第1話 継承 ― The Young Baroness
秋の雲は朝から低く垂れ込め、アルヴェイン家の墓所を囲む古い楡の枝を冷たい風が揺らすたび、黄褐色に染まった葉が一枚、また一枚と石畳へ落ちていた。
丘の中腹に築かれた墓所は普段なら鳥の声がよく響く静かな場所だったが、今日は集まった人々も声を潜め、司祭の祈りと木々を抜ける風の音だけが重なるように漂っている。
墓穴の脇に立つセレナ・アルヴェインは、黒い喪服の前で両手を重ね、父を納めた棺がゆっくりと地中へ下ろされていくのを黙って見つめていた。
二十一歳。
昨日までの彼女は、アルヴェイン男爵家の一人娘であり、いずれ父の後を継ぐ者だった。
だが今日からは違う。
彼女自身が、アルヴェイン男爵だった。
棺の周囲には家臣たちが並び、その後ろには城勤めの兵士、近隣の村々から来た村長、町の商人や職人組合の代表者が続いている。大領主の葬儀で語られるような何百もの騎士も、金糸で飾られた巨大な軍旗もなく、城の直属兵をすべて合わせても七十人に届かない小領地ではあったが、ここに集まる者たちにとってアルヴェイン家は遠い王でも、すでに失われた帝国でもない。税を決め、争いを裁き、橋を直し、盗賊が出れば兵を送り、凶作になれば備蓄を開く、生活そのものに最も近い支配者だった。
司祭の祈りが終わり、墓守が土を棺の上へ落とした。
乾いた音が響いた瞬間、セレナは喪服の袖の中で指を強く握った。葬儀が始まってから押し込めていた寂しさが胸の奥でゆっくりと膨らみ、父がもう戻ってこないという事実が、土の音とともに現実になっていく。
執務机に肘をついて帳簿を眺めていた背中も、戦史を読みふける娘に呆れたような笑みを向けた顔も、今では記憶の中にしかない。
十二歳のころ、父に言われた言葉を思い出した。
『戦史には、兵が三百死んだ、と書いてある』
幼かったセレナは、大陸戦争の年代記を開いたまま顔を上げた。
『それじゃ駄目なの?』
『間違いではない。ただ、それだけでは何も分からん』
父はそう答えると、机の端に置いていた領内帳簿を指先で軽く叩いた。
『兵が一人死ねば槍一本が減るだけではない。その男が耕していた畑があり、養っていた家族がいて、納めるはずだった税がある。三百人死んだなら、翌年には三百人分の働き手がいない。それまで数えなければ、本当に勝ったかどうかなど分からん』
あのころは、その意味を理解したつもりだった。
今は違う。
今日から自分が、その一人一人を数える。
「男爵閣下」
横からかけられた低い声に、セレナはゆっくりと顔を上げた。
祖父の代からアルヴェイン家に仕えている家令ハロルドが、数歩離れた場所で静かに頭を下げている。六十を越えた細身の男で、普段は皺一つない服を着て背筋を伸ばしていたが、今日ばかりは灰色の髪がわずかに乱れ、ここ数日の疲労が目の下に色濃く残っていた。
その呼び方を耳にして、セレナはほんの少しだけ息を止めた。
男爵閣下。
昨日まで、それは父を呼ぶ言葉だった。
「……ええ」
「城へお戻りください。本日中にご確認いただきたい報告がございます」
セレナは墓へ視線を戻した。棺はすでに半ば土に覆われ、墓守たちが黙々と作業を続けている。
「今日から?」
思わずそう聞くと、ハロルドの目元がほんのわずかに柔らいだ。
「昨日までは先代様のお仕事でございましたので」
あまりにも正しい答えだったので、セレナは小さく息を吐いた。
「そうね」
もう一度だけ父の眠る場所を見つめ、それから喪服の裾を整えて踵を返す。
「行きましょう」
悲しんでいる間にも麦は刈られ、商人は街道を通り、城門では兵士が人を改め、どこかの村では今日も争いが起きている。
領地は、領主の都合では止まらない。
◇
アルヴェイン城は、かつて大陸の大半を支配した帝国の城塞と比べれば、砦と呼んだ方が近いほど小さかった。緩やかな丘の上を古い石壁が囲み、その内側に領主館、兵舎、倉庫、小さな礼拝堂、それに数本の塔が収まっている。大軍を長期間食い止めるような要塞ではなく、平時には領政の中心として使われ、戦時には近隣住民を一時的に避難させられる程度の規模だった。
父が使っていた執務室へ入ったセレナは、机を見たところで足を止めた。
