第37話 行方知れず
ユリアンの所在がアルヴェイン男爵領らしいという報告を受けた翌朝も、ヴァルツ子爵領の領館から内乱の気配が消えることはなかった。
夜のうちに降った細かな雨が中庭の土を黒く濡らし、早朝から兵糧を積む荷車が深い轍を残している。倉庫の方からは濡れた麻袋と馬の匂いが流れ込み、廊下を行き交う家臣たちの靴にも泥が付いていた。
エルンスト・ヴァルツ子爵は朝食にもほとんど手をつけず、昨夜届いた報告書を読み直していた。
「アルヴェインにいるというのは、確かなのか?」
向かいで帳面を確認していた次男コンラートが顔を上げた。
「確かとは申せません。昨夜の報告は、ユリアンがアルヴェイン男爵の保護下にあるという情報を掴んだ、というものです。本人を見た者から直接確認したわけではありません」
「では、何が分かっている?」
「ユリアンらしい若い男が従者三名とともに西へ向かったこと、その後アルヴェイン領へ入ったらしいこと、そして現在、長兄の陣営にも我々の側にもいないことです」
エルンストは不満そうに眉間へ皺を寄せ、報告書を机へ置いた。
「それだけか。ならば、オズワルドを迎えに向かわせる。あれならアルヴェイン男爵とも面識がある」
「人選に異存はありません。ただし、ユリアンが戻らないと言った場合はどうなさいます?」
「説得させる。それでも拒むようなら、父親の命令だと伝えればよい」
「今の状況で、その言葉がどこまで通じるでしょうか。縛って連れ帰るわけにもいきません」
コンラートの指摘に、エルンストは黙り込んだ。やがて深く息を吐き、椅子の背へ身体を預ける。
「……分かっている。だが、放っておくわけにもいかんだろう」
「ええ。問題はユリアン本人だけではありません。彼がどこにいるかによって、領内の家臣たちの判断が変わります」
コンラートは机に広げた地図へ目を落とした。
ヴァルツ家の三男であるユリアンには、家督を継ぐほどの権限はない。それでも父から任された土地と収入があり、彼に直接仕えてきた者もいる。もし長兄アルブレヒトの陣営へ加わり、兄を支持すると表明すれば、態度を決めかねていた家臣たちにとって、一つの判断材料になるだろう。
「長兄は、ユリアンに任されている土地も自分の側へ組み込んだと主張するはずです。父上が認めるかどうかではなく、そこに住む者たちがどう受け取るかが問題なのです」
「ユリアンに兄を支持するつもりなどない」
「本人にその気がなくとも、周囲が勝手に利用することはあります。逆にこちらへ戻れば、次男も三男も父上を支持しており、反乱しているのは長男だけだと示せます」
「それが本来の形だ」
「長兄も同じことを考えているでしょう。だからこそ、ユリアンを探す理由があるのです」
エルンストは腕を組み、しばらく地図を見下ろしていた。
「ならば、なおさら早く連れ戻す必要があるな」
「それができればよいのですが、一番厄介なのは、誰の手にもいない場合です。長兄のもとにいると分かれば、それを前提に対策を考えられますし、こちらに戻れば問題はありません。しかし、居場所も考えも分からないままでは、誰が彼を利用しようとしているのかさえ判断できません」
「アルヴェイン男爵が隠している可能性は?」
「あります。長兄へ引き渡す可能性も、別の土地へ逃がす可能性も否定できません」
「……結局、何も分からんではないか」
「はい。だからこそ、まず事実を確かめるべきなのです」
エルンストは不機嫌そうに息を吐いたが、怒鳴ることはなかった。西山の件以来、アルヴェインの若い女領主を軽く見てよい相手ではないと理解している。
「オズワルドを向かわせろ。ただし、余計な争いは起こすな。まずユリアンが本当にいるのかを確かめさせるのだ」
「承知しました。もっとも、アルヴェイン男爵が素直に答えてくださるかどうか……」
コンラートがそう付け加えると、エルンストはしばらく考えた末、低い声で答えた。
「……答えさせろ」
「努力するよう伝えておきます」
◇
その頃、アルヴェイン城館では、当のユリアンがセレナの前に座っていた。
二週間と定めた滞在期限には、まだ二日残っている。窓の外には秋の海から流れてきた雲が広がり、時折差し込む陽光が執務机の端を白く照らしていた。火を入れ始めた暖炉からは乾いた薪の匂いが漂い、机の上には移住者の住居割り当てや新兵募集に関する書類が積まれている。
セレナは書類を脇へ寄せ、向かいの青年へ目を向けた。
「それで、決めた?」
