第36話 それぞれの冬支度― Preparations for Winter
朝の冷え込みは、数日前より明らかに強くなっていた。領都アルヴェインから西へ向かう道の脇では、陽の当たりにくい草地に薄い霜が残り、荷車の車輪が踏んだ轍の縁だけが白く光っている。馬が鼻から吐く息も長く白く伸び、湿った革鞍に触れた指先には、夜の冷たさがまだ残っていた。
セレナは外套の襟を少し寄せながら、川沿いの精錬所予定地を見渡した。炉はまだない。
以前は低木と草に覆われていた場所が広く切り開かれ、地面には何本もの縄が張られ、杭によって区画が分けられている。掘り起こされた土からは湿った匂いが立ち、積み上げられた石や切り出した木材の脇では、数人の人夫が鍬と鋤を使って地面を均していた。
「……思ってたより、まだ何もないね」
セレナが呟くと、隣に立っていたローディが苦笑した。
「今、急いで炉だけ建てても仕方ありませんからな」
「分かってるけど、場所を決めた時は、もう少し早く形になると思ってた」
「炉というのは、置けば終わりではありません。基礎が悪ければひびが入りますし、排水をしくじれば春の雪解けや雨で足元が泥になります。荷の流れまで考えずに建てれば、鉱石と木炭を運ぶ人間同士がぶつかります」
ローディはそう言いながら、張られた縄の一つを跨いだ。
「この辺りが炉。その向こう側に鉱石置場。木炭は反対側へ離します。炉滓はさらに下手です」
「鉛は?」
「屋根付きの置場を別にします」
セレナは説明を聞きながら、目の前の何もない空間に、これから建つ施設を頭の中で重ねていった。炉だけではない。鉱石を置く場所が要る。木炭を濡らさない場所も。
人が歩く道があり、荷車が転回できる場所があり、働く者が飲む水も必要になる。
以前なら、銀を掘り当てれば豊かになる、ともっと単純に考えていたかもしれない。
今は、銀そのものより、その銀を取り出すまでに必要なものの方が多く見える。
「冬の間は、どこまで進める?」
「整地と資材集め、基礎の準備まででしょう」
「春から炉?」
「天候と地面を見てからです」
「急がない方がいい?」
ローディは迷わず頷いた。
「急いで壊すよりは」
「そうだよね」
セレナは少し残念そうに言ったが、それ以上は急かさなかった。銀鉱石は山に残っているが、領地の財政には限りがある。最近は、その違いがよく分かるようになっていた。
◇
帰路、西の村へ寄ると、ヴァルツ領から逃れてきた人々が入った空き家の周囲で修繕が続いていた。屋根には新しい藁が足され、壊れていた柵には粗いながらも新しい横木が渡されている。村の外れでは、移住してきた男たちが元から住んでいた村人と一緒に排水溝を掘っており、鍬が地面へ入るたび、湿った黒土の匂いが冷たい風の中へ広がった。
「あの人たち、もう働いてるんだ」
馬上から見下ろしたセレナへ、同行していたオットーが頷く。
「働ける者には仕事を割り振っています。道路、排水、家屋の修繕、薪集め。それから農地を希望する家族については、春から使える土地を調べています」
「今から畑は無理だよね」
「はい」
「今回は分かってる」
「それは結構です」
「前より扱いが雑になってない?」
オットーは答えず、前方を指した。村の中央では、数人が荷車から大きな袋を降ろしている。セレナも最初は何気なく見ていたが、袋の口から覗いた粒を見て表情を変えた。
「あれ、大麦?」
「はい」
「もう来たの?」
「最初の買い付け分だけですが」
塩を積んで出た船が、帰り荷として穀物を積んで戻ってきた。量はまだ多くない。これだけで冬の不安が消えるわけではない。それでも、昔読んだ旅行記の中にしかなかった方法が、今こうして自分の領地の荷車から降ろされている。セレナは少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
「本に書いてあった通りだった」