紙束が積まれている。
一束ではない。
三つに分けられた報告書の山があり、その横には分厚い帳簿が二冊置かれていた。
しばらくそれを眺めたあと、セレナは後ろに立つハロルドへ顔を向ける。
「これは?」
「本日中にご覧いただくものです」
「全部?」
「優先度の高いもののみでございます」
冗談を言っている様子はない。セレナは父の椅子へ向かいながら、机の上をもう一度見た。
「領主というのは、もっと剣を抜いたり、馬上から兵を励ましたりするものだと思っていたわ」
「それは吟遊詩人の領主でございます」
「現実の領主は?」
「帳簿を読みます」
椅子へ腰を下ろしたセレナは、思わず口元を緩めた。
「夢がないわね」
「夢を見るためにも帳簿は必要かと」
「それはもっと夢がないわ」
少しだけ笑えたことで、墓所からずっと胸に残っていた重さがわずかに和らいだ。
間もなく主要な家臣たちが集まり、父が使っていた大きな机を囲むように席へ着いた。
軍務を預かるガレス・ヴォーンは五十代半ばの大柄な男で、若いころから先代とともに幾度かの領境争いを経験してきた。財務と税務を担当するミレイユ・カーンは三十代後半の女性で、席に着くなり細い指で帳簿の端を揃えている。道路、橋梁、水車、農地などを扱う行政官オットーは、今日も何か困り事を抱えているような顔をしながら書類を胸に抱えていた。
全員が揃うと、ハロルドが扉を静かに閉じた。
その音を聞きながら、セレナは父の椅子へ背を預ける。何度も見てきた椅子なのに、自分が座ると座面が広く、机も少し高く感じられた。
「始めましょう」
最初に資料を開いたのはミレイユだった。
「今年の税収見込みですが、昨年を下回ります。夏の長雨の影響で南部低地の麦が悪く、穀物換算で一割弱ほど減る見通しです」
セレナは報告書へ視線を落とし、数字を指先で追った。
「予定どおり徴収した場合は?」
「帳簿上の収入は確保できますが、一部の村では春に使う種籾へ手をつける可能性があります」
「なら、徴収を増やさないで」
即答すると、ミレイユは驚く様子もなく小さくうなずいた。
「私もその方が良いと考えます」
「備蓄は?」
「平年程度の冬なら問題ありません。ただし春先まで寒さが長引けば、余裕はありません」
セレナは報告書の余白へ短く書き込み、次を促した。
オットーが紙を広げる。
「北街道のルーヴ橋ですが、東側の橋台が崩れ始めています。本格的に直すなら石工と人足を合わせて二十人以上、十日ほど必要になります」
「今すぐ落ちる?」
「そこまでは。しかし冬の増水を受ければ分かりません」
「応急修理なら?」
「木材と十人ほどで可能です」
セレナは地図の上でルーヴ橋の位置を確認し、北の街道がそこを通らなければ大きく迂回することになるのを見てから顔を上げた。
「先に応急修理を。街道は止めないようにして」
「承知しました」
続いてガレスが太い腕を机の上へ置き、先ほどまでより少し低い声で口を開いた。
「軍務について二件あります。一つは、西の森林に盗賊らしき一団がいるという噂が流れ込んできています。もう一つは北の領境です」
セレナは書きかけていた手を止めた。
「北?」
「ヴァルツ領の兵が増えています。確認できた範囲で十五から二十。槍兵が中心で、騎兵が二騎ほど」
室内の空気が少し硬くなる。
北に接するヴァルツ男爵領とは、長く小さな摩擦を繰り返してきた。戦争をするほど敵対しているわけではないが、互いの領境へ目を光らせる程度には警戒し合っており、今回のような代替わりがあれば、新しい領主の反応を見ようと考えても不思議ではない。
「領境を越えた?」
「いいえ」
「なら、まだ問題はないでしょう」
ガレスは眉を寄せた。
「ですが時期が時期です。先代がお亡くなりになり、若い御当主へ代わった直後ですからな」
オットーが少し苦い表情を浮かべた。
「それも女性です。向こうが様子を見たいと思っても不思議ではありません」
胸の奥にわずかな苛立ちが生まれたが、セレナはそれを表情へ出す代わりに机上の地図を引き寄せた。相手が自分を若い女だからと侮っていたとしても、怒ったところで兵が増えるわけでも、食料が湧いてくるわけでもない。
「ガレスならどうする?」
