた。
セレナは机に片手をついたまま男の様子を確かめ、それから向かいの椅子を示した。
「座って。急いで戻ってきたのでしょう」
「ありがとうございます、男爵閣下」
騎兵は一礼して腰を下ろし、濡れた手袋を外して膝の上へ揃えたものの、背筋は伸ばしたままだった。
机の上では蝋燭の炎が揺れ、広げられた領内地図の上を細い影が行き来している。夜になって冷えた石壁からはじわりと冷気が染み出し、昼間には気にならなかった寒さが、座ったままのセレナの足元へ少しずつまとわりついていた。
「北街道から人が減っているというのは?」
「はい。ルーヴ橋より北を見てまいりましたが、普段に比べて明らかに通行が少なくなっています」
「どのくらい?」
騎兵は少し眉を寄せ、頭の中で普段の巡回と今日の様子を比べているようだった。
「私も何度か北街道を巡回しております。今の時期なら夕方までに荷車を三、四台は見ますし、行商人や旅人とも何度か行き違います。ですが今日は、北から来る荷車を一台も見ませんでした」
「一台も?」
「はい。それと、南から北へ向かっていた旅人が二組、ルーヴ橋の手前で引き返しております」
セレナは地図へ視線を落とし、指先でルーヴ橋の位置を探した。乾いた紙のざらつきが指腹へ伝わり、そのまま北へ延びる街道をゆっくりとなぞっていく。
「理由は聞いた?」
「一組には。北へ行くのはやめておけと言われたそうです」
「誰に?」
「分からない、と」
地図をなぞっていた指が止まった。
「盗賊を実際に見た人は?」
「少なくとも、私が話した者の中にはおりません」
「襲われた荷車は?」
「それも確認できませんでした」
暖炉の薪が小さく爆ぜ、静かな部屋に乾いた音が響いた。
危険そのものは、誰も見ていない。それなのに、人だけが避け始めている。
セレナは椅子へ腰を下ろし、騎兵から聞いた内容を紙へ書き加えた。羽根ペンを動かすたび乾きかけたインクの匂いがかすかに鼻先へ上がり、長時間帳簿と向き合っていたせいで目の奥には鈍い疲れが残っていたが、今は眠気よりも違和感の方が強かった。
「宿場は?」
「馬房がかなり空いていました。主人の話では、三日ほど前から客が減り始めたそうです」
「三日前……」
父の容体が急変し、城の中が慌ただしくなり始めたころと重なる。
偶然かもしれないが、それを偶然だと決めるだけの材料もない。セレナは紙の端へ日付を書き込み、ひとまず他の報告とは結びつけずに残した。
「ありがとう。今夜は休んで」
「はっ」
騎兵が立ち上がり、深く頭を下げて退出すると、扉が閉まる音とともに冷たい夜気も遮られた。
セレナは一人になった執務室で地図を見つめた。
北のヴァルツ領兵、西の森林で見られた武装した者たち、そして北街道から減り始めた旅人と商人。三つを一本の線で結べば、いかにも分かりやすい形になるからこそ、今は安易に結びつけてはいけないという感覚が、胸の奥に静かに残っていた。
◇
翌朝、セレナが執務室へ入ったころには、窓の外にまだ薄い霧が残っていた。
夜の冷気を抱え込んだ石造りの部屋は、暖炉へ火を入れてもすぐには暖まらない。机の縁へ触れた指先にはひやりとした感触が残り、昨夜遅くまで起きていたせいで目の下には薄く疲労が滲んでいたが、セレナは髪を整え、いつも通りの服へ着替えて席についた。
ほどなくしてハロルド、ガレス、ミレイユ、オットーが揃い、大机を囲む。机の中央には、昨夜セレナが整理した報告が並んでいた。
ヴァルツ領兵、十五から二十。
西部森林、盗賊らしき者の噂。
北街道、通行量減少。
沿岸経由の塩、価格変化ほぼなし。
鉄器、一部値上がり。
北方産毛織物、入荷減少。
