第34話 迷惑な客― An Unwelcome Guest
西部警邏詰所から急報が届いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
朝から吹いていた北風は午後になっても弱まらず、城館の古い窓枠を時折低く鳴らしていた。空は薄い灰色に曇り、海から運ばれてくる湿った冷気が石壁に染み込んでいるようで、暖炉の火から少し離れるだけでも指先が冷えてくる。
セレナは執務机に向かい、ヴァルツ領から流入した人々の受け入れ先一覧を確認していた。農家や荷運び人、漁師、木工職人とその家族たちについて、どの村に住まわせ、誰に仕事を任せられるかが細かく記されている。エレナたちが付けた印を追えば、家族構成や職歴、病人の有無まで分かるようになっていた。
昨日は食料の備蓄について話し合い、今朝は仮住居の割り振りを決めたばかりである。働き手が増えること自体は歓迎すべきだったが、仕事に就いてもらう前に食事と寝床を用意しなければならず、領地の仕事は一つ片づけるたびに新しい問題が生まれていた。
紙を一枚めくったところで廊下から急ぐ足音が近づき、扉が二度叩かれた。
「どうぞ。何かあったの?」
入ってきた兵は外から駆けてきたらしく、頬が冷気で赤くなり、外套の肩には細かな水滴が残っていた。
「閣下、西部詰所から急報です。ヴァルツ領から新たに越境してきた者がおります」
「また避難民? 今日は何人来たの?」
「四名ですが、普通の避難民ではございません」
兵が差し出した報告書を受け取り、セレナは記された名前を読んだ途端に眉を寄せた。念のため最初から読み直したが、そこには確かに『ユリアン・ヴァルツ』と書かれている。
「……これ、間違っていない? 行方が分からなかったヴァルツ家の三男って、あの三男でしょう?」
「本人はそう名乗っております。従者三名を伴い、アルヴェイン領での保護を求めているとのことです。身元は詰所で確認中です」
ちょうど別の書類を抱えて入ってきたハロルドが報告書を覗き込み、珍しく僅かに眉を上げた。
「これはまた、面倒な方がお見えになりましたな」
「まだ本人にも会っていないのに、そこまで言う?」
「では、歓迎すべき客人とお考えで?」
「……そう言われると困るけど」
ヴァルツ子爵家では長男アルブレヒトが父エルンストに反旗を翻し、次男コンラートは父親を支えている。その一方で所在不明だった三男が、よりによってアルヴェイン領へ逃げ込んできたというのだから、面倒な話になる予感しかしなかった。
「どうしてうちなのかしら。ほかにも逃げる場所くらいあったでしょうに」
「それは本人に聞くしかございません。まずは身元を確かめ、話を聞くべきでしょう」
「そうね。武器は従者の分も全部預かって、本人確認が済むまでは詰所で待機させて。ただし、追い返さずに城館へ連れてきてちょうだい」
兵が一礼して退出すると、セレナは報告書を机に置き、暖炉へ両手を向けた。火の熱が冷えた指先へ戻ってくる一方で、先ほどまで考えていた避難民の住居や食料の問題は、頭の隅へ追いやられていた。
◇
ユリアン・ヴァルツが城館へ到着したのは、日が西へ傾き始めた頃だった。
四頭の馬はいずれも長く走り続けた後らしく、冬毛の生え始めた首筋には汗が乾いた白い跡が残っていた。厩へ引かれていく間も荒い息を吐き、湿った革鞍からは馬の汗と泥の匂いが漂っている。
同行していた従者三人も疲労の色が濃かった。四十前後の側仕えらしい男は服装こそ整えていたものの、目の下には深い隈があり、残る二人の護衛も肩を落としている。剣と短弓は西部詰所で抵抗なく預けてきたという。
その中央にいたユリアンは十九歳の青年で、父や兄たちに似た濃い色の髪を持ちながらも、顔立ちにはまだ柔らかさが残っていた。上等な外套の裾は泥で汚れ、馬から降りた際には足が僅かにもつれたが、支えようとした従者の手を小さく首を振って断った。
城館の入口で改めて武器の確認が行われると、ユリアンは腰から剣帯を外し、何の抵抗もなく兵へ差し出した。