「北へ二十人ほど出します」
「城兵から?」
「はい」
「今、城には何人?」
「六十八です」
「そこから二十?」
「必要であれば」
セレナは地図の西側へ視線を移した。
「盗賊は?」
ガレスの口が止まった。
「北へ城兵を出したあと、西で何か起きたら?」
「村兵を集めます」
「どこの村から?」
「北部の三村を中心に」
セレナは窓の外へ目を向けた。城下の向こうには、まだ収穫を終えていない畑が曇天の下に広がり、遠くには麦束を運んでいる農民たちの小さな姿が見える。
「今は十月よ。北部はまだ刈り入れの途中でしょう?」
「……はい」
「二十人を集めるだけなら難しくない。でも、その二十人は普段どこかで働いている。畑から人を抜けば収穫が遅れ、食料を持たせて北へ送れば、その分だけ倉の中身が減る」
セレナは指先を地図の北街道へ置いた。
「それに向こうが本当にこちらの反応を見ているだけなら、こちらが兵を増やした瞬間、今度は向こうがさらに兵を増やす理由になる」
ガレスは腕を組んだまましばらく黙っていたが、やがて顎を引いた。
「では、兵は出さないと?」
「まだ出さない」
そこまで言ってから、セレナは少し考えた。
「代わりに、詳しく調べたい」
「騎馬を出しますか?」
ガレスが聞く。
「今、領境を調べられる人間は?」
「騎兵なら数名。ほかには北部の猟師や木こりに顔の広い者がいます。街道沿いなら巡回兵にも話を拾わせられます」
「専任はいないの?」
今度はガレスが少し考えてから首を振った。
「おりません。戦になれば騎兵を偵察に使いますし、平時は兵や村人から上がってくる話を集めています」
「父も?」
「先代様もそうしておりました」
セレナは地図へ視線を落とした。
北のヴァルツ領兵。
西の盗賊。
傷み始めた橋。
収穫の遅れている村。
それぞれの報告は上がってきている。しかし、それは誰かが偶然見たものを持ち込んできただけだ。
「じゃあ、私たちは相手が何をしているか知りたくなったら、そのたびに兵を出すの?」
「……現状では」
ガレスの返答を聞きながら、セレナは指先で地図の北端をゆっくりとなぞった。
戦うための兵はいる。だが、見るための者がいない。その事実は、思っていた以上に不安だった。
「今回は騎馬を二人。領境へ一人、北街道へ一人」
ガレスが姿勢を正す。
「領境へ行く者には兵の数だけではなく、装備、交代しているか、野営する様子があるか、荷車が何台あるかまで見させて」
「荷車?」
「居続けるなら食料が要るでしょう」
ガレスが納得したようにうなずく。
「北街道へ行く者には、宿場と村を回らせて。商人が何人通ったか、どこから来たか、荷は何だったか、それから西の盗賊について噂が出ていないかも聞いて」
「承知しました」
セレナはそのままミレイユへ顔を向けた。
「北から来る塩の値段は?」
「塩ですか?」
突然話を振られたミレイユは一度瞬きをし、それから手元の帳簿を開いてページをめくった。
「先月より少し高くなっていますが、大きな変化ではありません」
「鉄器は?」
「ほぼ同じです」
「なら、北街道全体が止まっているわけではなさそうね」
ガレスがセレナを見る。
「盗賊と北の兵が別件かもしれない、と?」
「同じ時期に起きたからって、同じ原因とは限らないわ」
西の森と北街道の間を指で測るように見ながら、セレナはゆっくりと首を振った。
「分からないことを、分かったつもりで兵を動かす方が怖い」
部屋が静かになった。
しばらくセレナを見ていたガレスは、やがて口元にわずかな笑みを浮かべる。
「先代より慎重ですな」
「父なら?」
「騎馬を三騎飛ばしたうえで、自分でも見に行こうとしました」
父の姿があまりにも容易に想像できて、セレナは思わず笑った。
「それは父らしいわね」
その後も会議は続き、北部三村へ早馬を送り、不審者や宿泊者、家畜泥棒の報告を集めること、城兵は北へ増派せず武具と馬具だけを点検すること、ルーヴ橋の応急修理を始めること、備蓄倉の穀物量を再確認することが決まった。
すべての報告が終わるころには、窓の外はすっかり暗くなっていた。
家臣たちが退出したあとも、セレナは席を立たず、机の上に広げられた領内地図をしばらく見つめていた。