ルーヴ橋、損傷。
並べられた紙を眺めながら、ガレスが腕を組んだ。
「やはりヴァルツ領の動きと関係があるのでは?」
「可能性はあるわ」
セレナは頷いたものの、ヴァルツ領兵の報告と北街道の報告書を指先で少し離した。
「でも、まだ結びつけないで」
「時期が重なり過ぎています」
「だからこそよ。向こうが兵を増やしたから旅人が怖がっただけかもしれないし、西の武装集団とはまったく別の話かもしれない。一度全部同じ出来事だと思ってしまったら、それから先に入ってくる情報まで、そのつもりで見てしまうでしょう」
ガレスは反論する代わりに地図へ視線を落とし、しばらくしてから問い返した。
「では、もう一度調べますか?」
「ええ。ただ、昨日と同じ見方では足りないわ」
セレナは北街道沿いの宿場を示した。
「街道を通った人数だけじゃなく、誰が通らなくなったのかを知りたい。商人なのか旅人なのか、どこで引き返したのか、最初に誰から危ないと聞いたのか。それから宿屋や馬屋でどんな話が出ているのかも」
「兵を私服で出しましょう。北部出身の者なら、旅人に混じっても不自然ではありません」
「お願い。宿屋だけじゃなく、木こりや荷車引きにも聞かせて。商人がいたら、何を運んでいたのかも」
ガレスが口元をわずかに緩めた。
「軍務というより聞き込みですな」
「今欲しいのは敵の首じゃなくて、話だから」
セレナも少しだけ笑ったが、その視線はすぐに机上へ戻った。
「それとミレイユ。鉄器が上がっているというのは?」
「鍛冶屋からの報告です。まだわずかですが、北から入る鉄材の荷が予定より遅れているそうです」
「塩は?」
「変わっておりません。海側から入る分は通常通りですから」
その答えを聞いたセレナは、机上の二枚の報告を見比べた。
「なら、交易全部がおかしいわけじゃない」
「北から来る流れだけが弱くなっている可能性があります」
ミレイユの言葉に、セレナは静かに頷いた。
◇
昼前になると、セレナはミレイユと護衛二人を伴って城下へ下りた。
丘を下る石畳には朝露が残り、馬車の轍には柔らかな泥が溜まっている。吹き下ろす風は昨日より冷たく、外套越しにも肩の辺りへ薄い寒気が伝わったが、坂を下りきるころには市場から漂う焼きたてのパンや燻製魚、革、香草、それに家畜の匂いが混じり合い、町らしい賑わいが周囲を包んだ。
アルヴェインの城下町は大きくない。街道に沿って木造の家屋、工房、宿屋、商店が集まり、その向こうにはすぐ畑や牧草地が広がっている。それでも海と内陸を結ぶ道が交わるため、周辺の村や沿岸部から人が集まる日には通りが狭く感じるほど混み合い、今日も魚籠を担いだ漁師や荷車を引く商人、収穫物を売りに来た農民たちが行き交っていた。
新しい領主が歩いていることに気づいた者たちが次々と頭を下げ、セレナは一人一人に応じながら店先に並ぶ品へ視線を走らせ、ミレイユに案内されて鍛冶屋へ向かった。
開け放たれた工房の中から熱気が流れ出し、石炭と焼けた鉄の独特な匂いが鼻を突く。赤く熱した鉄を槌で叩くたび高い金属音が響き、外の冷えた空気とは対照的に、炉の前だけは頬が熱くなるほどだった。
鍛冶屋の主人はセレナの姿に気づくと慌てて槌を置き、煤で黒くなった両手を革前掛けへ擦りつけた。
「男爵閣下」
「仕事を止めなくていいわ。少し聞きたいだけ」
店先には鍬、鎌、鉈、釘、それに馬の蹄鉄が並んでいる。
「鉄が少し高くなっているって聞いたけど」
「はい。まだ困るほどじゃありませんが、次の荷が遅れてまして」
「どこから?」
「北です。鉄そのものはもっと向こうから来ますが、いつもはヴァルツ側を通って北街道から入ります」