「他家の領地へ保護を求めに来た身です。武器を預けるのは当然でしょう」
その態度には貴族らしい高圧さも苛立ちもなく、兵から報告を受けたセレナは少しだけ印象を改めた。もっと横柄な若者が来る可能性も考えていたからである。
◇
小会議室にはセレナ、ハロルド、ローヴェルが待っていた。暖炉には新しい薪が足され、乾いた木が爆ぜる音とともに樹脂の甘い匂いが広がっている。
案内されたユリアンは、疲れているにもかかわらず貴族としての礼を崩さず、セレナの前で丁寧に頭を下げた。
「ユリアン・ヴァルツと申します。突然押しかける形となりましたことをお詫びいたします、アルヴェイン男爵」
「本当に突然だったわ。行方不明と聞いていた人が、いきなりうちの領境に現れるんだもの」
「ご迷惑をお掛けしていることは承知しております」
「それなら、まず事情を聞かせてちょうだい。どうしてアルヴェインへ来たの?」
セレナが着席を促すと、ユリアンは椅子へ腰を下ろし、しばらく暖炉の火を見つめてから口を開いた。
「父と長兄の争いから逃げてきました。私は、どちらの側にもつくつもりはありません」
「次男のコンラート殿はお父さんについているのでしょう? あなたはどうして家を出ることにしたの?」
ユリアンは膝の上で両手を組み、言葉を選ぶように少し俯いた。
「嫌になったからです。父にも長兄にも言い分があり、どちらが正しいのか私には分かりません。それなのに、周囲の者は皆、どちらにつくのか決めろと言ってきます」
あまりにも率直な答えに、セレナは思わずローヴェルへ目を向けた。彼は青年の表情や手の動きを静かに観察していたが、口を挟む様子はない。
「長兄は、父では領地を立て直せないと言っています。北との交易が細り、家の収入も減っているのに、父は慎重すぎると。一方の父は、今の時期に無理に領地を広げたり、他領へ圧力を掛けたりすれば、かえって維持できなくなると考えています」
西山の試掘を巡る一件を知るセレナには、エルンストが慎重だという評価は少し意外だった。こちらの領地へ勝手に人を送り込む程度には強引な男だが、長男から見れば、それでも消極的に映るらしい。
「最初は意見の対立だったのでしょう。しかし今では兵が動き、昨日まで同じ食卓についていた者たちが別々の旗を掲げています。幼い頃から知っている騎士が家族と争い、使用人まで私にどちらが正しいと思うか尋ねるようになりました」
ユリアンは一度言葉を切り、組んでいた指に力を込めた。
「次兄は父についていますが、父の考えすべてに賛成しているわけではありません。今ここで内乱を起こせばヴァルツ領そのものが壊れるから、父を支えているのです。私も争いを止めようとしましたが、父からも長兄からも、子供が口を出すなと言われました」
「十九歳にもなって子供扱いされたの? それは腹が立つわね。ちなみに私は二十一歳なんだけど、あなたのお父さんなら私にも同じことを言いそう」
「おそらく、言うでしょう」
「……やっぱり腹が立つ」
セレナが眉を寄せると、ユリアンは初めて小さく笑った。大きな笑いではなかったが、張りつめていた肩から僅かに力が抜けたように見えた。
「それで従者三人だけを連れて逃げたのね。もっと大勢連れてくることもできたんじゃない?」
「大勢で動けば、それ自体が一つの陣営に見えてしまいます。争いから離れるために家を出たのに、私を担ぐ者が現れては意味がありません」
「そこまでは考えていたのね。でも、どうして逃げ先がアルヴェインだったの?」
ユリアンは姿勢を正し、セレナの顔を見た。
「近かったことと、父にも長兄にも同盟していないことが理由です。それに、アルヴェイン男爵なら、事情を聞く前に私を縛ってどちらかへ引き渡すことはないと聞いていました」
「誰からそんな話を聞いたの?」
「商人や、ヴァルツ領へ出入りする者たちからです」
「私のこと、ほかには何て言っていたのかしら」
ユリアンは少し困った顔をした。