「はい。いろいろ考えましたが、アルヴェインを出ようと思います」
ユリアンは落ち着いた声で答えたものの、膝の上に置いた指が僅かに組み直された。
「お父さんのところへ戻るの?」
「……いいえ」
「それなら、お兄さんのところ?」
「もっと戻りたくありません」
「そこは即答なのね」
セレナが苦笑すると、ユリアンも少しだけ表情を緩めた。
「父上のもとへ戻れば父上側になり、長兄のもとへ行けば長兄側になります。私はどちらかを選ぶために家を出たわけではありません」
「でも、ここに残る選択肢もあるでしょう? あなたの知識は役に立つし、条件を守るなら滞在を続けてもいいのよ」
「それも考えました。しかし、長く残ればアルヴェイン男爵にも迷惑を掛けます。私がいることで、父上や長兄がこちらを疑う理由にもなりますから」
「もう十分迷惑は掛けられているけどね」
「でしたら、これ以上増やさないうちに出発いたします」
思いがけない返答に、セレナは小さく笑った。
「それで、どこへ行くつもり?」
「まだ決めていません。ただ、ここからなら沿岸の港へ向かう商船があると聞きましたので、まずは海へ出ようかと」
「行き先を決めずに船に乗るなんて、なかなか大胆ね」
「少なくとも、陸路でヴァルツ領の近くを歩くよりは安全かと思います」
セレナは椅子の背へ身体を預け、しばらく考えた。
ユリアンが残れば、ヴァルツ領の街道や村、家臣の関係について詳しい情報を得られる。父エルンストや兄たちの考え方を知る彼の存在は、アルヴェインにとって決して小さな利益ではない。
しかし、選択肢を示したのは自分だった。父のもとへ戻るか、別の土地へ去るか、条件付きでアルヴェインに残るか。本人に決めさせると約束しておきながら、自分に都合が悪くなったから認めないというわけにはいかない。
「分かったわ。乗れる船を探してあげる。ただし、どこかの領主へ紹介状を書くことはできないからね」
「承知しております。そこまでお願いするつもりはありません」
「『ヴァルツ家の三男をよろしく』なんて書いたら、私があなたの亡命を手伝ったことになるもの。港までの手配が、こちらにできる限界よ」
ユリアンが頷いたのを確かめると、セレナは机の引き出しを開き、小さな革袋を取り出した。重さを確かめてから彼の前へ置くと、中で硬貨が触れ合い、控えめな音を立てる。
「これは?」
「路銀よ。四人で船に乗って、宿に泊まって、食事をしていたら、手持ちのお金なんてすぐになくなるでしょう?」
「お気持ちはありがたいのですが、従者もおりますし、多少の持ち合わせはあります」
「多少でしょう? 知らない土地に着いて、すぐ仕事が見つかるとも限らないわ。紹介状を書けない代わりだと思って受け取って」
ユリアンは困ったように革袋を見つめた。
「いずれお返しすることができれば……」
「返さなくていいわ。これは私個人のお金だから」
「領の金ではないのですか?」
「違うわよ。領の帳簿に載せたら、ミレイユに何の支出なのか説明しなきゃいけないでしょう?」
「……それが理由ですか」
「半分くらいはね」
セレナは少し笑い、それから穏やかな声で続けた。
「残り半分は、十九歳の人を知らない土地へ送り出すのに、ほとんど一文無しの状態では行かせたくないからよ」
「アルヴェイン男爵も、まだ二十一歳ではありませんか」
「そこは今、関係ないでしょう」
ユリアンの口元が緩んだ。しばらく迷った末、彼は革袋を両手で受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
「ええ。賭け事なんかで全部使わないでね」
「そのようなことはいたしません」
「お酒は?」
「ほどほどに」
「そこは飲むのね」
二人の間に小さな笑いが生まれ、重苦しかった空気が少しだけ和らいだ。
◇
翌日の夕刻、アルヴェインの小さな船着場には、潮と魚、それに濡れた縄の匂いが漂っていた。
港には翌朝の出港を控えた沿岸商船が停泊している。塩と干物を積み、南西の港をいくつか回る普通の商船で、船体には幾度も塗り直された跡があり、舷側には波に削られた傷が残っていた。
ユリアンと従者三人は、城館から借りた荷車で港まで来ていた。預けていた剣も返され、旅支度はすでに整っている。
派手な見送りはなく、セレナも姿を見せなかった。港まで同行したのは、ローヴェルと城付きの兵二人だけである。
「最初の寄港地までは、この船で行かれるのですね」