「船で穀物を運ぶこと自体は珍しくありません」
「分かってるけど」
セレナはオットーを見る。
「思いついたの私だから、ちょっとくらい褒めてもいいよ」
「閣下、よく思いつかれました」
「……なんか雑」
近くにいた兵が笑いを堪えるように顔を背けた。
◇
城館近くの練兵場では、新兵候補たちの訓練が続いていた。まだ十五人すべてを正式採用したわけではない。候補者たちは木槍と盾を持ち、ぬかるみ始めた地面を二列で進んでいたが、向きを変えるたびに列が歪み、肩や盾がぶつかる。
「止まれ!」
バルドの太い声が飛んだ。先頭が止まり、後ろの一人が前の背中へぶつかる。
「前だけ見るな! 隣も見ろ! 自分だけ動けても隊列じゃ使えん!」
列の外を歩くヨーナは口数こそ少ないが、一人の盾を押し戻し、別の一人の足の位置を靴先で直している。セレナはガレスと並んで、その様子を少し離れたところから見ていた。
「全然戦ってないね」
「まだ戦わせる段階ではありません」
「槍で突いたりとかは?」
「その前に、命令通り止まれるようにします」
ちょうどその時、列の端の男が合図より早く一歩出て、バルドがすぐに呼び戻した。
「勝手に動くな! 敵が前にいる時ほど、自分で決めるな!」
その声を聞いて、セレナは小さく頷いた。一人で強い兵が十五人。命令通り動く十五人。今のアルヴェインに必要なのがどちらなのかは、もう分かる。
「全部採る?」
「まだです」
「厳しいね」
「兵ですから」
ガレスは短く答えたが、その目は候補者一人一人の動きを細かく追っていた。セレナも、それ以上は口を挟まなかった。
◇
東方前哨は、さらに砦らしい姿へ近づいていた。沢沿いに掘った溝は以前より深く、そこから出した土が内側へ盛られて、場所によっては腰ほどの高さになっている。粗い木柵の向こうには小さな兵舎が建ち、まだ乾ききっていない木材と藁の青臭い匂いが中に残っていた。
「これ、もう砦じゃないの?」
「まだ前哨です」
ガレスが答える。
「よかった」
「何がです?」
「砦って呼び始めたら、また大きくする話になるでしょう」
「いずれは」
「今は聞きたくない」
セレナはそう言いながら外へ出た。沢の向こうには、ラウフェン側の巡回兵が数人見える。向こうもこちらを見ていた。だが、矢を番える者も、剣へ手を掛ける者もいない。
「ずっとこんな感じ?」
「はい」
「攻めてこないね」
「今のところは」
セレナは沢の向こうへ目を細めた。静かだった。だが、静かなことと平和なことが同じではないのも知っている。
「これでいい」
冷たい風に外套の裾を揺らされながら、セレナはそう言った。
◇
同じ頃、ヴァルツ子爵領では、冬を前にした別の戦いが続いていた。エルンストの領館では、大きな地図を前に、次男コンラートが兵糧の動きを整理していた。
長男アルブレヒトの反乱によって領内は完全に二つへ割れたわけではなく、北西部では長男側が勢力を広げ、領都と主要倉庫、南寄りの街道の多くは父側が保っている。その間には、まだどちらへつくか決めていない村や家臣が残り、その曖昧さが毎日のように兵糧と人の流れを変えていた。
「北の倉から麦を出すのは止めます」
コンラートが地図を指す。
「昨日から長兄側が検問を始めました」
「護衛を増やせば通せるだろう」
「通すためだけに兵を使うより、迂回した方が安いです」
エルンストは不満そうに眉間へ皺を寄せた。
「二日余計に掛かるぞ」
「奪われるよりはましです」
コンラートの返答に迷いはない。彼は父を助けていた。兵の配置だけでなく、倉の残量、村からの徴発量、離反しそうな家臣との交渉まで、内乱で壊れ始めた領地をどうにか繋ぎ止めている。
「北西の二村は追加の食料を出せないそうです」
「もうか?」
「長兄側からも要求されています」
「二重に取られているのか」
「だから逃げる者が増えるのです」
エルンストの顔が険しくなる。
「アルヴェインへか」
「多くは」