「いろいろと伺っておりますが、今は聞かない方がよろしいかと」
「そう言われると余計に気になるんだけど」
「閣下、本題へ戻された方がよろしいかと」
ローヴェルに促され、セレナは不満そうに唇を尖らせながらも、話を戻した。
「それじゃ確認するけど、兵を貸してほしいとか、お父さんやお兄さんを倒したいとか、そういう考えはないのね?」
「ありません。兵を集めるつもりも、父や長兄と戦うつもりもありません」
「自分が子爵になりたいというわけでもない?」
その質問に、ユリアンはそれまでで一番露骨に嫌そうな顔をした。
「絶対に嫌です」
「……そこだけ随分早い返事ね」
「父と兄たちを見ていれば、欲しくなくなります」
セレナは思わず苦笑した。
「じゃあ、何を望んでいるの?」
「しばらく静かな場所で暮らしたいのです。それ以上は望みません」
本人に野心があれば、その意図を読んで対応を決めることもできる。兵を求めるなら断ればよいし、家督を狙っているなら警戒すべき相手として扱える。しかし、目の前の青年は本当に争いから離れたいだけらしい。
何も要求していなくても、ヴァルツ家の三男という身分まで捨てられるわけではない。それがセレナにとって、かえって厄介だった。
「あなた、本人は何も欲しがっていないのに、いるだけで政治問題になるのね。随分迷惑な客人だわ」
「自覚しております。申し訳ありません」
「自覚があるなら帰ってくれる?」
「それは困ります」
「でしょうね。私もそう思うわ」
セレナは椅子の背へ身体を預け、深く息を吐いた。
◇
ユリアンを客室へ案内したあと、セレナはハロルドとローヴェルを残し、ガレスとミレイユも呼び寄せた。
「それで、どう思う? あの人の話、どこまで信用できるのかしら」
最初に尋ねられたローヴェルは、少し考えてから答えた。
「少なくとも、家督を狙っているようには見えません。争いから逃げたという説明も、大きく事実と食い違ってはいないと思います。ただし、本人に野心がないことと、政治的に利用されないことは別問題です」
「やっぱりそうよね。追い返しても、ここに置いても面倒なことになりそう」
ハロルドが静かに頷いた。
「本人の意思に反してヴァルツ領へ戻せば、父親か長男のどちらかへ肩入れしたと受け取られる可能性があります。一方、こちらで保護すれば、三男殿を擁していると疑われることもありましょう」
「何をしても疑われるのね」
「残念ながら、そういう立場の方ですからな」
ガレスは腕を組んだまま話を聞いていたが、やがて口を開いた。
「ならば、一時的に保護する条件を明確にすべきでしょう。武器は預かったままとし、兵の募集や軍事的な使者の派遣は禁止する。外出時にはこちらの護衛を付けるのが妥当かと」
「最初から利用する案はなしよ。あの人を旗印にしてヴァルツ領へ攻め込むような真似はしないから」
「まだ何も申し上げておりませんが」
「顔に書いてあったわ」
ガレスが小さく咳払いしたところで、ミレイユが手紙の扱いについて尋ねた。
「家族への私信まで禁止するのは行き過ぎでしょう。ただ、手紙を使って軍事的な指示を出されては困りますから、内容の確認は必要かと思います」
「それでいきましょう。兵を集めない、うちの領内から軍事的な命令を出さない、勝手に使者を送らない。外出には護衛を付けて、手紙は確認する。武器も預かったままにするわ」
「かなり自由な軟禁でございますな」
ハロルドの言葉に、セレナは顔をしかめた。
「それ、本人には言わないでよ。余計に面倒になるから」
「閣下が直接おっしゃらなければ、私どもも口にはいたしません」
「……今回は言わないわよ」
◇
条件を伝えるために客室を訪れると、ユリアンはすでに湯で顔を洗い、泥のついた外套も脱いでいた。暖かい部屋で休んだためか、先ほどより顔色がよくなっている。
卓上には黒パンと煮込み料理が置かれていたが、まだ食事の途中だったらしく、皿からは僅かに湯気が立っていた。