ローヴェルが確認すると、ユリアンは頷いた。
「はい。その先は、着いてから考えようと思います」
「そうですか。道中、お気をつけください」
「アルヴェイン男爵には、改めて礼をお伝えください。私のために、随分とご迷惑をお掛けしました」
「礼なら、すでにご自分で伝えられたでしょう」
「それでも、もう一度」
ローヴェルは肩を竦め、僅かに笑った。
「分かりました。伝えておきます」
船員たちは最後の積み荷を確認し、甲板では縄を締め直す音が続いていた。ユリアンはその様子を眺めながら、一度だけ領都の方を振り返った。
父も兄たちも、ここにはいない。船に乗ってしまえば、自分をヴァルツ家の三男として扱う者も、従者たちを除けばほとんどいなくなるだろう。
それが寂しいのか、それとも気が楽なのか、ユリアン自身にもまだ分からなかった。ただ、今さら引き返したいとは思わない。
「それでは、お世話になりました」
ユリアンが頭を下げると、ローヴェルも静かに頷いた。
「どうか、ご無事で」
それだけの別れだった。
ユリアンは湿った船板を踏んで甲板へ上がり、従者たちも荷を抱えて後に続いた。四人はその夜を船上で過ごし、翌朝の出港を待つことになった。
夜が明けると、港には冷たい風が吹き始めた。
船員たちが岸へ渡した綱を外し、櫂で船体を押し出す。やがて帆柱の上で畳まれていた帆が開かれ、風を孕んだ布が大きく膨らむと、商船はゆっくりと港の外へ向かって動き始めた。
ユリアンは甲板の端に立ち、遠ざかる岸を見つめていた。
城壁も港の倉庫も、朝靄の向こうへ少しずつ小さくなっていく。船が沖へ出る頃には、桟橋に立つ人影を見分けることもできなくなっていた。
彼は外套の内側に収めた革袋を握り直し、海の向こうへ目を向けた。
行き先は、まだ決まっていない。帰る場所も見つかっていないが、それでも背後の岸だけは確かに遠ざかっていた。
◇
その翌朝、セレナは執務机で帳簿を確認していた。
窓の外では風に旗が揺れ、城館の廊下には朝の仕事を始めた使用人たちの足音が響いている。そこへローヴェルが入り、商船が予定どおり出港したことを報告した。
「無事に出たのね。従者の三人も一緒?」
「はい。四人とも乗船しております。最初の寄港地までは確認しておりますが、その先は本人も決めていないようでした」
「そう。なら、あとは本人たち次第ね」
セレナは頷き、手元の帳面へ視線を戻した。すると、少し離れた場所に立っていたハロルドが口を開いた。
「閣下、ヴァルツ子爵家へは、いかがいたしましょうか」
「何を?」
「ユリアン殿がアルヴェイン領を出られた件でございます。先方は、まだ所在を探しているものと思われます」
セレナの羽根筆が止まった。
「向こうから何か聞かれた?」
「いいえ、今のところは。ただ、いずれ所在を尋ねられる可能性は高いかと」
「それなら、聞かれてから考えればいいんじゃない?」
「その際、現在の所在については何とお答えになりますか?」
セレナは少し考え、小さく首を傾げた。
「さあ。だって、今どこにいるかは本当に知らないもの」
「では、アルヴェインに滞在していたことについては?」
今度はセレナが黙った。
ユリアンが乗った船は、すでに次の港へ向かっているはずだった。しかし、その先でどの船に乗り換え、どこの土地へ向かうのかは、本人でさえ決めていない。アルヴェインから行方を追うことも、今となっては容易ではなかった。
やがてセレナは羽根筆を置き、何でもないことのように答えた。
「ユリアン・ヴァルツ?」
ハロルドが僅かに目を細めると、セレナは平然と微笑んだ。
「そんな人、うちにいましたっけ?」
数秒の沈黙が流れた。
ハロルドは目の前の若い女領主を見つめたが、やがて諦めたように深く息を吐いた。
「……承知いたしました」
その日のアルヴェインの帳簿に、ヴァルツ家三男の行き先が記されることはなかった。
港を離れた商船がどこで誰を降ろすのか、その先を知る者もいない。船が残した細い航跡は波に崩され、やがて海面には何事もなかったような静けさが戻っていた。
ユリアン・ヴァルツは生きている。しかし、どこにいるのかは誰にも分からなくなった。
そして、その日の昼前。
ヴァルツ子爵家から一頭の早馬がアルヴェイン領へ入った。
騎手が携えていたのは、オズワルドの名で届けられた面会要請だった。
ユリアンの行方を尋ねるために。
けれど、その時すでにユリアンはアルヴェインを離れ、誰も知らない行き先へ向かっていた。