短い沈黙のあと、エルンストが低く言った。
「お前がいなければ、もっと酷かったな」
コンラートの手が止まる。
「それを長兄が反乱する前に言っていただければ」
「……今それを言うか」
「今だからです」
父と息子の視線が一瞬ぶつかり、先に地図へ戻したのはエルンストだった。
「それで、ユリアンは?」
「まだ確実な所在は」
「長男のところにもいない?」
「確認できる限りでは」
エルンストは深く息を吐いた。
「一人は反乱、一人は俺に文句を言いながら働き、一人は行方不明か」
「私はかなり助けているつもりですが」
「分かっている」
「なら結構です」
「……本当に、お前だけだな」
◇
ラウフェン男爵領では、ディートリヒが東境から届いた報告書を机へ放り出していた。
「まだ造っているのか」
「はい」
向かいに座るハインツは淡々と答える。
「沢沿いの陣地はさらに補強されています。兵舎らしい建物も確認されました」
「居座る気だな」
「最初からそのつもりでしょう」
ディートリヒの指が机を叩く。
「六十出せば取れる」
「取れる可能性はあります」
「なら――」
「その後は?」
ハインツが、別の地図を開いた。描かれているのはアルヴェインとの境ではなく、北東で停戦した相手との境界だった。ディートリヒの顔から僅かに勢いが消える。
「またその話か」
「必要です」
ハインツは地図上の境界を指した。
「向こうは兵を解散しておりません。停戦しただけで、こちらを信用したわけでもありません」
「知っている」
「では、こちらが再びアルヴェインへ大兵力を動かしたと知られれば?」
「兵が東へ寄ったと考える」
「はい。さらに、小砦を焼かれ、境界を押し返されたことまで知られれば?」
ディートリヒは口を閉じた。
「全部知っているとは限らん」
「だから今、掴ませないようにしております」
ハインツは声を荒らげず続ける。
「ですが次に攻めて大きな損害を出せば、隠せません」
「勝てばいい」
「その通りです」
ハインツは頷いた。
「だからこそ、今は負けられないのです」
暖炉の薪が弾け、焦げた木の匂いが部屋へ薄く広がった。
「北東が、ラウフェンは弱ったと見れば動きます。アルヴェインへ兵を出している最中に北東から再開されれば、二方向です」
「……だから、あの女を放っておけと?」
「今は」
「今は、か」
「勝てる時に動くべきです」
ハインツは真正面からディートリヒを見る。
「怒っている時ではありません」
ディートリヒの眉が跳ねたが、怒鳴らなかった。しばらくして、机へ放った報告書を拾い上げる。
「北東には何も掴ませるな」
「承知しております」
「アルヴェインは見続けろ」
「もちろんです」
ディートリヒは攻めることを諦めてはいなかった。ただ、次は失敗できない。その重さを、以前より理解していた。
◇
夕方。ヴァルツ領館では、エルンストとコンラートがまだ兵糧の帳面を見ていた。外はすでに暗く、燭台の炎が地図の上に揺れる影を落としている。その時、廊下から慌ただしい足音が近づいた。
「子爵閣下、急ぎの報告です」
「入れ」
扉を開けた男の外套には乾きかけた泥が付き、肩で息をしている。
「何だ」
「ユリアン様の所在が判明しました」
エルンストの手が止まり、向かいにいたコンラートも顔を上げた。
「どこだ」
男は一瞬だけ答えをためらった。
「申せ」
「……アルヴェイン男爵領です」
エルンストは動きを止めた。
「何?」
「ユリアン様は従者三名とともにアルヴェイン領へ入り、現在、セレナ・アルヴェイン男爵の保護下にあるとのことです」
長男は反乱した。次男はここで自分を支えている。そして、行方の分からなかった三男は、よりによって隣領へ逃げ込んでいた。エルンストは片手で額を覆い、しばらく言葉を失った。
「……なぜ」
低い声が漏れる。
「よりによって、アルヴェインなんだ」
コンラートも、この時ばかりは何も返せなかった。