「最近は?」
主人は少し困ったような顔をした。
「東へ回してくる商人が増えています。遠回りですから、その分だけ運び賃が乗ります」
「北街道を避けてるのね」
「危ないって話です」
「実際に襲われた人を知っている?」
鍛冶屋は目を瞬かせ、それから首を横へ振った。
「いや……直接は」
「誰から聞いた?」
「鉄材を持ってきた商人からです。そいつも、別の荷車引きから聞いたとか」
セレナは礼を言い、工房の外へ出た。炉の前で火照った頬へ冷たい風が触れると、汗ばんだ肌から一気に熱が奪われるように感じられ、背後で響く槌の音も数歩進んだだけで市場の喧騒へ紛れていった。
「農具にも響きますね」
隣へ並んだミレイユが低い声で言った。
「ええ。釘や蹄鉄にも」
セレナは市場を進む荷車を目で追った。
「戦が始まらなくても、街道一本が避けられるだけで運賃が上がる。それが鉄の値段になって、最後には鍬や鎌の値段になる」
「春まで続けば農民も困ります」
「だから、ただの噂だとしても放っておけない」
兵を一人も失わなくても、領地は傷む。それが、少しずつ目に見える形になり始めていた。
◇
午後、宿場へ聞き込みに出していた兵二人が戻ってきた。
「北街道で荷車が消えた、という話が出ています」
「本当に消えた荷車は?」
「誰も知りません」
「盗賊を見た人は?」
「それも。森に武装した男たちがいるという話は何人もしておりますが、実際に見たと言う者はいませんでした」
報告を聞いていたガレスが眉間へ深い皺を寄せた。
「噂だけが歩いている」
「それと、アルヴェイン領とヴァルツ領が近く戦になるという話も広がっています」
セレナはゆっくりと顔を上げた。
「誰が言い始めたの?」
「分かりません。宿屋の主人は荷車引きから、荷車引きは行商人から聞いたと言っています」
誰も最初を知らないのに、話だけは広がり、人の進む道を変えている。
ガレスが太い指で机を軽く叩いた。
「ならば巡回兵を増やした方がいいでしょう。街道にこちらの兵がいると分かれば、商人も安心します」
セレナはすぐには答えず、頭の中でその光景を思い浮かべた。槍を持った兵が何人も北へ向かい、宿場へ集まれば、それを安全の証と見る者もいる一方で、「やはり戦が近い」と受け取る者も出るだろう。
「二人か三人でいいわ」
「それだけですか?」
「通常の巡回に見せたいの。旗も装備もいつも通りで、宿場にも寄らせて。街道を守るために回っていることは隠さなくていい。でも、ヴァルツのことを騒がせないで」
ガレスはしばらく考えたあと、納得したように頷いた。
「承知しました」
会議が終わり、ミレイユとオットーが書類を抱えて退出したあとも、セレナは椅子へ座ったまま地図を眺めていた。書類を片付けていたハロルドがその様子に気づき、静かに手を止めると、退出しかけていたガレスも扉の前で振り返った。
「昨日のお話でしょうか」
ハロルドに問われ、セレナは椅子の背へ少し体を預けると、朝から凝り続けていた肩を指先で軽く押した。
「街道や領境を普段から見て回る人が欲しいっていう話?」
「はい」
「今日一日で、もっと必要だと思ったわ。何か知りたくなるたびに兵士を出しているけど、兵士はどうしても兵士の目で見るでしょう」
扉の前にいたガレスが腕を組み、少し考えてから頷いた。
「兵数、武器、陣地。軍務なら、まずその辺りを見ますな」
「それも必要よ。でも私は、宿屋の客が減ったことも、商人が東へ回り始めたことも、鉄の値段が上がり始めたことも、誰も見ていない盗賊の噂が広がっていることも知りたいの」