「ハロルド」
「はい」
まだ室内に残っていた家令が振り返る。
「領境とか街道とか、ずっと見て回る人を雇うことはできる?」
ハロルドはすぐには答えず、セレナが何を考えているのか確かめるように目を細めた。
「斥候でございますか」
「戦争の時だけじゃなくて、普段から」
「街道、森、領境などを?」
「それだけじゃないわ。商人の話も、市場の値段も、盗賊の噂も、隣の領地で兵が増えたことも、誰かが偶然見つけてから知るんじゃ遅い」
ハロルドはしばらく黙り、やがて静かにうなずいた。
「適任者に心当たりがあるか、調べてみましょう」
「お願い」
セレナは地図へ目を戻した。
自分が知らない場所が、思っていた以上に多い。
◇
深夜になっても、執務室にはまだ蝋燭の明かりが残っていた。火はすでに短くなり、机の上には古い紙と革表紙、それに乾いたインクと溶けた蝋の匂いが薄く混じっている。昼間は家臣たちの声や靴音に紛れて気にならなかったその匂いも、誰もいなくなった今は妙にはっきりと感じられた。
窓の外では冷たい風が石壁を撫で、時折、古い窓枠を低く鳴らしている。夜の冷気を吸った石造りの部屋は足元からじわじわと冷え、セレナは無意識に両手を擦ってから肩をすくめたが、昼からほとんど同じ椅子に座り続けていたせいで肩は重く、背中にも鈍い痛みが残っていた。机の端には、それでもまだ確認していない帳簿が一冊置かれている。
「……領主って、こんなに書類が多いのね」
セレナは椅子の背へ体重を預け、天井を見上げたままそう呟いた。誰もいない部屋で自分の声だけが石壁に吸い込まれていくのが少し可笑しく、口元にはかすかな笑みが浮かんだものの、父が聞けばきっと笑っただろうと思った途端、その笑みはゆっくりと消えていった。
昼間は家臣たちの前で押さえ込めていた寂しさが胸の奥から戻り、セレナは目を閉じたまま長く息を吐いた。冷えた空気が頬に触れ、父がいつも座っていた部屋に自分だけが残されているという事実が、葬儀のときとはまた違う重さでのしかかってくる。それでも机の上に残された帳簿へ目を向けると、いつまでも椅子に沈み込んでいる気にはなれなかった。
身を起こして古い一冊へ手を伸ばすと、革表紙は長年使われたため角が丸くなり、ページをめくる指先には乾いた紙のざらつきが伝わった。そこに残るのは間違いなく父の筆跡で、村ごとの戸数、畑の面積、馬、牛、水車、橋、倉庫、穀物、兵士と、この領地を形作るものが細かな数字になって並んでいる。
セレナは昔から戦史が好きで、千の兵で三千を破った英雄の話も、三日で城を落とした名将の記録も何度も読んできた。しかし、その千人がどの村から集められたのか、三百人が死んだ翌年に誰が畑を耕したのか、残された家族がどう冬を越したのかまで記した本はほとんどなく、今こうして父の帳簿を前にすると、戦史の中で数字だけになっていた兵士たちが初めて生活を持った人間として思い浮かんだ。
戦争で消えたものほど、歴史には残らない。
父の言葉を思い出しながら、セレナが帳簿に並ぶ数字を指先でゆっくりと追っていた、そのときだった。
扉が強く叩かれた。
セレナは反射的に顔を上げ、背もたれから体を起こした。
「どうぞ」
扉が開き、若い兵士が息を切らしながら入ってくる。外套の肩には夜露がつき、急いで階段を駆け上がってきたのか、頬が赤くなっていた。
「男爵閣下。北街道へ出した騎兵が戻りました」
セレナは机上の地図へ一度目を落とした。
「早いわね」
予定どおりなら、まだ戻るような時間ではない。
「何かあったの?」
「はい。本人から詳しく報告したいとのことですが……」
兵士は一度言葉を止め、息を整えてから続けた。
「北街道を通る人間が、急に減っているそうです」
セレナはゆっくりと立ち上がった。
蝋燭に照らされた地図の上には、アルヴェイン領を北へ貫く一本の街道が描かれている。その先にはヴァルツ領があり、森があり、村があり、橋があり、そして今の自分にはまだ見えていない何かがある。
「騎兵をここへ」
「はい」
兵士が退出して扉が閉じたあとも、セレナは地図から目を離さなかった。
領主になって、まだ一日も経っていない。
それでも領地は、もう彼女に最初の答えを求めていた。