「食べている途中だったのね。構わないから続けてちょうだい。保護する条件が決まったので、それだけ伝えに来たの」
「ありがとうございます。どのような条件でしょうか」
セレナは椅子へ腰を下ろし、先ほど決めた内容を順に説明した。武器を預けたままにすること、兵の募集や軍事的な指示は禁止すること、家族への手紙は内容を確認すること、外出時にはアルヴェイン側の護衛が同行することなどである。
ユリアンはほとんど反論せず、最後まで静かに聞いていた。
「外出時の護衛というのは、監視も兼ねているのでしょうか?」
「……そうね。正直に言えば、監視も兼ねているわ」
セレナが少し迷ってから答えると、ユリアンは苦笑した。
「随分正直ですね」
「嘘をついても仕方ないでしょう。あなたを保護する以上、こちらにも責任があるんだから」
「それで構いません。父と兄の兵が動いている場所へ戻されるより、ずっとましです」
ユリアンはそう言うと、残っていた黒パンへ手を伸ばした。
「それから、待遇についてはこれで十分です。必要以上に良い部屋や食事を用意していただく必要はありません」
「最初から豪華にするつもりはなかったけど、あなたに言われると何だか変な感じね」
「私を利用するおつもりなら、もっと機嫌を取ろうとなさるでしょう。そうしないということは、少なくとも今は、私を政治的な道具にするつもりがないのだと思いました」
セレナは少し意外に思い、ユリアンの顔を見つめた。
「あなた、争いが嫌いなだけで、周りのことはよく見ているのね」
「何も考えていないわけではありません。ただ、家督争いに巻き込まれるのはもう十分です」
その言葉に、セレナは僅かに黙った。
自分には領主になるかどうかを選ぶ余地がなかった。父が亡くなり、家を継ぐしかなかったからである。以来、毎日のように帳簿を見て、兵を動かし、領民の暮らしを考え、隣領との争いにも向き合ってきた。
ユリアンが家督を欲しがらない理由も、少しは理解できる気がした。
「分かったわ。今日はゆっくり休んでちょうだい。明日からは客人として扱うけど、勝手な行動はしないようにね」
「承知しております。ご配慮に感謝いたします」
「本当に物分かりがいいのね。もう少しわがままを言う人かと思っていたわ」
「これ以上ご迷惑をお掛けするつもりはありませんので」
その答えを聞き、セレナは思わず小さく笑った。
「もう十分掛かっているけどね」
◇
客室を出たセレナは、廊下の窓から暗くなり始めた西の空を見た。雲の切れ間から僅かに赤い夕日が覗き、遠くの丘の輪郭を黒く染めている。
その向こうでは、エルンストとアルブレヒトが争い、コンラートは父を支えている。そこから逃げてきたユリアンは、兵も土地も家督も求めず、ただ静かな場所にいたいと言った。
しかし、本人が望まなくても、ヴァルツ家の三男という身分が消えるわけではない。彼を保護するという決定は、アルヴェイン領が新たな政治的問題を抱えることを意味していた。
「閣下、三男殿の滞在について、明日から城内の者にも必要な範囲で説明しておきます」
後ろから声を掛けてきたハロルドに、セレナは振り返った。
「お願い。客人として扱っていいわ。ただし、余計な噂が広まらないようにしてちょうだい」
「承知いたしました。客人として丁重に扱うよう伝えておきましょう」
セレナは数歩進んだところで足を止め、少しだけ振り返った。
「……迷惑な方の客人だけどね」
ハロルドは一瞬だけ口元を緩めた。
「その部分は、説明から省いておきましょう」
「そうしてちょうだい」
セレナは再び廊下を歩き始めた。
西の争いには介入しないという方針を変えるつもりはない。それでも、争いから逃れてきた一人の青年を追い返すこともできなかった。
領主になってから、正しい答えが一つだけ用意されている問題など、ほとんどないのだと何度も思い知らされてきた。あるのは、どの面倒を引き受けるかという選択ばかりである。
そして今回は、本人に悪気のない厄介な客人を一人、アルヴェイン領で預かることになったのだった。