セレナは机上に並ぶ報告書へ順番に視線を落とし、最後に北街道が描かれた地図へ指を置いた。
「何かが起きてから見に行くんじゃなくて、その前から街道や森や領境を歩いて、普段と違うことを拾ってくる人が欲しい。戦になれば敵の位置や道を見てもらう。でも平時なら、商人や村人の話を聞いたり、道や橋の様子を確かめたりする。そういう仕事ができる人」
ハロルドはその言葉を聞きながらしばらく考え込み、やがてゆっくりと頷いた。
「平時から働く斥候ですな。それも領主直属の」
「ええ。その方がいいと思う」
ガレスは顎を撫でながら、わずかに眉を寄せた。
「城兵の中だけで探すのは難しいでしょうな。森を歩くことなら、腕の立つ猟師や森番の方が兵より上ということもあります。獣道や水場を知り、足跡を読むことに慣れている者もいるでしょう」
「街道に詳しい者なら、荷運び人や行商人にもおります」
ハロルドも続け、指先で机の上へ残った書類を揃えながら思案する。
「村長や宿屋の主人にも聞いてみましょう。元傭兵や兵士に限らず、妙に道に詳しい者や、人の話をよく覚えている者というのは、案外そういうところで名前が挙がるものです」
「ただ森を歩けるだけでも、剣が使えるだけでも足りないわ」
セレナは二人を見た。
「見たものを持ち帰って、何が本当に自分で確かめたことなのか、何が誰かから聞いただけの話なのか、それを分けて報告できる人が欲しい」
その条件を聞いたガレスは、口元にわずかな苦笑を浮かべた。
「なかなか難しい注文ですな。敵を見られて、地形を読めて、人の話も聞けて、しかも噂と事実を分けられる人間ですか」
「だから二人に頼んでるの」
セレナが少し笑って返すと、ハロルドも目元を緩め、ガレスは諦めたように肩をすくめた。
「分かりました。猟師、森番、街道に詳しい者、それに傭兵経験者あたりまで広く当たってみましょう」
「私も城下や宿場、村長たちへ聞いてみます」
「お願い。ただ、腕がいいと聞いただけでは決めないで」
セレナは地図から顔を上げた。
「私が会って、直接話して決めたい」
「もちろんです」
ハロルドが頷き、ガレスも同意するように顎を引いた。
「では、探してみましょう」
その言葉にセレナが頷いた、そのときだった。廊下を急ぐ足音が近づき、間を置かず扉が強く叩かれた。
「入って」
巡回へ出ていた兵士が室内へ入り、乱れた息を整えながら礼をする。
「男爵閣下。北街道について報告があります」
セレナは椅子から身を起こした。
「何があったの?」
「ルーヴ橋の北、街道脇の林で荷車の轍を見つけました。街道から外れて、森の中へ入っています」
「戻った跡は?」
「ありません」
それまで少し和らいでいた部屋の空気が、再び張りつめた。
「血や争った跡は?」
「確認できませんでした。壊れた荷物も、死体もありません」
ただ木材を取りに入っただけかもしれないし、どこかで荷を積み替えただけかもしれない。それでも、これまで耳にしてきたのはすべて誰かから聞いた噂だったのに対し、今回は地面に実際の痕跡が残っている。
セレナは机上の地図へ両手を置き、ルーヴ橋から北へ伸びる街道と、その脇に広がる森を黙って見つめた。紙越しに冷えた机の硬さが掌へ伝わり、わずかに開いた窓枠から入り込んだ秋風が頬をかすめる中、先ほど二人へ頼んだ仕事の意味が、それまで以上にはっきりとした形を持って胸の中へ落ちてきた。
北街道には何かがある。
そして今のアルヴェイン領には、それを見るための目が足りない。
セレナは地図から顔を上げ、ハロルドとガレスを見た。
「……さっきの話、急いでもらえる?」
「承知しました」
二人の返事が、ほとんど同時に重なった。




